2005年5月ダイアリー  
  5月1日(日) タンポポのメッセージ 5月3日(火) 取材などなど
  5月4日(水) キイ・パーソンの誕生日会
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5月10日(火) 懐かしい味嬉しいお電話
  5月12日(木) 中学校の教材に 5月14日(土) 嬉しい出会いと都立校繋がり
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  5月18日(水) インド音楽話〜日々のこと。 5月20日(金) アジアン特急第二弾
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  5月24日(火) 久しぶりのサントゥールLive 5月25日(水) キリギリス達の春
 

5月26日(木) Life&Music第一回の集会!
   5/28カズノリ君の写真を追加

5月28日(土) アフガン楽器、大分、教室

5月1日(日) タンポポのメッセージ
   実際に頂いたのは4月29日だったのですが、出張のため拝見するのが遅くなった、このHPのGupifan掲示板に、先月24日に横浜で行われたTogether!ピクニック「子供太鼓ミニ・ワークショップ」の参加者さんからの大変嬉しいお便り「タンポポのメッセージ」
  若林の演奏が終わって、太鼓を間近に見たい子供と父兄に囲まれている時、お母さんに抱き上げられたお嬢さんが、そっと若林に摘んで来たタンポポを手渡してくれたのですが、そのお母さんのお便りによると、お嬢さんは太鼓が大好きで、その日の演奏も初めの内は大喜びだったのが、人が群がるにつれて気持ちが引っ込んじゃったんだそうです。それでも「太鼓の先生にタンポポを上げる」と言ってくれたんでしょうか、若林にはちょっと照れ屋さんくらいにしか思えなかった位ですから本当に渡してくれたかったんだと思い、嬉しく受け取って吉祥寺まで持って帰りました。
 お母さんのお便りを拝見して初めて分ったことに驚かされましたが、お母さんが撮ってくれたビデオをお家に帰ってからとても喜んで観てくれたという話を聞いて、太鼓の音楽が彼女の心に届いたのかと思うととても切なく、でも嬉しく思いました。
 お便りありがとうございました。大変励みになりました。

5月3日(火) 取材などなど
 

人権啓発センターの取材
 今日は東京都人権啓発センターの6月の会報の取材を受けました。同センターは東京都の管轄の元に置かれ、在京の外国人をはじめ、様々な理由で人権が十分に保護されていない方々の救済、生活向上、都民の理解、交流、などを目的に活動をされている財団で、専門員の坂井さんと鎌田さん、ライターの山川さん。マネージャーの川村さん、カメラマンの平賀さんの総勢五名が狭い教室にひしめき合いながらも楽しい有意義な取材をしてくれました。
 取材が有意義というのは、日頃このHP以外に何も出来ていない若林の広報活動を強力に応援してくれるからである事は言う迄もありませんが、取材のプロデューサーの坂井さんの質問の主旨が非常に面白く、その結果若林自身も大いに刺激を受け、勉強になったので、今回は特に得る物が大きかった、ということです。
 取材が終わってから聞かされ、そして
驚かされたのは、坂井さんは先月後半に行われた朗読の西島さんと若林のコラボレイト・コンサートに聴衆として来て下さり、さらには部下の鎌田さんを連れ添って先月末の青山ナタラジのアフガン音楽ライブにも来て下さっていたと言う事です。西島さんのお知り合いなのかと思えば、そうではなく、若林を取材対象にノミネイトした段階で「事前に演奏を聞いてみよう」ということだった様で、初めてメールで取材要請を伝えられたのは、西島さんの会の翌日でした。すなわち、その日の若林の演奏と語りに興味を持って下さって、取材を決定されたということになりますから西島さんに感謝、若林が良い演奏を出来る様に応援して下さった方々に感謝なのです。
 取材対象のありのままを客観的に観察し、取材方針を固めるという坂井さんの独特な手法の様でしたが、取材要請に若林がメールで宜しくお願いしますの返事をお伝えした翌週のナタラジ・ライブにも来てくれながら、若林に声を掛けてくれなかった話を「興信所みたいじゃん」と気分を害する人も居るかもしれませんが、なんだか若林流な発想に面白くなってしまいました。
  言われてみればカレー目的でもなさそうで、お友達にも、上司と部下にも見えない(私服の鎌田君は学生風だった)オジサン(と言っても若林よりお若いですが)と青年の組み合わせには演奏中気になっていたのです。なんだかそんな普通の取材とちょっと違ったところも、今回の取材の「意味深さ」の布石だったのかもしれません。
取材で気づいた事?
 取材は、「どうして民族音楽に興味を持たれたのですか?」に始まり、著書「世界の師匠は十人十色」(ヤマハ・ミュージック・メディア)に有ります様な「ピアノ教師の母、元俳優の父」の下でどの様な価値観を育んだか、などなど何時もの取材同様の話から始りました。が、人権啓発センター会報ならではのテーマに基づく質問「在日の外国人とのお付き合い」も珍しいところに坂井さんならではの観点「何故そんなに沢山の楽器、複数地域の音楽を学ぼうと思われたのですか?」などあまり聞かれなかった話。さらにライターの山川さんから出た「この教室に別々に来られたコンゴ人、キューバ人、インド人の演奏家が異口同音に『懐かしい』と言ったのは何か世界共通の文化の流れなんでしょうか?」という初めての質問(ツッコミ)には若林自身がびっくりしてしまいました。
  びっくりしたの理由の一つには、今迄この話しに突っ込まれた事がなかったので、一歩進んだ返答を「用意」していなかったのです。この事で自分も認識出来たのですが、若林は自分と音楽との出会いや、音楽に対する考えを取材の度に「言葉」にして「取材用」にストックしていたということなんです。
なぜ多国籍な民族音楽演奏家に成ったのか?
 「何故民族音楽演奏家に成ろうと思ったんですか?」という質問に対しても、何時民族音楽を好きになったのか、何時辞められないほどのめり込んだのか、何時プロの演奏家に成ろうと思ったのか、何時自分が演奏家であると自覚したのか?は「分からない」が本当のところなのです。 でもそれでは取材に答えられませんから、取材を受け続ける中で人に伝わり易い答えを言う様になって行ったのでしょう。
「何故そんなに多くの地域の音楽と多くの楽器をお一人でやられるのですか?」という質問に対して、今迄は「自分がアンサンブルの全ての楽器を学んで、日本人メンバーに教えなくてはならなかった」「地続きの国々の音楽はお互いに関連が有る」などと言い「なるほど」で終わっていたのです。ところが今回の取材で坂井さんが「なるほど」と言ってくれなかった御陰で、若林自身もが初めて知る自分のより本質的な答えに辿り着いたのです。
 若林を特集取材して頂いたTV東京の「ドキュメンタリー99」の番組ラストで「こんなに沢山の異なる国の音楽を演奏するなんて、随分オープンな方で、こだわりや変なプライドが無い方ですね」と女子アナさんが感想を言うと、コメンテイターさんが「いや、それは違う。かなりこだわりとプライドがしっかり有るから出来るんだよ」と言われた事がありました。「へー!そうなのか?」と思いながらもあまり好きじゃない「プライド」という言葉に心が動かなかったのかもしれません。
用意しない言葉が次々と
 ところが奇しくもつい先日応援者のお一人に「若林さんは、かなり深い所で、確固たるポリシーをお持ちで」と言って頂き、遅ればせながらその時に改めて「へー!そうなんだ」と自己認識したのです。 それから数日も経っていないにも拘らず。今回の坂井さんの鋭い突っ込みに、今迄言った事もなければ、言葉の用意も全く無いにも拘らずスラスラと答えている不思議な自分が居ました。
  「音楽様式の違いは、言語の違いの様なものではないでしょうか」「言葉の奥には心が有る様に、様々な音楽の奥にある心と自分の核に有る何かとのコミュニケイションが楽しくて、色々な音楽を.........」と自然に答えているのです。
 ライターさんの質問に対しても「確かに『音楽には国境は無い』と言われる様に世界共通の感性も有るかもしれません」「が、その一方で日本人が自分の風土には無い見渡す限り地平線のモンゴルに『懐かしさ』を感じる『DNAの記憶が呼び起こす?』様な不思議な感覚も有るかもしれません」「が、僕はそれとも又違った『何か』をコンゴ人、キューバ人、インド人演奏家が感じたと思います」と語り出したのです。
『田舎』『故郷』の特別な個性
「この教室に来たコンゴやキューバの国を代表する楽団のメンバー。すなわちエリート音楽家は、始め『村一番』の音楽才能を買われて街に出て音楽を本格的に学び、後に『街一番』に選ばれ、更に修行を積んでライバルに勝ち国の『代表メンバー』に選ばれ海外公演に出かけた、恐らくそれを逆に辿ると見えて来る生まれ故郷の村の『種々雑多』な個性をこの教室に見て『懐かしい』と言ってくれたのではないでしょうか?」と答えたのです。
 村の学校には。スポーツが得意な子、 音楽が得意な子、勉強が得意な子、 またはその逆な子が雑多に集まって仲良く楽しく過ごしていたのでしょう。そこにはお母さんも居れば、伯母さんも、おじいさんも、赤ちゃんも居る。動物も、鳥達も、昆虫も。それこそが「民族音楽」の原点であり、本当の「現場」の筈です。
若林の教室の風景は正にそれだったのです。でも彼らがそれを『懐かしい』と言うのは何故なんでしょう。彼らの日常の音楽の現場でも「失われつつある」感覚なのでしょうか?
村の子供のままの民族音楽演奏家
 坂井さん達取材スタッフがお帰りになった後のことです。皮肉な事に久しぶり長く一緒に居るにも拘らず猫毛アレルギーが再発し寝られない日々が続いていたので、かなりの無理無理ハイテンションで取材に応じた反動でしょうか、ボーっと何もまともに考えられない状況で教室で大の字にぶっ倒れながら、ひとつのことはしっかりと頭にありました。

  「核がひとつしっかりしていれば、その枝葉の違いはより色々あった方が面白い、楽しい、暖かい」
 今、この日記を書いて思い出しましたが、世界各地の民族音楽演奏家でもその「核」を感じさせてくれない人が少なく無く、悲しい事にそういう人の多くが「枝葉」も見た目の違い、技術や習慣の違いばかりで、若林の好きな「色々な暖かさ」になってない。 若林の教室を訪れた演奏家は、皆さん若林が「是非教えを乞いたい」と思った程の素敵な演奏家でしたから「核」も「面白い枝葉」も楽しく素敵にお持ちでしたが、エリート演奏家に成る過程、メジャーな演奏家に出世する過程で『村の子供』の感性を捨ててしまった人と、捨てずに大きくなった人の違いなのかなあ。という新しいテーマも浮かんで来ました。
 もしかしたら若林がどかんと表紙?のその号は、東京都内では無料で何万部単位で配られるそうですが、残念ながら地方には自治体の関係部署に送られるだけとのことです。坂井さん達スタッフの皆さんありがとうございました。
写真は坂井さんとカメラマン平賀さんのご好意で頂いたポラ試写を使用させて頂きました。

5月4日(水) 子供会のキイ・パーソンの誕生会
   5月4日は、昨年品川区教育委員会主催の「子供パーカッション・ワークショップ」で現地スタッフでお手伝い下さり、その後、大田区大森高校定時制の授業での若林のアラブ音楽レクチャー・コンサートを企画・実現して下さったN.G.O.関係、教育委員会関係のキイ・パーソン小関さんの誕生日会に呼ばれて民族音楽Birthday-Songを演奏して来ました。
 場所は、大森駅前の川端康成、 北原白秋なども集ったと言われる馬込文士村の地中海レストラン「SAMASAMA」丘の上の一角丸ごとと言う感じで地下のお店ですが、良く良く考えてみれば大森駅から見ると、丘のの中にお店が有る感じでしょうか。鴨、和牛、若鶏のメニューも好評だった様ですが、若林が食べられるシー・フードが中々美味しく最近羽田から各地に飛ぶ事が多いので「良いとこ見つけた」という嬉しいお店でした。
写真: メキシコ・マリアッチ風「バースデイ・ソング」に涙ぐむ主役

 小関さんは、ご自分の誕生会と称しながら様々な活動をしているお仲間を繋ぐ会を人生の節目を口実に作られている感じで、若林にとってこれから増えて行くことを期待される教育関係、特に各地で行われる子供会、キャンプでの「民族音楽ワークショップ」の人脈を広げる良いきっかけになると思い出して誘って下さったのでした。
 御陰さまで小中学校子供キャンプ のジュニア・リーダーの集まり、都主催の洋上セミナー関係、国際青年の村、大田市民在日外国人N.G.O.関係の方々をご紹介下さいました。中にはタイ山地民族の村で「ニワトリ小屋作り」のボランティアをされたグループも有ったり、誕生会とは名ばかりで、各団体が出来ない横のつながりを作る貴重な集いでした。若林のHPのURLも載せて下さったプログラムを作られた貴重なプロのマック・ユーザーさんともお知り合いに成れたのも大変ありがたいことです。写真:「民族音楽国当てクイズ」の正解者はその国の打楽器をその場で学んで共演。
 若林は、お正月名物「染之助染太郎コンビ」で有名な「太神楽 」の鏡味仙三さんと共にアトラクション・ゲストで呼ばれ、「カリブ民謡のオープニング」「メキシコ風Birthday-Song」と「民族音楽国当てクイズ」お客さんに民族打楽器を指導しての大合奏を担当しました。国当てのアイディアは中々上手く行き、正解者さんが前に出て打楽器で共演して貰ったりの、タモリ・クラブでも少し試したこのアイディアは今後のイベントの定番になりそうな感じ。楽しく有意義な午後でした。
 小関さん、早速お便り下さった仙三さん、細野さん、ありがとうございました。 写真は5月25日小関さんより頂戴致しました。アラブ風「三三七拍子」で盛り上がる。
5月10日(火) 懐かしい味、嬉しいお電話
 

 5月は先月の演奏会ラッシュに比べて、ちょっとお暇な不思議な月。新たなプロジェクトの準備や、採譜、楽譜書き、楽器直しは相変わらずの日常ですが、想いも新たに充電の月の様な感じも有ります。最近はお天気もちょうど良く、昆虫の孵化も大騒ぎにはならず、じわじわっと期が熟す感じが嬉しい今日この頃です。
 そんな長閑な昼下がり、福岡の応援者さんからの大変嬉しい贈り物。久山町「椒房庵」さんの「数の子めんたい」を昨日は暖かいご飯で頂きましたが、今日パスタに混ぜて頂いたところ、明太はパスタに絡み付き、数の子は独立して味わえて絶妙な味を再認識。嬉しかったのはここ数十年、東京で味わえなかった若林の母の実家のお正月の味との再会でした。若林が過酷な子供時代を送って来たとなんやかんや言いながらも何処かでおぼっちゃん気質を保って居られたのは、母の実家の応援と年に数回親戚が集う時に暖かさと楽しさ嬉しさをたっぷり貰っていたからに違いないんですが、「椒房庵」さんの上品でありながら野趣に富んだ香り豊かな数の子は、母の実家の京風の味付けに近いんでしょうか、良き時代の懐かしい味を思い出させてくれました。ありがとうございました。
 そんな嬉しい気持ちで教室に行けば、チャメも元気で甘えてくれて、
楽器のご相談で見えた方が、そのまま生徒さんになって下さったと思えば、またまたシリーズ。珍しく平日の昼間に教室いて取った電話が、九州つながりの熊本から。
 アフリカ木琴のバラフォンを入手された方が、楽器店で「教えてくれるところはないか?」と尋ねられたところ、楽器店さんが若林のHPの読者で、きっとこの日記迄も読んでくださったのでしょう。「東京の若林という人が、ちょくちょく福岡迄は来てるらしい」と教えてくれた、と言うのです。「先生が福岡にいらっしゃるのでしたら、是非その時にレッスンして下さい」とのお話でした。熊本からわざわざ福岡迄というその方のお気持ちも嬉しかったですが、楽器店さんが日記迄読んで下さっていたことも大変嬉しく思いました。

5月12日(木) 中学校の教材に載るかも?
 

中学校の民族音楽教材の新たなプロジェクト
 今日は若林にしてはかなり早い時間の午前中に千葉は銚子からわざわざお越しの中学校の音楽の岩井先生にアフリカ太鼓合奏のレッスンをしました。
 先生は現在千葉大教育学部の委託研究生として中学校向け民族音楽教材の開発事業に拘っておられる方です。何故現場の先生達が苦労しているかについての貴重なお話を頂きながら、若林が感じていた事もあながち外れじゃなかったなと思いながら、色々思いついた事を申し上げましたところ、嬉しい同感を頂き、意気投合してアフリカ太鼓のレッスンを。教材を作る方ご自身が太鼓を叩き「そうじゃなくて手の形が」「師匠の手を見て自分の手の様な錯覚を感じながら学べ」などときつく言われながらの姿にはこの様な方が増えることを重ねて行けば日本の教育も変わってくれるかも、という嬉しい期待が生まれます。
 若林は福島県、千葉県、新潟県、静岡県の高校音楽教員部会の研修に何度も講師に呼んで頂き、小学校も各地を回っておりますが、それらに比べると何故か中学校はご縁が少なかったのですが、岩井先生のプロジェクトではDVDの映像も考えてらして、若林のデモ演奏も収録されるかもしれないということで、嬉しいコラボレイションとなりそうです。★アフリカ太鼓合奏の面白さは新コーナー「民族音楽の魅力」に書きます。
中学校と言えば若林の音楽の原点
 勉強嫌いの中学生のお子さんに苦労されているお友達が居まして
「若林も二年生迄最低で三年生で急に勉強し出した」と言いかけながら、「それでもこんなもんか」じゃ励ましにもならないので「アインシュタインやエジソンもそうだったらしい」と。
 若林は何故に二年生まで勉強嫌いで、三年生になって急に勉強したのか? 振り返ってみるとカリキュラムと教え方の相性の問題があったのではと思うのです。
 今と当時じゃ随分内容も違うでしょうが、若林は世界史と明治維新などの日本近代史に触れる社会、言語学的な雰囲気も味わえる国語は大好き。が、他は全く興味なしでした。
 小学校では大好きだった理科ですが、科学にも化学にも 大嫌いな数学が入って来て、生き物好きなら得意な筈の生物が、むしろ過酷な解剖の世界。気象にも数学が。英語もゲルマン系の複雑な言い回しが多く成ればつまらなくなる一方でした。ところが三年生になると数学でさえ空間感覚が試される図形で数字嫌いが救われて成績が上がり、理科は実験が面白くなりと、一気に勉強が楽しくなったのです。当然逆のタイプの人は二年生で良かったのに三年生で下がった、という子も居たかもしれません。その意味ではどうして教科全体を見渡して「感性」「記憶力」「想像力」「数字」のバランスが取れる様に構成しないのかが疑問です。加えて言えば、 意味も説明せずに覚えることが多過ぎ。中学生と言えば一番想像力が育つ時だと言うのに「何故?」という質問を許さないペースで暗記させられていてはアナログ人間には過酷なものとなるように思います。今だったら、アナログ人間用に表を作って組み合わせ的に英文法を理解するとか(表が絵や図っぽいとアナログ人間はその図を思い出す)、原子記号もラテン語から調べて覚えればなんとなく歴史っぽくて面白い、とか考えられるんですが........。「硫黄はS」とか言われても「何で?」って感じで全然面白くなかったんです。なまじ回りが必至になって原子記号を暗記してたりすると「一抜けた〜」の気分でした。
 もしかしたら民族音楽が中学校からのお誘いが少ないのも、実技偏重の中学音楽教育のなかなか厳しい事情もあるのかもしれません。逆に言えば、感性を押しつぶすような中学教育の場だからこそ民族音楽が役に立つかもしれないのですが。
  若林の様になまじ小学校で伸び伸びと好きなことやって楽しかった子は、中学に入って現実の厳しさに直面してしまうんですが、
やっとの思いで一年頑張って二年生になって非アナログ的カリキュラムはけっこうきつかった記憶があります。それでも捨てる神あれば拾う神ありで、多感な時期ですから何か感性を刺激するものと必ず出会えて、自信もつけばやる気も起こるという感じで、民族音楽と出会えたのも中学生の時でした。

5月14日(土) 嬉しい出会いと都立校繋がり
 

美しいアフガン弦楽器の修理を任される
 このところ、若林が珍しく教室に居ると不思議に新しい出会いに繋がる方からのお電話を受けます。先日は、アフガニスタン関係のイベントで前に若林の演奏を聴いて下さったという鶴見さんからお電話で「パキスタン北部で買ったアフガン弦楽器を弾ける様に修理して欲しい」というお電話で、今日の夕方教室にお持ちになりました。楽器は若林の最も思い入れの深い弦楽器のひとつアフガン・ルバーブと、インド系の一弦琴「エークターラ」なんですが、後者はパキスタン遊牧民に伝わって複弦に鳴った上にアフガン・パシュトゥー遊牧民のごてごての象眼細工がある極めて珍しいもの。今月は演奏の仕事が少なかったので、修理の仕事は助かるな。と思いつつも、思い入れのあるアフガン楽器の修理は気楽じゃありません。どうしても修理屋の責任以上の手間ひまを掛けてしまうからです。
写真:左。早速5/18修理開始。全ての弦と糸巻を取り外し、指板の象眼に細心の注意を払って剥離。指板の陥没が最大の問題点。隙間には埋木がしてあり製作者が苦労した後が伺えた。

 お話を伺えば、鶴見さんは最近都立校の音楽の先生を退官されて、やっと暇が出来て旅の想い出の品を見てみれば、弦も錆びて、ヒビも入って楽器が可哀想だと思って下さったとのことでした。鶴見さんは「ターバンと髭」という歌集を柊書房さんから2003年に出版されていて、今日その歌集を若林に下さりました。音楽の先生らしく、サティーやマーラーといった現代音楽の作曲家についてから、アフガン難民に至迄、幅広い歌集で、99年にパキスタンとアフガニスタンの国境の辺境州を旅行されたエッセイの項には現地民謡の採譜迄。出版記念会はやってないとのことで、今回お預かりした楽器が見事に直ったら、若林がそれを奏でて、記念会をやれたら良いですね!と嬉しいお話をしました。朗読はされないと言うので朗読の西島さんにお願い出来たら素敵だな。
 実は応援者の方につい先日「日本語で歌ったら良いかも」と言われ、そう言われてみればそろそろその時期かな?とその気になっていたところに、歌集が。もっとも中々辛辣な内容なので、そのままという感じではないんですが、これも何か大きな流れの現れの様な気がします。
  その応援者さんはかなりに都立高ノリの方で「遊びと洒落の感覚」がむちゃむちゃ近い方なんで、その方が言うと「だよね」っていう感じで「す〜っと」お話が実感出来るんです。って都立高ノリとか言われても確か私立校のご出身のご本人にも、全国各地の皆さんにもピンとこない話ですが、同族には分る「何か」なんです。とりあえず直ぐにご用意出来る言葉は「育ちの良い不真面目?」「頭の良いお馬鹿」って感じなんですが。これじゃ駄目ですよね。ごめんなさい。
 鶴見先生は、三十八年の教員生活の最後は都立戸山高校とおっしゃられましたが、若林が「僕は豊多摩です」と言うと先生の弟さんと息子さんが同じ都立豊多摩だというのでびっくり!若林より10歳ほど上下のお二人ですが。そんな不思議なご縁と、アフガン楽器に寄せる想い。(なんとパキスタン山岳地帯の弦楽器も二本壊れてお持ちというから、そんなに沢山よくぞ持ち帰られたと感心させられます)を込めて託された楽器。早速心と気を込めて修理に取りかかりたいと思います。
今日も楽しい豊多摩高校同窓会インド太鼓クラス?
 チャメが玄関までお見送りして鶴見先生がお帰りになった後、ひとクラス挟んで、通称「おやじタブラ・クラス」。牧野氏のご本が無事に出版されたので久々の全員集合で若林も朝から豊かな気持ちの一日でもあったところに、アフガン楽器を託された光栄に気合いを入れて充実のレッスン。シタール・クラスが珍しく欠席者が多かったので、休憩を頂いたのも良かったかもしれません。
  「おやじタブラ・クラス」は皆さんお仕事が多忙な上に、20歳代の若者程には習い事が楽じゃないですから、手先はひいこら言ってますが、理解力とリアクションは最高な生徒さんで、若林ならではの技術論に嬉しいうなずきと憎い質問を投げかけてくれます。その内二人が、なんと若林の数歳上と数歳下の豊多摩高校出身なんです。同じ都立高でも、正直言って豊多摩高校は、進学校でもなけりゃスポーツが優秀だった訳でもなく、学力も中の中という感じで、数有る都立高の中でもパッとしない学校でしたが、どこか伸び伸びとしていていい感じの校風がありました。
 牧野氏は、新著「レゲエ入門」(音楽之友社ON BOOKS21)の出版を記念して
「Jamaica通信」というHPを立ち上げました。みなさん是非遊びに行って下さい。
http://www.geocities.jp/jamafrica_makino/です。

5月18日(水) インド音楽話し〜日々のこと
 

「心を彩る音」
 インド古典音楽は仏教〜ヒンドゥー教寺院音楽の時代に、高度な科学に発展し、元祖音楽療法や、インド哲学とも結びつきました。その三大柱は音の動きを司る「旋法ラーガ」輪廻の様に繰り返される時間を司る「拍節法ターラ」そして様々な時代背景を反映する「演奏法」ですが、「インド音楽三千年の歴史」の中で「ラーガ」の観念が比較的後世に確立したことは意外に知られていなかったり忘れられています。
 「ラーガ」の字義は「心を彩る」と言われ、単純に言えば「音の動きは人の心に作用する」という事ですが、紀元前にインド古典音楽理論の基本が出来ながら「ラーガ」の観念が確立するのは10世紀前後で、同じ時期にインド音楽に強い影響を与えたのは、ヒンドゥー教音楽における「神への献身」を「愛」で理解する思想と、ペルシア・アラブの甘美な芸術音楽でした。つまり音の動きが人間の心体に影響を与えることの科学としても研究された音楽に「愛」の感性が加えられたとも言えるのです。これも若林が昔から「インド音楽演奏家たるなら色っぽくなくてはならん!」と言っていた所以のひとつでもあるんですが。
 最近のインドの演奏家でも「ラーガ」が変わってもその風合いさえさほど変わらない人が少なくないので、日本では中々理解も評価もされませんが、弦楽器シタールの演奏家の「色っぽさ」のみならず、共演の太鼓タブラの演奏家にも当然それは望まれる筈ですが、中々そこ迄の人は得られません。実際は同じラーガの中でも様々な様相、変化があるのですから、このジレンマは尚更です。
ラーガは多重人格
 インド音楽のヒンドゥー演奏家はしばしばラーガを人格化します。「精」と言った方がより正確ですが、正しく演奏するとラーガの精が降臨してくる感じです。が、そのラーガ自体がかなりの多重人格なんです。
 アジア各地の文化を吸収したインド音楽は、さらに科学的考察を執拗に行い、オクターヴの12の半音を順列組み合わせで五音音階、六音音階、七音音階やそれらの複合を含め、中心音(主音)や副主音、開始音、終止音、定型の動き、装飾音の付け方でも違いを見い出し、数百、数千のラーガを考案しています。そしてそれぞれのラーガが十種の感情「ラサ(源)」をひとつ以上持っているのですが、実際演奏する立場から言うと、ラーガを理解すればする程その多重人格性の深みに驚かされます。
 実は若林はかなりに多重人格(的)と思われていますが、もしかしたらインド音楽を思春期の中学生に始めた影響でしょうか? 否、インド音楽のこの深みについて理解出来たのはつい最近ですから、不思議なもので、インド音楽の理解と人間としての成長が同調していたのかもしれません。社会的にはかなり幼稚と酷評が絶えませんが。
 しかしこの多重人格もラーガの科学と、それぞれのラーガの全体的な個性、本質(プラクリティ) をしっかり把握していれば何の問題もなく、むしろ多重人格性を表現出来る様になればなるほど、即興演奏は深みも面白みも出て来るし、演奏も果てなく続く様に思えるのです。このラーガの音についての若林ならではの見解は、このHPの「民族音楽の魅力」http://www.musiqageet.com.live.music.htmのページに分り易く、ちょっと詳しく書きますのでご覧下さい。もっとも旋法ラーガの本質に迫りながらも、自分の方はおざなりになってるんじゃ、しょうがないんですが。
多重人格賛美
 ここで「インド音楽演奏家 たるや色っぽくなくちゃ駄目」に続いて新たな極論を提言すれば、「インド音楽演奏家は大いに多重人格(的)であれ」です。
  前者は、インド音楽の旋法ラーガが「心を彩る」であるならば、「心」を捕らえる感性が豊かであるべきであり、それを表現する力も無くてはならない事も意味しています。その意味では喜怒哀楽の表現も豊かで、人のそれを感じ取る力も豊かでなくてはなりません。人が誉めてくれない(どころか性格破綻者的に言われる方が多い)ので自分で言いますが、若林は自分のバロメーターとして「貰い笑い」「貰い泣き」(先日のアジアン特急2005の旗揚げイベントでは「貰い緊張」までして生まれて初めて緊張してインド音楽を演奏。その後直ぐにラーガの世界に入りましたが)している間は「大丈夫」「インド音楽演奏家として良い状態」と安心します。しかしながら当然デリケートな訳で、傷つき易い部分もあれば、怒りっぽいところも有る訳で、それが顕著ならば人は「性格破綻」「訳分らない」「多重人格」と言われるかもしれません。でも12の音の様々な性格と、互いに関連することで相対的に生じる新たな性格をより深く強く表現する為には「多重人格最高!」と言い切りたいのです。
 ところが、一方で感性が豊かで、受け取る感受性も豊かであれば、当然「影響も受け易い」となりますから、「感性が閉じた」「人格が固定した(ある意味で落ち着いた、大人な)」人が回りに居ればその「多重人格性」は押し込められてしまい、「喜怒哀楽」も「浮かれ、イライラ、悲しみ、怠惰」に変質して来てしまいます。ですから若林の様な「多重人格賛美論者」は回りに「多重人格(的な)者」や「性格破綻者」を置くべきなんでしょう。インド音楽を演奏するしないに拘らず。

  その意味では、日本人の演奏家は世界的に見ても真面目過ぎて色気も無ければ性格もまともで、せめて演奏が始ったら変貌してくれるならまだ良いのですが、その人の性格のままで丁寧に演奏されても「なんだかな」と思ってしまいます。
「スパッ」と切る勇気
 何かの機会で人の演奏を聴く場合、勿論端からけなしの気分で聞く筈もなく、むしろ良いところを探そうと頑張ります。せっかくの時間ですし、自分の勉強にもなるし、同じ音楽を志す人が、自分と異なる価値観であっても何か素敵なところは有る筈だ!と。 ところがある演奏会で5分聞いて「こりゃ駄目だ」と思っても良いとこ探し続けたり、退席したら気を悪くするだろう、とか思って我慢して、でもあまりに酷い呼吸法でアーラープ(前奏曲)を弾くので、気分が悪くなりロビーで沢山呼吸したらあわや過呼吸になりかけうずくまったこともあります。5分で「スパッ」と切っていれば.........。と悔いました。
 若林は20年続けて来ました民族音楽ライブスポットのアルバイトでも、25年になります民族音楽教室でも「来る者は拒まず」を貫いて来ました。これは基本的には人との出会いには必ず意味があるのだから、それを現代日本の自分の現況の価値観で拒むべきか?という意識に固まっていたからですが、中には第一印象で「マズイかも」と思いながらやっぱり.......、食材が減るとか、貸した楽器は戻らないとかはましな方、くらいな事になったこともあり、「これも教訓か」と思っても後に生かされもせず。なんだかなあ。という感じも少なくありません。これも自分の「観念」「意識」に従ってやった事ですから自分の責任ですが、未だにこれに変わる「観念」「意識」は得られていません。
 人には「あんな人達を入れたら本当の味方も離れて行くヨ」とも「貴方が大切にしたい、守りたい、育てたいと思っている物や人まで苦しむよ」の様な事も言われました。「良い仕事していて当然の評価を得ているな」と若林が尊敬する知人の多くは、「第一印象で駄目!と思ったらスパっと切る」「何かで駄目と判断したら二度と近寄らせない」とはっきり言います。その方から見れば、若林の愛情は「結局は自分が可愛いから人にも優しくして欲しいから鬼になれないんじゃない」と呆気なく言われてしまうのです。「それとは違うんだけど......
」と思いながらも反論するほどの言葉はありませんでした。
  また別なところで「人はその人の状態(成長度や自己認識度)に応じた人間との付き合いをする」言わば「類は友を呼ぶ」的な観念で若林を聡そうとして下さった方も居ます。そう言われてしまうと反論出来ない思い当たることも多いのですが、じゃあ自分が変われば、尊敬する仕事ぶりの人達の様に「スパっと切れる」人間になるのか?というとそうでもないような気もします。と言いますのも「第一印象でその人の嫌なところを見抜く」のか「良いところを見取る」のか、によって大きく変わってくると思うからです。前者が出来れば今でも「スパッと」が出来るような気がします。若林がロマンチストぶり過ぎるのでしょうか、「両方上手く」って中々出来ません。が、「音楽を教えること」が「情報提供で終わりたくない」と思ってしまえば、ついつい後者に偏ってしまいます。忠告を下さった方には歯がゆい思いでしょうが、若林は今だにこれについては結論を出したくない心境です。
割愛と言う言葉
 インド音楽の旋法ラーガは、12の音から最少で五音、最大で十二音を選んで用いますが、選ばれた音「アヌヴァーディー・スワル(音)」の他の「選ばれなかった音」には「ヴォルジット・スワル」と「ヴィヴァーディー・スワル」の二種類があります。前者は「割愛音」で後者は「敵音」なんです。極論すれば、前者は間違ってかすってしまっても許されますが、後者は如何に数十分以上も良い演奏をしていてもかすった瞬間にその旋法ラーガの演奏はおしまいになってしまう音です。耳の肥えた聴衆なら席を立つ筈です。こんなシビヤなインド音楽をやって来ているんですから、これが人間関係でも上手く分別出来るようになったら何の問題もないんでしょうが。
 でも、結局は「スパッっと切って」しまうのに「割愛」という言葉の字は優しいですね。飼いたくても飼えない野良猫の背中に当座の餌をくくり付けて「頑張れよ」みたいな感じもします。(若林の場合野良猫にそれが出来るか?というと疑問ですし、だいたい野良が素直に荷物をくくられる筈もなく)。
 
「与える」という観念には抵抗がありますが、人から貰った愛を割ふって「さよなら」する感覚でしょうか。
 かつては、その人の勿体無いところを諭す役目をやってしまい、結局は恨まれる側になってしまいましたが、最近ではそれだけは辞めようかな、と。なんて去年も一回在った様な。もっとも本人が、こちらの真意を理解してくれていれば、怨みもしないんでしょうが。なかなか...........。だから勿体無いんですが。
  とりあえずは、この「割愛」の字面にすがって「せっかく良いとこもあるんだから、どっかで気づきなネ」と愛を割与えて...........。かな。

5月20日(金) アジアン特急2005第二弾 ベリーダンスとオリエンタル音楽
 

御陰さまで第二弾も大盛況
 今日は、吉祥寺の民芸品店、日本の西域諸国民芸の草分け「はるばる屋」さんと提携して行っているアジアン特急2005の第二弾イベントが、旗揚げ公演と同じ吉祥寺西部のタイ料理店の地下「スタジオ・アムリタ」で行われました。
 前回の東と南のインド古典舞踊と若林のシタール演奏に対し今回はナミーさんのベリー・ダンスと若林楽団のアラブ音楽、部分に若林のトルコ民謡弦楽器サズによるトルコ民謡を交えて「オリエンタル・ナイト」を開催しました。
 ナミーさんは、先日東京で行われたベリー・ダンス・フェスティヴァルでも、はるばる屋さんスタッフに絶賛だった中々の舞踊家さんで、しっかりとした技術に加え、創作物が急増のベリー・ダンスの中にあってトラッド志向で玄人受けしている嬉しい存在の方。打ち合わせやリハーサルでお会いして、さらにその気取らないお人柄に共演が期待されていました。
 ところが、3月中に話が決まり。4月にレパートリー・テープを頂きながら、若林が異常な忙しさの4月に結局楽譜は出来ずに、楽団の練習も出来なければナミーさんとも合わせられず、5月も連休を過ぎてからの打ち合わせ、採譜、練習、リハーサルとなりました。これには、ナミーさんの最後迄「共演」を望んで下さる思いと、若林以上にやる気のメンバーの御陰で、若林もお尻に火が着いたという感じでした。
 結局は、若林もここ数年で一番位練習し、ナミーさんレパートリーは本番もノーミス。メンバーの危なげなところをフォローする余裕も。と言いより、メンバーが危なげな部分ではむしろ先導して導く余裕すらありました。もちろんメンバーもそれに答えて演奏中にどんどんとモチベイションが高まり、結果、楽団の演奏タイムでもお馴染みのレパートリーが最高レベルの楽しい、自由に遊ぶ感じの出来となり、お客さんも喜んでくれた筈です。
 終演後の恒例の主催者との記念撮影や、ナミーさん専属楽団のプロモーション写真撮影では、上演中の撮影を控えられていたお客さんまでもが、さながらコスプレ撮影大会の様にナミーさん目当てで群がって大変状況に。
  アジアン特急2005旗揚げ公演では、日曜夕方ということもあって、上階のアムリタ食堂で楽しい打ち上げが出来たんですが、今回金曜の夜ということで、アムリタ食堂は満員で、はるばる屋さん達とも、ナミーさんと音響をやってくれたキュートな妹さん、お弟子さん達とも合流出来ず、楽団と教室一部生徒さんと、若林にお仕事を下さるプロダクションの方々とで、打ち上げとなりました。

 写真はそのプロダクションの伴さんが5月25日に送って下さいました。ありがとうございました。
民族楽器で溢れる教室を一目見たいとおっしゃって、若林達が楽器を片付けるのにご同行頂いたのですが、 伴さん達は、日本に数本有るか無いかという民族楽器よりもマスコット・ボーイのチャメに夢中。チャメ君も練習中の太鼓を披露。なんだか無理矢理やらされている様にしか見えないかもしれませんが、太鼓叩いている時もの凄くグルグル言ってるんです。

  5月20日 ケニヤから嬉しいネットワークが広がる。
 

「狭く深く」のタイプの弟分 
  若林は世界中の民族音楽を対象に学んでいる為、何かひとつを追求している方には当然低く評価されます。「広く浅くだろう」と言う事です。その「広く浅く」も長年やっていれば「深く」もなりますし、むしろ民族音楽は今日の国境とは違った時代の音楽ですから、インド音楽家とパキスタン音楽家が違うことを信じている現在の現地の状況も、近代的な社会、政治事情や資本主義的な価値観の相違から生まれていることを考えると、一地域の何かだけを学んでいては本質は見極められない、と思うのです。
 そんな中で中国雲南地方の少数民族の瓢箪笛を現地で数年学んで来た伊藤悟君と、ケニヤのギリヤマ族の太鼓音楽ゴンダを数年追求している俵貴実君は、珍しく若林を高く評価してくれて、また若林も珍しく意気投合出来る「狭いが深く」追求するタイプの仲が良い「弟分」です。彼らも若林の影響もあるのか、専門は限定されていますが、気持ち的には決して狭からぬ視野の持ち主で、マニアックな理論武装や知識に溺れることなく、本質を追究しようという点で非常に好感が持てる好青年です。なんて偉そうに言いますが、最近ではどっちかというと若林がお世話になって報われる楽しい音楽の現場に誘ってもらう方が多くて恐縮な状態です。
 昨年も、先月も伊藤悟君にはタイ人演奏家とのセッションの機会を頂きましたが、この数週間、ケニヤに居る貴実君からも嬉しいメールが続々届いています。その貴実君からこの数週間で大きなつながりが生まれました。それは貴実君の親友である大分中津のSさん、京都府に近い兵庫丹波笹山のNさんとの嬉しいつながりです。
丹波笹山の不思議なNさん
 Nさんは、ズィンバブウェのンビラという親指ピアノを貴実君が絶賛するほど追求している方ですが、山に窯を持ってらして、アラブ太鼓ダラブカの自作に取り組んでいて若林を講師に招きたいと言って下さっています 。
  Nさんもひとつを追求しながらも視野の広い方のようで、自作するという点でも若林には嬉しい人種です。でも日本にはマニア同士の不思議なネットワークが在るだろうし、そんな中では前述の様に「広く浅く」と思われている若林じゃない方が、と思ってお尋ねしたら「貴実君の兄貴なら間違いなし」とのお返事。
  俵貴実君は、最近でこそ少し丸くなったか? って見た目は「まんまる」ですが、気持ちはかなり鋭角で、日本に帰る度に日本でアフリカ太鼓をやっている人達と、おそらく初めは友達になろうとして接触しながら、たいがい喧嘩して来るという若林の20歳代でもそこまでじゃなかったゾ、という人です。好き嫌いが激しいだけのか、真贋を見極める力、音楽や人生に対する真剣さが凄いのかは、人によって評価は違うかもしれませんが、彼を良しとする人は、かなりに彼の意識と才能を高く買っています。もちろん若林もその一人であり、亡くなったケニヤの村の長老もその一人でした。若林はその長老の樹の貴重な写真を託されています。長老は森に大樹を一本ずつ持って居て、体が具合悪くなるとそのウロに数日入って瞑想して元気になって帰って来るのだそうです。昨年でしたっけ、ついにその大樹が枯れて来てしまったのだそうです。そして長老も亡くなってしまいました。そんな凄い世界で太鼓を学んでいると日本人の文化の表層を舐めて自己満足している輩が許せなくなるのは分ります。
 Nさんとはここ数日メールで充実したやり取りをさせて頂いていますが「20年前に吉祥寺に住んでいたのに、その頃に知っていれば」と悔やんでくださっていました。
大分のアフリカ的な元気お母さん
 一方の大分中津のSさんとは、一昨年、貴実君が長老の長男である太鼓の先生を日本に呼んでツアーを行い、大晦日のフィナーレのイベントに若林を呼んでくれた時にお会いしたのが初めてで、貴実君の熱烈なファンだと思っていたのですが、なんと20年位前にやはり吉祥寺に住んでらして、アフリカでアフリカ仲間と出会う前、インドにも行ったりで若林のライブ・スポットの常連で、なんと恐縮にも「20年来のファン」と言って下さりました。若林にはお声を掛けて下さらなかった(20歳そこそこの娘さんには当時カリスマ的?だった若林は怖かったと言われてしまいました)らしいんですが、当時店に出ていた若林の母とは何回か話をして、笑顔が素敵な優しい方と言って下さいました。そしてこの7月には、三人のお子さんを抱える身でありながら、地元の文化人、P.T.A.役員を説得して若林の演奏会をお寺で企画してくれています。ケニヤで相変わらず呑気に身勝手な愚痴や自慢話を夕暮れのカフェからメールをくれる(もちろん嬉しい励ましもありますが)貴実君の「本音で人と向き合う生き方」の御陰で繋がったお二人からは、沢山の嬉しいお言葉、楽しそうなお話を頂いて大変励まされています。
 思えば苦節20年で、日本の音楽文化を変えんと始めながらも民族音楽の安売りに貢献したのでは、という挫折感の方が多かったライブ・スポットですが、当時のお客さんやファンの方が、先日の伊藤悟君とタイ人演奏家と共演した東京ワンダーサイトの館長さん達もお客さんだった様に、昨年の小倉城の演奏でも二組の方がお声を掛けて下さった様に、全国に散らばりながら、それぞれの生活をしながら何処かで覚えていて下さったり、ありがたくもファンで居て下さったりしている。
  丁度その方達が少しずつ生活に落ち着きを持ち始めた時期やお仕事で本領を発揮する時期にさしかかり、もしくはここらで何か元気になることをしたい、とか面白い事をしたいとか、思い始めて下さっているのかと思うと、苦節〜も、もの凄く報われる思いです。ありがとうございます。
 でもそれもこれも若林が、今頃になってやっと意固地な思いから解放されて、繋がりを感じたり運気を感じたり信じたりする心境になったからのことが大きい様に思います。それは時には厳しく、そして常に暖かく応援して下さった方の凄い根気の御陰だと深く感謝する思いです。
  これからもっとこの様な嬉しいお話が増えるのだろうな。そして新しい出会いも広がって、それこそ挫折したと言っていたかつての夢や目的に今こそ近づいて行くのかもしれません。ありがとうございました。宜しくお願いします。

5月24日(火) 久しぶりのサントゥールLIVE
 

荻窪Natraj・サントゥールLIVE
 今日は久しぶりのインド音楽の打弦楽器サントゥールのLIVEをお世話になっている荻窪ナタラジさんで行いました。サントゥールは、ペルシア起源の打弦楽器で、台形の共鳴箱に沢山の金属弦を張り、木製のスティックで打奏する弦楽器で、東西に伝わり、中国では昨今人気の「女子十二楽坊」でも「揚琴」として用いられ、西ではハンガリーのロマ(ジプシー)楽団の「ツィンバロム」として用いられ、西欧の「ダルシマー」はピアノの原型とも言われています。さすがに最近では誤解する方は少ないと思いますが「ピアノの原型はチェンバロ」というのは間違いで「チェンバロ」は弦を弾く「撥弦楽器」ですが、ピアノは弦を叩いて鳴らし、打弦楽器の仲間です。
 ユーラシアに広く分布するサントゥール系の打弦楽器ですが、弦の張り方の他に撥の硬さの違いによって、かなりの差異があるので、異なる打弦楽器を弾きこなす演奏家は少ないのが現状です。若林は「弾きこなす」というレベルではありませんが、一通り世界中の打弦楽器を「たしなむ」中で、このインド音楽のサントゥールは1980年からライブや録音でご披露し、そこそこの芸歴のある得意楽器でもあり、人知れず「紀文のお豆さんのCM」やゲーム音楽の録音でも皆さんの耳に届いている筈です。
 インド音楽と言いましたが、正しくは今日インドとパキスタンに分割されているカシミールの楽器で、恐らくイランのサントゥールも昔はこうだったのでは?という打弦楽器の基本的な形をしています。カシミールでは中世以降イスラム教系(この言い方も語弊がありますが)スーフィー神秘主義音楽「スーフィアナ・カラム」に用いられる伝統古典音楽の楽器でしたが、ごく最近になって北インド古典音楽にも用いられるようになりました。その為、シタール、サロードという18世紀の古典器楽楽器は最も古い流派の師匠にまなんだ若林ですが、サントゥールはモダン派の中堅演奏家Pt.ピウシ・パワール氏に学んでいます。師の兄Pt.カイラーシュ・パワール氏は、ビートルズの師匠で世界的に有名なシタール奏者ラヴィ・シャンカル氏の古いお弟子さんです。
 若林の楽器は、デリーのリキラム社に師匠が特注してくれた楽器で、先先代の職人さんが作った名器のひとつです。サントゥールは、名前に正確には「サント=100/トゥール=弦」ですからチェスの駒のようなブリッジに各音四弦ずつ25音の系百本を張りますが、そのもの凄い張力で、いい加減な楽器に正しい太さの弦を張ると簡単に「爆発」「大破」します。その意味では若林の楽器はかれこれ25年使ってもヒビひとつ入っていません。今更ながら凄い楽器です。若林はインド音楽演奏家の多くが用いる「セミ・クロマティック」の調弦を初期に改め「クロマティック」で演奏しますが、これはインド音楽にはかなり不利な調弦ですが、世界の他の打弦楽器を弾く為にはこの難しい調弦はしかるべき方法です。なので若林は、旋法ラーガの演目が変わる度に調弦を替える事はありません。
娘息子ほどの若いメンバーに支えられて
 この日の演奏は、期待の新人タブラ奏者の急な東北転勤を受けて、急遽ナタラジLIVE専属タブラ伴奏者に昇格した大学三年の尾澤里美さんと、東京音楽大学院生でインド音楽のリズムを研究している山宮君という、若林の娘より若い二人に支えられて、インド古典器楽の他、叙情詩ガザル、古い映画音楽の弾き語りをご披露しました。サントゥールで歌うというのはインドでもまず珍しい事ですが、アタックが強い打弦楽器と流麗にリズムを外すインド式の歌との両極端を一人で演じる自虐的とも言える苦行はなかなか楽しいものがあります。この数年のテーマですが、規則的にビートを刻むデジタル的なものは左脳で演奏し、物語的で情緒的なものは右脳で演奏するのがインド音楽には欠かせない要素で、二つ一組の太鼓タブラなどはその典型的な楽器です。その意味では歌伴のサントゥールは左脳、歌は右脳を使って、という事に成ります。写真は尾澤さんのお母さんが撮ってくれました。
アフガン楽器の修理も順調
 今日は、昼にサントゥールの調整と手慣らし。そして先日光栄にも素敵なおばさまに託されたアフガン楽器の修理の続きを行いました。弦楽器ルバーブはかなりの大修理が要求されましたが、指板の陥没も、上手い事隙間に板を付け足して無事成功。明日にでも仕上げに取りかかれます。
 それにしても今日は突然の夕立でしたが、ナタラジに出かけようというその瞬間だけ雨が小雨に代わってくれたこと、そしてフリーのお客さんの足が、土砂降りで遠のいたにも拘らず、若林も初めてお会いする予約のお客さんが多かったのがありがたかったです。皆さんの応援を素直に喜び、受け取って望めば、色々と上手く行くものだなあ、と感謝の気持ちで一杯でした。ありがとうございました。
 ナタラジLIVEの今後も今日決まりました。6月は宣伝期間が足りないのでお休みして、偶数月、奇数月が逆転しますが、7月19日(第三火曜日:決定)が青山ナタラジでトルコ民謡弦楽器サズ弾き語り、8月30日(第五火曜日:仮決定)が荻窪ナタラジで久々のインド古典弦楽器シタールです。是非宜しくお願いします。

5月25日(水) キリギリス達の春
 
茎をかじって枯らしたススキに止まるカヤキリの二令幼虫。

孵化直後のカヤキリの若令と二令(三令?)10日程の孵化時期の差で倍に大きくなっている。

静岡県のクサキリも孵化。

府中のウスイロ・ササキリも孵化。
早速献上したハムスター・フードに群がる子供達。

 奇跡?当然?ビギナーズ・ラック?
 去年の初夏の八景島ギリシア音楽ライブの前に横浜の山で採集したカヤキリの幼虫.その場でメンバーに「名前は?」と聞かれて言った「カヤちゃん」を含むその後の数匹のカヤキリが健気に細身のススキに産卵するのを見届けながら

、果たして無事に孵化するものやら、ササキリやクサキリでさえ必ずしも孵化率を上げる実績が無いのに、カヤの群生地でも個体数の少ないカヤキリが一体どれほど孵化してくれるのか? 雄大なカヤと比べて貧弱なススキの保湿性で大丈夫なのか?万が一孵化してもその後の餌の補給はどうするの?などなど不安が絶えない冬を過ごしました。
 そして五月も連休を開けた頃、土中産卵組の卵は昨年迄の不安定な天気による予期せぬ孵化ラッシュと急冷によるトラブルを防ぐため冷蔵庫で保管してましたが、ススキの新芽を得たいためにベランダに出していた籠の網になんと小さな幼虫の姿が!

 たった三株のススキのポットから数十匹のカヤキリが孵化。産卵数から考えて100%に近いんじゃないか!と言う程の孵化率でした。恐らくススキの新芽が伸びた10日遅れくらいで孵化した幼虫達は、ススキの新芽を枯らす程の勢いで食いつくし、慌ててススキを注文し、その間は庭に自生したオヒシバを代わりに。
 すると新たな大発見。「若令幼虫はイネ科の葉も食べる!」二令くらいになると親同様に茎の中のスポンジ状のキビを食べますが、それがススキを枯らしてしまう要因。成虫になると7cm近くもなる日本最大の直翅目ながら若令はほぼ卵と同じ長さの3mm弱、さすがに茎はかじれないのか、小型種同様に葉をかじってました。恐らくクローバーなどの非イネ科の若葉も食べながら、栄養、滋養よりも水分補給を主に生き延びながら、イネ科を見つけるやまず葉を食べて成長するのだろうと実感。感動です。

 そして今日、昨年静岡で音楽の先生に案内して貰って幼虫から育てたクサキリの子供も無事に孵化を確認。更に府中のウスイロ・ササキリも。早速ススキと飲み水とハムスター・フードをご用意。まさか若令はフードを食べないだろうと思えば、雑食でも肉食傾向が強いのかササキリ幼虫がフードに集まり、その嗅覚の鋭さにびっくり。
クビキリギスの雌の上下にササキリの若齢が。クビキリギスは夏に孵化して成虫で越冬し、翌年の春に交尾して産卵し死んで行く。先月福岡の山の上ホテルの駐車場でも「ビー」と鳴くクビキリギスの求愛の声を聴いた。自然界でも冬に産卵し姿を消すササキリ達が生まれて、写真の様にすれ違うのだろう。

左の写真、なんでだか早く孵化してしまった北朝鮮のカブトムシ。日本種と亜種まで同種の はずだが、生まれ故郷より暖かいのだろうか? 早く生まれたのに大きさは十分。日本産が餌不足や温度が高くて早く生まれると、越冬後の栄養不足で小型になるのだが、なんだか不思議。生まれたての甲虫類の手先の爪は、まだ樹皮を掴んでいないので、先端が非常に尖っている。これを腕に掴ませた時の痛さったら大変なものであるが、自家繁殖させた者だけが知る快感。

 5月はこの他、オーストラリアの虹色クワガタ、ヴェトナムのクルヴィデンス・オオクワガタ が続々羽化しました。そして2004年採集の浜松のタイワン・クツワムシの二世は今年は5月の15日まで最後の雌が生きていました。

5月26日(木) Life&Music 第一回の集会
 

  トルコ民謡弦楽器サズ弾き語り
 若林の自宅にもほど近いモロッコ風カフェ・バーBloomoonでこの二年お世話になっている第四木曜日の若林の突然LIVEは、この5月から新企画「Life&Music」と装いも新たに、若林のお友達同士のお引き合せと、ライブやHPを通じてしり会ったお客さんとの出会いによって、音楽や人生を語り合ったり、何か新しい企画を話し合ったり、その合間に若林が得意民族音楽でおもてなしをする、という「飲み会風お気楽ライブ」となり、夕べはその記念すべき第一回でした。
 今回の出し物のトルコ民謡弦楽器サズ弾き語りは、アジアの西端アナトリア半島からヨーロッパ側にイスタンブールを有し、かつてオスマン・トルコ大帝国の最盛期にはアジア、北アフリカ、東欧を広く支配したトルコ人が、故郷の中央アジアの平原に居た頃からの伝統音楽の感性を残す音楽で、彼らも「トゥルク=邦楽」と呼ぶものです。トルコの村々に今も残る弦楽器サズによる合奏・合唱民謡と、シルクロードの放浪芸人であり吟遊詩人である「アシュック」の伝統芸能の二本立てがありますが、夕べは前者でお店からカレー・スプーンをお借りして打楽器「カシュック」をお客さんに演って頂き吟遊詩人音楽では、何故か何時も数倍、右手の回転が早く、左手薬指の装飾が「おいおい!自分でも見えない程早いゾ」ってほど絶好調な上、トルコ民謡独特の太い低音の声の調子も良く、良い感じの第一回ライブでした。
 集まってくれたお友達は、このダイアリーにしばしば登場する常連さんの半分の方々とそのお連れの面々。昨年夏に小学生の息子さんが若林に太鼓習った「親子二代で弟子」と言って下さった千葉のラテン音楽ママさん、ご本人は来れずに妹さんと会社の先輩。妹さんは今年1月にアルメニアに旅行し若林の為にアルメニア篳篥「ドゥドゥーク」を買って来て下さった方で、何故アルメニアか?と言うと映画監督パラジャノフのファンで、その名も「映画アシック・ケリブ」のファンでもあったからで、今回のサズ弾き語りはまさに絶好のタイミング。岩波書店の編集者でこの夏に出る若林の単行本とお堅い月刊誌「世界」の編集に追われ、今回も板橋の印刷所を抜け出して、また戻って行かれたマレーシアにご主人、東京に一歳のお子さんを抱えるハイ・テンションなお母さん。彼女も「アシック」には鋭い反応を示して居ました。
  ハイ・テンションと言うならば、昨年二回とこの5月に若林を演奏に招いてくれた品川区、大田区の教育委員会関連で子供・若者向けの国際理解、民族音楽紹介のお仕事をされている、元気印、ミドリさんとそのお仲間。5月のミドリさんの誕生会でプログラムを作ったケイコさん、司会の笑子さん、フラワーアレンジャーのメグさん、黒一点の優しいお兄さんの声を聞く間がないほどの元気組が集会を盛り上げてくれました。そしてこのダイアリーの常連であり、掲示板の常連さんでもあるヤマヨシ君と奥さんに元気モリモリのJr,りょうせい君。りょうせいは半月振りに会う度に随分大人になって「ちぇんちぇ!かんぺい!」とか言って空のグラスで乾杯してくれたり。夕べは特に良い子で目新しいエキゾティクな装飾満載の店内を暴れることもなく、後半は座敷席にどかんと在るエマニエル婦人椅子でぐっすりとお休み。その内編集ママさんもお子さんを連れて来て頂き、「子供の相手なら任せて」というブルガリア舞踊の踊るママさんにも来て貰ったら「世代を超えた」民族音楽らしい集会になりそうです。
後半は旧友の追悼集会に
 第一回目は、お引き合わせって感じで終始し、やまよし君が子供キャンプのジュニア・リーダーの経験も豊富なミドリさんケイコさんと夏の民族音楽合宿について賛同を呼びかけてくれた他は、異なる機会に出会ったお友達の輪が繋がる感じでライブの時間を終えました。それが「じゃあ、そろそろ」という所で、ミドリさんと「これからも宜しくお願いします」とお話をしている中で、想像もしない話しが。
 ミドリさんとは昨年12月に品川区教育委員会の子供会に呼ばれて民族音楽をレクチュアーしたのが出会いですが、「講師の方が急逝されて」と言われ、確かにひと月以内の急に頂いたお話でした。そのことを夕べもお話になり「本当に若林さんに急にも拘らず来て貰って、しかも私が大好きだった亡くなった講師の人とそっくりな暖かい音楽をやってくれて」「私たちはきっと亡くなったカズさんが引き合わせてくれたんだ!って皆で言ってたんです」とおっしゃった。その方を知る笑子さんケイコさんも大きくうなづき。
 若林は、急逝さんれた「カズさん」という方はそこそこのご年配の方でって勝手に思い込んでいました。以前に弟子入り直前に津軽三味線のご高齢の先生が急逝されたことが有っただけの先入観ですが「そんな凄い方だったんですか?」などと話しているうちに「あれ?」「まさかその人?!」
 信じられない事に、若林が凄く良く知る、パーカッション演奏家の佐藤一憲君だったのです。
 一憲君。若林は兄貴風ふかして「カズノリ」って呼んでましたが、彼の有名な打楽器演奏家の仙波清彦さんのお弟子さんの一人で、勿論とっくにソロで大活躍していましたが、今から10年ほど前に若林が仙波さんの「はにわ隊」やメルパルク・ホールでの伝説の「はにわ・オールスターズ」のライブのメンバーに参加させて貰った頃、仙波さんから貸し出された「助っ人メンバー」の一人がカズノリでした。
 当時のライブ写真がある筈だったんですが、カズノリとは「はにわ」の方でむしろ仲良しで、若林の吉祥寺のライブでは東南アジア・コラージュ楽団の初期のメンバーの中では真っ先にソロ活動が忙しくなって、ほどなく後進に引き継いでいたので写真が直ぐに出てきませんでした。「女の子のような色白で、優しい笑顔で、優しい口調で、回りに気を遣う割には頑固で........」って言うと「そうそう!」とさっき迄の元気印かしまし娘達の涙が止まらなくなり。若林の店が有った頃はマンダラ・ライブの度にカレーを食べに来てくれたり、吉祥寺の街で彼女を連れて歩く彼にばったり会ったり。明日にでもまたばったり会いそうな。と、いうより若林が仙波さんの様にお金が動かせる音楽活動が出来る様になったら是非呼びたいと思っている数人の一人だっただけに、若林も込み上げる無念さを押さえる事が出来ませんでした。
 あの頃は、若林が一番尖っていた頃で、貸し出しメンバーに対してさえも、ライブ中に「そんななまくらな音じゃ歌入んないヨ!」「自分が先に楽しんでどうすんの?」なんて偉そうに言ってた頃。
  そんな話もすれば、なんと同じ言葉をカズノリがミドリさん達に言って居たと言います。当時の仲間から連絡を頂けなかったのはちょっと寂しいですが、追悼ライブも行われた様で、遅ればせながら夕べの後半は、彼が引き合わせてくれたかもしれない不思議なご縁の仲間とささやかな追悼集会となりました。
 
佐藤一憲君は昨年の11月中頃に福岡での出張演奏で舞台から落下し、数日後に亡くなったとの事。そして11月中に若林が後任に決まり、丁度その頃から若林の仕事も単に「民族音楽が珍しい」という次元のものから「暖かさ」を求めるものが増え始め、年明けて福岡から頂いた小学校での演奏会をきっかけに音楽人生が大きく転機を迎え今に至る。そんな不思議な流れの中で知らないうちに盟友を失って居たとは。一憲君のご冥福を祈るとともに、もし彼が若林に何かを感じて引き合わせてくれたのなら、その何かは「暖かさ」だと信じてこれからも一層、その想いを胸に抱いて頑張って行きたいと思いました。

 5月28日、もう一度昔の資料を徹底的に探したら、一憲君の写真が出て来ました。不思議にどの写真も楽譜を見ていて、若林が微笑み掛けても見つめ合っている写真は無いんですが、そんな時でもご覧の様に優しく、柔らかい表情です。
  若林はリハーサル嫌いなので、馴れないアフリカ音楽のアレンジ物に楽譜から離れる余裕がなかったのかもしれませんが、どんな写真でも真剣なまなざしとは裏腹に穏やかな微笑みが絶えません。これは彼のプロ根性と、根っからの優しさと、音楽好きがなせるものと思いますが。そんな表情の写真ばかりだったことは、我が儘ながら、少しホッとしました。

5月28日(土)

 アフガン楽器修理完了、大分からのメッセージ、教室で。

 


写真1:完全に修復された貴重な楽器。


写真:2、接ぎ木も自然にとけ込み、指板の陥没はほとんど目立たなくなった。


写真:3欠けた象眼も修復。


写真:4駒、棹の根元、棹の先端の細工も修復。

鶴見さんのアフガン楽器修理完了
 昨日金曜の夜のバルカン弦楽器クラス、アラブ弦楽器ウード・クラスには東京音大院生の山宮君もキイボード参加してくれて、ルーキーでギタリストの佐藤君(ウード)ダラブカの伊藤さんも腕を上げ、若林も佐賀の太田先生が運んでくれた特注ミニ・カーヌーン(トルコのお箏)を弾いて、アラブ合奏曲を練習の充実のひと時。その後12:00迄と、今日土曜日の午後とで、先日14日の日記にお預かりしたいきさつを書かせて頂いた鶴見さんの貴重なアフガン弦楽器の修理が完了。全ての弦を張り、音程迄ビシっと調節し、それこそアフガン人音楽家でも、何時若林がその楽器を奏でて鶴見さんご一家に聴いて頂ける機会が得られ様とも直ぐに音楽が出来るレベルに調整も完璧にさせて頂きました。
 昨日から今日に掛けて、先日のLife&Musicに来てくれたヤマりょうママさんから、バタバタ走り回っていたりょうせい君が若林のサズ弾き語りをじっと聴き言って居たことで思った話、思いがけず共通の友人で、出会いの演出者であろう佐藤一憲君の追悼となったミドリさんからのお礼と新たな音楽活動への決意のメール、そして6月に大分で若林のコンサートを企画してくれるSさんが、若林のやっていた民族音楽ライブ・ハウスで20歳代の頃、何を感じたか、の嬉しいお言葉のメールなど、心暖まり励まされるものが相次いで、いつも応援してくれている方にも、新たな運気が訪れているんだね、と言って頂いたり。とても穏やかで過ごし易い梅雨の前のほんのひと時の絶好なお天気にベストマッチの気分で楽器修理や教室に打ち込めた週末でした。
何をして本物というか?
 そんな嬉しいお便りの中で『やっぱり若林は本物』の様な恐縮なお言葉があるんですが、折角お褒め頂いて大変失礼なんですが、この場合の『本物』ってあくまでも主観ですよね。と言いますのは、以前に教室で『何が本物』という講義じみた事を言った時に生徒さんに「それって主観でしょ」って反論されたことが有ったからなんですが。自分が目指している「本物」をどのように人と共有できるか?って長年のテーマなんです。
   若林の拙著「世界の師匠は十人十色」(2003年ヤマハ・ミュージック・メディア)にも沢山書かせて頂きましたが、若林は自分の師匠とはその「本物観」は共有出来たと思うんですが、中々自分のお弟子さんとは共有するのが難しい。「そりゃあんたの技量、器量の問題」と言われれば反論できませんが。せめて「目指すもの」位は共有出来ても良い筈じゃ?と思うのです。それを「主観の問題」と言われちゃうと、やっぱり寂しいものが有ります。
  確かに「より本物に近づける」という意識、指向の上で語られる「本物」は主観的な要素が多いかもしれません。ところがその逆に「薩摩琵琶は国産桑材を用いるのが本物」と誰に言っても説得力の有る様な普遍的な『条件』で『本物』を認定しても、木も天然素材ですから善し悪しも有れば、作りの加減で音が悪かったり、演奏者の癖がついて音の抜けが悪かったりも有る訳で。しかしこの場合の「音が悪い」「抜けが悪い」というのも主観となってしまうと中々難しい話になってしまいます。その一方で、桑材じゃない「偽物」の琵琶で、凄い演奏をする人ももしかしたら居るかもしれなく、でもその「凄い」も主観なのかと言われると、何をして「偽物」なのかも難しくなってしまいます。
昔は確固たる条件は有った筈では?
 若林なりに各国の音楽、楽器演奏について真贋の基準というものが有ります。勿論未だに到達出来ない「目標」であるものも少なくありませんが、例えばインド音楽弦楽器シタールの場合、類似する旋法ラーガを最低10種は弾けて、そのひとつはまる一日位は即興のネタが尽きない。とか同じ旋律を数種の異なるリズム分割で弾ける。太鼓タブラの場合、基本型を叩きながら作品や異なるリズム・サイクルの口三味線を言える。アラブ弦楽器オウドの場合、歌い手は必ず弾けるし、オウド弾きは必ず歌える。足踏みで基本リズムをキープしながら自由リズムのタクスィームを数種の旋法マカームに転調出来、数時間でも続けていられる。太鼓ダラブカは同じ四拍子、三拍子でも異なるリズム・サイクル毎に異なる即興が出来る。打弦楽器サントゥールはクロマティック調弦で弾ける。弓奏楽器サーランギーは楽器の音とずらしながら歌う(弾き語り)ことが出来る。キューバ太鼓ではクラーヴェのリズムの反転に応じて即興が変わる事が出来る。などなどですが、若林の教室の生徒さんで、在学、退学を問わず、若林の目の前でこれらが出来た人は未だ居ません。現地で修行してきた日本人の演奏家の演奏を聞く機会は若林は少ないんですが、今迄では残念ながらお目にかかってません。
  そして現地の演奏家でも若林の親の世代の師匠の中には「この人は出来てる!」「きっと出来る!」という音を出している人が居ましたが、近年の若手音楽家の音にそれを感じることは少ないです。勿論これも主観と言えば主観ですが、比較がある訳で若干は当たってるんじゃないかと思います。
 しかしながら、この「プロたるや出来てしかるべきの技術と理解」を持とうと持たないに拘らず「素敵な演奏」をする人も居るでしょうし、身に付けていても「心を打たない音楽家」も居るでしょう。しかし世界の多くの地域で、その昔はこのような「技術」「理解」は「人前で演奏する時の最低限の資格」「ルール」「マナー」「誠意」だった訳で、その上で「心を打つ」「打たない」「好み」という主観でお客さん(ファン)がついていた筈です。若林の親の世代の演奏家は、インドでもアラビヤでもトルコでも、異口同音にそれらの基本(基礎と言う意味ではなく)を踏まえた演奏家を「トラッド」そうでない者を「モダン」「コマーシャル」と言っていました。これは音楽に限らず、あらゆる芸術から手工芸、建築、さらには農業、漁業でさえも同じと思うのですが。若林の応援者で、一般的には「サーヴィス業」と言われるお仕事にも拘らず「本物志向」の凄い方も居ます。今後このテーマについては、若林もより多くの方のお話を聞いて、またこの日記でご紹介出来たら幸いです。