吉祥寺の教室にも新入生が
東京音大学民族音楽研究所の講座が思いがけない大盛況なのに負けずに、吉祥寺の民族音楽センター・民族音楽教室も新入生が続々入ってくれています。6月の体験講座からも2,3人正規の講座に加わってくれました。
例年ですと4月末〜5月前半が入会シーズンで、それ以後は秋迄新入生は少ないのがパターンでしたから嬉しい流れです。
TOKYO人権6月号の表紙にでかでかと!
東京都の外核団体、東京都人権啓発センターの広報誌の第26(6月)号の表紙と特集ページ(3ページ)で若林のインタヴューが取り上げられました。教室のマスコット・ボーイのチャメ君ももっと知りたい世界の民族音楽(東京堂出版)、朝日新聞についで三度目のお仕事を立派にこなして若林の膝にちょこんと座っております。
内容は先月のダイアリーでもご紹介しましたが、ちょっと今迄とは違った切り口の民族音楽観が紹介されています。都内の公共機関にフリーペーパー式に置かれているとのことですが、次の号が出る頃には同センターの公式サイトhttp://www.toyko-jinken.or.jpのバックナンバーに紹介されると思います。
現在は前号の明治学院大学教授、辻先生の「ナマケモノの話し」が楽しく掲載されています。辻先生の「スロー(昨今話題のスロー・フード、スロー・ライフなどの)」は「ゆっくり」じゃなくて「つながり」というお話は、このところ若林のテーマでもあり、7月に岩波書店さんに出して頂く民族音楽入門書のテーマでもあるので嬉しく拝見しました。
N.H.K.とギリシアが重なると
昨年のギリシア・オリンピックの前頃、突然TV番組制作会社さんから電話で色々なリサーチが有りました。昔はどこの制作会社さんも電話で情報を集めるというかなり無礼な方法が言わば当たり前だったですが、最近は随分少なくなったと思っていたら、N.H.K.さんの下請け会社にはまるで「天下のN.H.K.」みたいな感覚が未だあるのでしょうか、かなりの図々しさでした。
若林にとって最も悔しかったのはオスマントルコ支配下からナチス支配下に至る時代のギリシア演歌の流れと、戦後の右翼左翼の政権がせめぎ合いながら民族音楽をプロパガンダに利用した部分を一連の流れの様に紹介してしまう「早飲み込み」的な紹介法。 その中で如何にも虐げられた人々の代弁の歌の様に名曲を紹介して視聴者の関心を惹こうという体質にはかなりがっかり。
当時若林からギリシア弦楽器を学んでいて、現在は現地の考古学発掘事業に参加しているギリシア語通訳の若者のところにも同じ制作会社が歌詞の意味等をガンガン尋ねて来たそうで、それも後から勝手に日本人向けに変えられてしまったと嘆いていました。
そんな話を忘れた頃のつい先日、やはりN.H.K.さんの下請け制作会社から「古代ギリシア音楽」の特集で、若林が復元した楽器と若林のCDを用いたい、との話が有りました。もともと現地の音楽家で古代音楽の復元をしている人を捜していた様ですが、見つからなくて困り果てて若林の所にたどり着いた感じですが、CDの音源からキタラという竪琴の音だけを取出させ用意させた頃になって「予算の都合で」ってそりゃどゆこと?
芸大資料館に喧嘩売ったアフリカ在住日本人
この所ケニヤを中心とする東アフリカ関係の人からの同報メールが絶えません。もともとは若林の弟分、俵貴実君とその関係者さん達で、若林をこの7月に大分に呼んで下さるSさんや、夏前後に京都か丹波に呼びたいと言って下さるNさん、面白い所では昔若林からインド音楽を学んでいて一緒にインドにもご案内し、後にアフリカ通になられたO君なんかの同報返信も送られて来ました。
事の発端は、貴実君が何かのきっかけで芸大資料館の東アフリカ竪琴の表記の間違いを指摘したところ、何処の公共機関でも普通に行われるオフィシャルな返答に貴実君がキレた。というの様です。
若林的には彼の純粋さと音楽に対するクレイジーとも言えるのめり込み方、半端な日本人民族音楽演奏家に次々喧嘩してしまう辺りは絶賛とまでは行かなくても「やるじゃん!」という感じなんですが、そんな彼が初めて若林の元に現れた時に彼のちょっとヤバイ部分は既に見えていました。
「ケニヤから帰国した者だ、あんたは日本人じゃなかなか角に置けない人らしいから会いたい」的な連絡を受け、時間を決めて待っていれば遅れてやって来て「電車の中で礼儀知らずの小僧達と喧嘩したんで」と言う言い訳。ちょっとコロコロとした体格で気の短い彼はまるで「かんしゃく玉」「鉄砲玉」みたいなところがあるな、とは思っていたんですが。彼にしても資料館の学芸員さんを個人攻撃するつもりもなかったんでしょうが、引っ込みが着かなくなったところに、幼稚な暴言を吐いた様で、かなりヤヤッコしくなってるみたいです。
同報メールでも彼の喧嘩っぷりを賛辞する方から、彼を好き故に諭さんという方まで様々ですが、若林の場合、あまりに連日の長文に戸惑ってる内に、初めの頃に若林の名前が登場してるので、何らか反応しなくてはならないのですが「あれよあれよ」という感じで。
つい先日の彼との一対一のメールのやり取りでは相変わらず若林が現地情報や歌の意味なんかをリサーチして貰う等一方的に世話になってたんですが「なんとなく貴実も大人の対応が出来る様になって来たね」と誉めた矢先の今回の事。何が悲しいかって彼の言葉はまるで彼が青春を掛けて学んだ滅び行くケニヤの一部族の太鼓の「音数」と同じ位けたたましいんですから皮肉なものです。まあ、その裏表が無いところが彼の素敵なところなんですが「本物やってんだったら、もっと堂々としていようヨ!」なんて若林が言ったら貴実はもっと怒るだろうな。昔の若林を真似て喧嘩してるっぽい所もあるから。
かつての若林の場合「自分も好きでやってる」にも関わらず「好きなだけで、いい加減にやっている奴を許せなくなる」という感覚を自己解決出来なくなったのが「キレる」原因でした。
確かに公共機関でノホホンと給料貰ってスローに研究している間に、現地では真実が滅び、むしろ欧米や日本の研究者やコマーシャリズムがその破壊を加速しているという部分は有り、貴実君(若林も有る程度そうでしたが)の様に私財なげうって、青春やプライベートを犠牲にしてやってる者に「自己解決しろヨ」って言うのは酷な部分も有ります。が、最近では、最も批判されるべき対象は真実を見極めない日本の大衆であり、それには僕らも含まれるって考えてます。
貴実君はケニヤ音楽について、若林はインド音楽やアラブ音楽などについて真実と嘘のギャップを知ったからと言って、興味の無い事に関しては「日本人の大衆」の一役を担ってるかもしれない訳で。そんな事を若干考慮すればもう少し人に伝わる様に、喧嘩も上手にできたのでは?なんて思うんですが。
アフガン楽器の修理完了
先月の日記に登場するアフガン弦楽器のルバーブとキンは、日記に書きました様に先月末には修理完了していました。
双方が東京に居なかったので、
やっと鶴見先生と連絡が取れまして「折角弟さん、息子さんが若林と同じ高校ならご主人もいらっしゃる所にお持ちして、少しでも音を奏でてお渡ししたい」と申し出ました。
すると奇しくもご主人の出版記念会が6月10日にアジア会館で行われるので、スケジュールが会えばそこで奏でて欲しいという嬉しいお話を頂きました。
ご主人雁部貞夫さんはパキスタン方面(ヒマラヤや中央アジアも含む)の登山家であり、出版記念のご著書は雑誌「岳人」書かれた130編の書評をまとめた「岳書縦走」。まさか!と思いお尋ねしましたら、やはりご主人は、若林が大変お世話になり日本パキスタン協会の催しで演奏出来る様に取りはからって下さった応援者の一人、故広島三朗先生のお知り合いでした。
なんと日本パキスタン協会繋がりもあった!
広島先生(高校の先生でした)は、1997年の夏、カラコラム山脈の峰の登頂に成功した下山途中で遭難に遭われました。若林もT.V.ニュースで知った程大きく報道された事故でした。鶴見先生(短歌のペンネームでご本名は雁部輝子さん、高校の音楽の先生を退官されたばかり)のお電話の後、若林も会報にパキスタン民族音楽について書かせて頂いた日パ協会の資料を見ましたら、ご主人雁部貞夫さんの論文が広島先生とならんで掲載されていました。鶴見先生と若林が修理させて頂いたアフガン楽器とは、都立豊多摩高校繋がりどころではなかったのでした。
ところが鶴見先生より、当日の式次第をファックス頂いた翌日。アジア会館の経営方針が変わり、レストランでの音楽演奏は一切禁止されたので「ごめんなさい、残念ながら今回は」という悲しいご連絡を頂きました。
アジア会館と言えば、1980年代の初頭、若林が初めて在日インド人やパキスタン人の音楽ファンの歌う民謡を伴奏させて頂いたり、つい数年前もアフガン空爆の際のアフガン夫人の会で飛び入り演奏をさせて頂いたアジア国際交流の中心地であった筈の場所です。当時、日パ協会のオフィスもそこに有りました。来日ミュージシャンの追っかけレッスンでも数回訪れ、宿泊部屋で楽器を鳴らして学んだ場所です。
その想い出の場所で、二度と民族音楽を奏でることが出来なくなったのも大変残念でしたが、鶴見先生の「申し訳ない」という悲しいお声が逆に申し訳ない思いでした。
人間社会は時代とともに発展し、豊かになっている筈の様でいて、実は逆さまなんじゃなかろうか? と感じさせる出来事でしたが、それもこれもインシ・アッラー。きっと何処かで良く成っている流れもある筈で、そこで再び鶴見先生の楽器を奏でる機会もある筈です。
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