考えた事 2007年4月
人は、誰でもある程度の「弱さとずるさ」を持っている。
挫け易い弱さ。悲しみ易い弱さ。落ち込み易い弱さ。 傷つき易い弱さ。
これらは「ナイーブ」「感受性が豊」とも言われる。 弱さに「酔って」はいけないけれど。芸術家にはある程度必要なものかもしれない。
許されたい弱さ。甘やかされたい弱さ。 怠けたい弱さ。サボりたい弱さ。 苦しみたくない弱さ。楽になりたい弱さ。楽をしたい弱さ。
これは芸術家には向いていない。それ以前に、人前に立てないだろう。
不安に勝てない弱さ。自分に克てない弱さ。 この弱さに負けて才能を葬った芸術家も少なくない。
ヒーロー扱いする風潮もあるが「ファンを裏切った」とは言えないのか。 「人間味」と評価する人も少なくないが、 弱さの「共鳴」「共感」なのだろうか。
弱さと戦わないずるさ。 弱さを誤摩化すずるさ。 人のせいにするずるさ。 環境や条件のせいにするずるさ。
意外に日常に溢れている。 日々増えて来ている様にも感じる。
気付いていて意図的、意識的に「ずる」をする人。 悪気が有る人は「直せる」のかもしれない。
気付いていても気付かないフリ。 認識しない、考えない「ずるさ」を持っている人。 なかなか「直らない」のかもしれない。
全く、もしくは殆ど気付かない人。 「直す」必要さえないのかもしれない。
悪気が無い人。 憎めない時もあり。怖いと感じる時もある。
人には様々な生き方や、感性がある筈だけれど。 弱さを守ろうとする時。弱さを誤摩化そうとする時。 不思議に同じ言動になる。 「その人」では無くなった様に見えて悲しい。
人のせいにして人を責める。自分のせいにして自分を責める。 人のせいにして楽になる。 自虐的に苦しみを味わおうとする。 時に両極はたいへん似ていたり 同質だったりする。
人は「先に進む」「前に進む」「上に登る」必要は あるのだろうか?
「向上心」「克己心」とか「成長」「進歩」は 必要なのだろうか?
「そのままでは駄目」の「駄目」の基準は何処に 有るのだろうか?
「現状維持」「悪く成らなければ」良いのではないだろうか。
「他人に迷惑」を掛けなければ良い。 これを間違いと言い切る「論理」が見つからない。
自然が崩壊しようと 小さな生き物が犠牲になろうと、 戦争が絶えまいと 差別が無くならなくても 「他人に迷惑」を掛けなければ良い。 人が「向上」しない事とは別な話し。
体が弱い人 心が弱い人 不当に不利な立場にいる人 困っている人 苦しんでいる人 自分の弱さとの戦いに負けそうな人
優し過ぎる故に辛い想いをしている人 のんびりし過ぎて損をして、苦しい立場に居る人 人との戦いをしないために、自分の居場所さえ失い掛けている人 助ける力を持っている人は 「強い人」ではないに違いない。
人間は、同じ所には居られないのではないか と思う時がある。 「立ち泳ぎ」の様に常に上に向かっていないと
どんどん沈んで行ってしまう様な気がする
強迫観念だろうか
小学校時代の自分を思い出した。 授業の道筋を感じず、途中の言葉に引っ掛かる。 そこに面白いものを見付けたのだろう。 耳の寄り道。感性の道草。
授業の本道を見失っている。と言う以前に、授業がなんたるか分っていない。 そもそも道を歩く意識も無い。野山を好きに歩いていた。 先生の投げたチョークがおでこに当たって気付く。出席簿で叩かれる事も。 ぼーっと窓の外を眺めて居た様に見えたらしい。
現実逃避で「眺めて居た」訳でもない。 教室の中の景色より、外の景色が面白かっただけのこと。 現実が何かを分って居た訳でもないから、 そもそも「現実に居なかった」のかもしれないが。 ものを教える身になってから気付いた。 教師が保護者に慰めの言葉を言う時。 これはかなりに深刻な状況。 母は素敵な程純真だった。 呼び出される度に嬉しくなって帰って来た。
教師の心配とは裏腹に、学校でたくさんの事を学んだに違いない。 窓の外にはたくさんの面白いものがあった。 怒られ立たされひっぱたかれても。案外「学校好き」だったのかもしれない。 小中学校と遅刻の常習犯だった。 悲しいかな「明日こそは遅刻しないぞ」と遅刻する。 出掛けに腹痛がしたり。前夜に気付かぬ忘れ物に気付く。 義務や強要されることへの潜在意識的な抵抗だったのだろう。 7分、9分遅刻する。中途半端。
給食後に帰る生徒も居た。凄い人だ。 遅刻はしない。優等生。 嫌いな勉強はボイコット。でもテストではOK。 実業家タイプ? 経営者タイプ? 午後からゆっくり出て来る生徒も居た。さらに凄い人だ。 ふてぶてしさの場合もあれば、葛藤にそれだけ時間がかかる人も居る。 私とはむしろ真逆なタイプ。でも同じ「遅刻屋」に分類される。 「意識がそっぽを向いている」 見るべきもの、見せられたもの。 するべき事、課せられた事。 それらから意識して顔を背ける。目を逸らす。心を避難させる。 自分より強い人だと感心した。
嫌いになる力。 拒絶する力をしっかり持っている。 醜いもの、嫌いなもの、見たくないものから目を背ける。 背けた顔は何処を向いているのだろうか。 逸らした目の先には何が見えるのだろうか。 何を求めて、何を探していたのだろう。 窓の外を眺めて居た彼とも、私は同じ人種に思われる。
「君はタゴールの詩に出て来る『石ころ男』の様だ」 ベンガル人の兄貴分が言った。 「石の中に何か貴重なものがあるのかもしれない」 村人は『石ころ男』の回りに集まり、我先に!と真似をする。 やがて、そこには価値の有るものは無いと知り あざけりの言葉を吐いて去って行く。時間の無駄を恨みもする。 彼は、石ころの全てが面白かった。 ひとつひとつの違いが面白かった。
石ころで「意気投合」した若者が居た。 石ころの中から「お気に入り」を探すのが喜びだと言う。
そんな強さには感心する。 何を基準に選び 何を基準に除外するのか。 審美感? 感性の基準? 選択能力? 捨てる勇気? 嫌う力? 「どの石ころが意味のある石ころと思いますか?」と 答えを求める若者に「全てが素晴らしい」と答える愚かさ。 むしろ選ばなかった石ころにこそ価値があるかの答え。 同じ「石ころマニア」と慕ってくれた若者が喜ぶ答えは出せなかった。 「意識がそっぽ向く」と言った若者に質問してみた。 「眠くて起きていられないから寝よう」と 「眠くないけど、明日早いから寝ておこう」 どれが「意識?」と訊いてみた。
「どちらも意識」と答えが返って来た。
頑張っています。 とても頑張っています。 頼りなげですが、歩き出しています。 自分をしっかり見つめようとする姿。 今、それが一番の励ましです。
出来ていない事よりも、出来る様になった事を見れば 少しずつでも歩いて来た道が後ろに続いています。
自分より出来ている人。出来ていない人。 比べたってしかたがありません。 意外に些細な差かも知れません。
一所懸命ですね。しっかりやっていますね。 人のせいにせず。 自分を虐め過ぎず。 人に頼り過ぎず。自分を甘やかさず。 あなたサイズの頑張りで良いのです。 信じようとする勇気を感じます。 信じれる自分に変えようとする姿は素敵です。 頑張って行ける思いがこみ上げます。 ありがとうございます。
いじめられる側で良かった。 あっち側で、困った顔をしている君を見るとそう思う。 こっち側に居て一緒にいじめられるより そっち側に居た方が良いのかと思っていたけど。 いじめられる側で良かった。 そっち側に居ても困った悲しそうな顔をするんだね。 それは哀れみの顔なのか それとも我が身に置き換え感じる悲しさか そっち側も大変なんだね。 好きでいじめているばかりじゃないんだね。
いじめられる側で良かった。 そっち側の人達の様な 歪んだ笑顔は悲しいものね。 こっち側の虐められっ子にも悲しいものを感じるけれど そっち側に居るのも不安なんだね。
君が楽しそうに笑っている姿を見ました。 結構、楽しい時間も多いみたいですね。 不安に裏打ちされた楽しさ いじめという側面も持つ楽しさ そんな風には見えませんでしたよ ちっとも。
子どもの頃、一番好きだった時間。 「たそがれ」「黄昏」「夕暮れ」「夕暮れ時」「日暮れ」「日没」
インド古典音楽では特別な時間「サンディー・プラカーシュ」 「明暗」の狭間の時間。 「陰陽」の交わる時間。 両極端が共存し、全てが交錯する時間。
時を感じる力が強い子どもだった。 子どもながらに「人生を逆算して生きる」発想を持って居た。 「夕暮れ」時が遊んでいて一番楽しかった。 「残された時間」にどれだけ楽しく遊べるか? 集中力がピークに達した。
「たそがれ」は何かの終わりの時間なのか。 それとも始まりの時間なのか。 「人生のたそがれ」と言うと。「終わり頃」の様に聞こえるけれど 夜だって、真夜中だってあるじゃないか。 きっと夜明け前に 同じ位好きなあの「碧の時間」を見る前に 自然に「生まれ変わる」に違いない。
夜には「舟」は出せないから 夜の時代には音楽をしよう たくさんの友達 家族 僕の音楽を求めてくれる人達に囲まれて 賑やかに 楽しく 笑いながら 美味しいビールに 美味しい料理
その為に頑張って来たんだろ? 朝からずっと 昼寝もしないで 真夏の灼熱の中でさえ いっぱい担いで いっぱい歩いて 毎日毎日頑張って 「たそがれ」の時期に差し掛かった今 あとどれだけ頑張れるのか あとどれだけ頑張ったら良いのだろうか 頑張った分ビールが美味しい? 頑張った分 仲間が増える? 「たそがれ」は何かの終わりの時間なのか。 それとも何かが始まる時間なのか。 TOKIOさん ありがとうございます。
インド音楽のリズムサイクル「Taala」は、まるで「輪廻」の様に繰り返されています。 太鼓タブラの師匠が一年振りでレッスンに現地のお宅に行った時 「今、何拍目だ?」と冗談の様に、本気の様に訊きました。 日本に帰っている間も、最後のレッスンの「サイクル」が続いているのだから「お前はそれを数えていた(感じていた)筈だ」と言う事です。 それこそ前世の何処かでも太鼓を叩いていれば、途中で叩かない現世があってもそれは「休符」に過ぎない。そもそも演奏者が「ビートを刻んでいる」のではなくて「ず〜っと続いているリズムサイクルに手先を同調させているに過ぎない」 そんな感覚です。
「ターラ」には「始まりの拍」と、対照的な位置に有る「折り返しの拍」があります。そして「始まりの拍」は「終わりの拍」でもある。ヒンドゥー教の世界。
「破壊は創造の為のもの」
そして「始まりの拍」と「折り返しの拍」はどちらが重要とも言えない。ある意味では、どちらが「始まり」とも言えない。 TOKIOさんのコメントは正しくこの「ターラ」の話しの様に思いました。
Kさん ありがとうございます。 いやいや、最近結構「たそがれ」ています。 ライブでは「ON」ですけど。
Hさん ありがとうございます。 先日の舞鶴公園の「桜」 を黄昏時に見ました。 もしかしたら、その時に、僕の人生の「たそがれ」の時代が始まったのかもしれません。
Kさん ありがとうございます。 「もし、まだ。 今じゃないなら..........。 ずっとずっと頑張れる」 素敵な感じ方ですね。
頑張った分沢山のお客さん、お友達に囲まれて。 先日も幸せな時間のライブでした。ありがとうございます。でも、その中で「別れ」もある。 「再会」もあるけれど、二度と戻れない「時」も。
35年頑張って来ましたから、元ファン、元生徒さん、聴いた事有る人、全員が来てくれたら「武道館満員」に違いないですから..............。
「YES」を信じて頑張るのか?
「YES」ではないかも知れない事に気付いてもやっぱり頑張るのか。
Tさん ありがとうございます。流石! もの凄く感動です。 「誰そ彼」「彼は誰」
人生の中で「曖昧」になっている時。 「過渡期」「変化の時」「脱皮の時」「見失っている時」 「逃げている時」「見つめている時」「休んでいる時」 「考えている時」「想っている時」「瞑想している時」 「感じて居る時」「蓄えている時」「備えている時」
根元的に「わたしとは何か?」という時。
同時に、お馬鹿な私はこんな風景を思い出しました。
夕方の帰宅時間の人々の列。 まだ昔、 そんなに残業がなかった頃。 駅前の食料品店、焼き鳥屋さんから、元気な声が上がる。 電気屋さんの前のTVには人だかり。「なんたら銀座通り」を家路に急ぐ列。 誰が誰 ? が関係無い時間。
インドの夜行列車。夜明けになって車窓から大平原を眺めると。
「汽車を見ながら朝の用足し」をする男達がバケツを手にして寄って来る。 先人は線路近くの草っ原から頭だけ見えて居る。 愉快で奇妙な光景。
これも「誰が誰」が関係無い時間。
会社の「誰々さん」から家庭の「お父さん」 その間の「誰でもない時間」 一日の中にも、人生の中にも
「自我」を失う時間が有って、それから次の時間に移れるのかもしれません。 Wさんの「質が変わる」も同じ意味かもしれません。その時に「自分を見つめる」人もいれば 「誰でもなくなる時間」が必要な時も。
Yさん ありがとうございます。「思考の時間を停止させ 感じる心の時間を進める」 僕の1月14日の日記「グラデーション」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=317741878&owner_id=327576 音と動きで表現出来たら幸せです。
Nさん ありがとうございます。 僕もそんな別な話しを聞きました。 猫さんの嬉しい時の「ぐるぐる」の喉音。 猫さんはあれで自らの「免疫力」を高めているそうです。 そして人間も耳をそばだてて聞くと免疫力が高まるんですと。 「猫溜まり」に埋まっていますから、御陰さまで頑張れています。
Wさん ありがとうございます。
我が家の事実は、俳優の父が定時帰宅じゃなかったので それでも。「その時間」の「まな板の音」「みそ汁の香り」「炊飯器の湯気」は「原風景」ですね。 「鍵っ子」程ではなかったのですが、誰よりも最後迄「原っぱ」で遊んで.......。他人の家のその「湯気の音」を聞いて、母親恋しくて家迄走って帰ったものです。 みなさん、心温まる素敵なコメントありがとうございます。
元気が甦ります。
親の期待 幸いにして、世間的な期待は持たない親だった。 ただひとつ「太陽の子ども」の様な明るさと笑顔 母の自慢だった。 それが曇る事 人に合わせて「らしくなくなる事」 回りと比べて自分を見失う事を とても悲しんだ。 そして命がけで連れ戻そうとしてくれた。
途中で幾度か流されそうになりながらも 何時でも他人に振り回されながらも 裏切らずに人生を折り返す事が出来た。
師匠の期待 世界中に数十人居る。 実に様々な価値観、人生観、 そしてそれぞれの期待。 「日本に呼んで演奏会」多くの期待に応えられていない。 ギリギリまだ「裏切った」訳ではないことにして貰っている。
流派・師匠の鞍替えは一回してしまった。そのお陰で今があり、 裏切った事になる師匠の流派の良きライバルになっていると思う。
長唄、小唄〜常磐津、新内................。 各流儀七人の三味線の師匠の一人の「跡継ぎ」の期待は「お断り」の形で裏切ってしまった。
音楽的な「裏切り」は、日々ちょこちょことありながらも、 長い目で評価して貰えれば、良き継承者と思ってもらえる筈だ。
ファンの期待 お客さんはそれぞれ様々な期待で聴きに来られる。 通俗に逆らっている分、期待は裏切っていることだろう。 ファンになってくれた方の期待は、演奏会の度に更に上へ上へと きっと応えられていると思う。 しかし.........。情に流され、ロマンに溺れ、回り道が多過ぎる点は、ある意味大きな「裏切り」と言える。
自分への裏切り 超エゴイスト、超ナルシスト。「自分が何時も一番正しい」 そう思われがち。 実際は、他人や世間や回りに合わせ過ぎ。自己喪失状態。 何が自分の「本音」かすら分らない。 自分への嘘 「本音」「我が儘」が分らないくらいだから 簡単に自分に嘘がつけるのかも知れない。
インド音楽のライブが終わる。 やっぱりインド音楽は最高だ!と思い、このまま毎日、一生 インド音楽だけをやっていたくなる。 が、翌日はアラブ音楽ライブだったりする。 やっぱりアラブ音楽は最高だ! ...................。
その繰り返し。
同じ失敗を繰り返しながらも 「生き方」は変えていない。 「信念」に背いてはいない。 期待に背いては居ない筈だが そもそも「期待」もしていない。 目の前に助けるべき人が居た時。 瀕死の猫が居た時 迷わず助けるに違いない。 それをしなくなる様な気の散り方はしないだろう。 別な価値観は持たないだろう。 その状態は「嘘」それをしたら「裏切り」 人が界を下げた時 高見から導く事が出来ない。 軽く流す事も出来ない。 情があればある程 出来なくなる。 それが出来る様な人間になったとしたら それは「嘘」 そして「裏切り」
「自分らしくない事」 それらは全て「嘘」であり「裏切り」
君は弱い人なんかじゃない。 それだけ人を責める事が出来るのだから。
君は弱い人なんかじゃない。 それだけ自分を守れるのだから。
君は弱い人なんかじゃない。 それだけ壊す事が出来るのだから。 物も時間も心も歴史も。想いも言葉も想い出も。
君は弱い人なんかじゃない。 そのオーラはそんなにも仲間を作れる。
君は弱い人なんかじゃない。 なのに何をそんなに恐れているのか。
誰が何を壊すと言うのか。 誰が何を奪うと言うのか。
そもそも自分で創ったものはあるのか。 そもそも大切にしているものはあったのか。
それらは誰から得た物なのか。 貰った物か 奪った物か それとも偶然拾ったものか。
それらを何に使うつもりだったのか。 今迄誰の為に使っていたのか。
何の為に守ると言うのか。 誰が奪おうとしていると言うのか。
そもそもそれは君のものなのか。 如何にそれを大事にして来たと言うのか。
全ては自分が答えを出している。 なのに何故 人を責めるのか。
もし神様がいるのなら。 そのメッセージはどの様に届くのだろう。
鳥のさえずりや、子猫の鳴き声。 月の輝きや、雲の流れ。 雨の爽やかさや、波の音。 私の五感に訴えて。 私の気分に伝えて来る。
もし気分で受け取れないのなら。 遠くの立派な人の言葉や、感動的な芸術作品。 考えさせる深い言葉。素敵な文章。楽しい音楽。 私の感性に訴えて。私の思考を覚醒する。
もし思考で理解出来ないのなら 嫌いな人や、苦手な人。 見知らぬ人の 表情や、言葉。謂れのない誹謗、中傷。 不愉快を通じて教えてくれる。
もしそれでも気づかないのなら 大好きな人の優しい言葉や 仲良しさんの思い遣り 解り易く、穏やかに こどもを諭すかのごとく 想いに伝えてくれるだろう。
もしそれでも分からないのなら 尊敬する人の厳しい言葉や 険しい表情 悲しい瞳 もうこれが最後のチャンスだよと 私の心に伝えるだろう。
もしそれでも動かずに、決めずに悩んでいたならば 不思議な出来事や 偶然や 思いがけない言動で 目の当たりにしてくれるだろう もはやそれは魂に語る 最後通告
音楽という名の彼女 もうかれこれ35年のおつき合い もしかしたら母親なのかもしれない 少なくとも養母には違いない
音楽という名の彼女 気難しい 気まぐれ その場、その場の気分や感情 哲学が無い
伝統には「道」がある 武道、剣道、柔道、茶道、華道 「技」と「精神」を求めるものには「道」が教えられる ところが「音楽」には「道」が無い
音楽という名の彼女 振り回される事が多かった 急に止まって駄々を捏ねる 急に走り出したりも
音楽という名の彼女 好かれる為に頑張った 誉められる為に頑張った 頑張ればその分去なされた
音楽という名の彼女 何処に連れて行かれるのか 安らぎ、癒しはくれやしない 喜び、楽しみも在っただろうけど
でも音楽という名の彼女 決して「嘘」は付かなかった 決して「嘘」を付かせなかった 裏切る事はしなかった
音楽という名の彼女 時には愛し切れなくとも 時には愛し過ぎてしまっても 決して逃げては行かなかった
音楽という名の彼女 手間はかかるし ややっこしい 思い通りになかなかならない なったと思うとダレている
音楽という名の彼女 最近やっと懐いてくれる やっと信用されたのかも いずれは家族になれるのかな
されど人生費やして いろんな人に不義理して いろいろ次々注ぎ込んで それでも尚まだ足りない様だ
音楽という名の彼女 人前で肩を抱ける様になった やっと最近 余程機嫌の良い時
5月から福岡で再結成するラテン音楽バンド「キューバSon楽団 Conjunto del Chicorro」が怒濤の三連続ライブを行います。
同じ5月には15年振りで若林がBluesに再挑戦。否、再再挑戦。 15歳で民族音楽を始め、18歳でロックを兼業。民族音楽だけじゃ仲間も居ないし「どうもお金にならなそう」エスニック・ブームの10年前の事です。 ところがロックのつもりが「君のはブルースに近い」と言われ「ならば」とBluesに転向。アコースティックなデルタ(カントリー)ブルースからエレクトリックなシカゴ・ブルース、ジャズ掛かったモダン・ブルース、明るいメロディーのノベルティー・ブルース&ジャグ............。とにかく大系的、歴史的な考察を実体験するのが癖なので、手当たり次第。民族音楽に挑む時と変わりません。
思えばBluesも150年〜200年の歴史。 バリ島のガムラン。インド音楽の打弦楽器サントゥールや管楽器バンスリ。ブルガリアンボイスなどなどの良く知られた民族音楽より、遥かに長い歴史があります。 充分「民族音楽」の域です。
その後、一通り世界の民族音楽を探訪した際。 二度目の世界一周民族音楽探訪の前のほんの半年。Bluesに再挑戦しました。 それから早15年。
「捨てる神ありゃ拾う神あり」
先日も嬉しく福岡のBlues人脈が一気に繋がってくれました。 そしてラテン人脈もひと足先に楽団となり初舞台の日が迫ります。
四面楚歌、八方塞がりになっていたかもしれぬ活路を切り開いてくれています。
方やカリブの椰子の樹とサマーブリーズ、海の香り。 方や屋内で煙草と酒の香りが漂う。 ある意味両極端。
思えば、アジア、アフリカ民族音楽は...............。 樹の香り、若葉の香り、土の臭い、風の音 川のせせらぎ、虫の声 昨年末からこの春に掛けて。 吉祥寺の大引っ越しやらなんやかんやで。 樹を観ていません。 香りを聞いていません。触れていません。 緑すらゆっくり観てもいない。 極力空は観る様にしています。風も感じようと。 雲も観ようと。
でもゆっくり眺めている時間がありません。
あの時代が遠くに感じます。 福岡だったら直ぐに素敵な所に行けるのに。 「ここだったらステージの合間でさえ来れる!」 そんな場所が一杯。 筥崎宮迎賓館の中庭 マリノアシティーの桟橋の様なベランダ 楓の樹に感動した「友泉亭」の庭園 佐賀との境の山の裾の「涼山泊」
地下鉄とバスでライブハウス 楽器を担いで缶ビール飲みながら。 180度転換して、ちょっとアーバンな春です。 ビルの谷間の夜空から 月と金星が慰めてくれます。
あの頃の若葉の香り、 木漏れ陽のきらめき ビヤガーデンの爽快感
しばらくは味わえそうにないので 歌に託してみたいと思います。
古い深い井戸 煉瓦の内壁は苔むし 掴にどころさえない。 何処迄続くか分らない程深く 暗黒の湿った閉所。 冷たく重たい澱んだ水の中を片手、片足でまさぐる。
無くした大切なものを拾わねばならない だが、もう諦めて外に出たい。
見上げると白い月の様な井戸の口が見える 入り口では誰かが覗いている 叫んで励ましてくれている様にも聞こえる ただただ心配そうに覗き込んでいるだけかもしれぬ。
ニヤニヤ笑っている様にも見える どっちにしても米粒位の大きさだ。
井戸の入り口に居る者は必至につるべを垂らす 太い麻縄だが古びている
井戸の縁で擦れて今にも切れそうだ 井戸と縄の間に腕を入れる。
片手で縄を引っ張りながら 片手は擦れて滲み出す
自分はどっちに居るのだろう 井戸の中か 井戸の入り口か その昔は、人々の命の泉だった 中に落としたものは
輝かしいものに違いない
夢ではそれはまだ現れなかった。
「誤解され易い性格」 昔から良く言われる。 自己批判すると 自己アピールが下手で説明責任に無頓着 人はそれぞれの立場、価値観で理解、判断する 実はそれが良く分からない。
「たんぽぽは黄色い」それで終わる理解が分らない。 「たんぽぽは山吹より白い」と思ったりする。 「たんぽぽの話しをしているんだ! 君はなんで山吹を持ち出す!」と叱られる。 「猫は怖い」という人が居る。だから「嫌い」という人が居る。 それで終わる感覚が分らない。 「虎より怖くない」と思う。 それより「怖い理由」が知りたくなる。 「好き嫌い」以前にそれらが重要になる。 問われて答えられない。
果たして「好き」なのか「嫌い」なのか。
「猫が好きか?」「音楽が好きか?」 問われて初めて気がつくけれど 考えた事が無かった。 「猫さんが好きなんですね」「音楽が好きなんですね」 そう言ってもらうと助かります。 「好き」って言葉は,柔らかくて、フワフワしてて、 嬉しいから。
5W1H 何時、誰が、何処で、何を、何故、どの様に 「噂」というものは「何故」を忘れる時がある。 人はそれぞれの立場、価値観で「何故」を決めつける。 時に「何時」「何処で」さえも事実と違ったり。
驚く様な「誤解」を受ける事がある。 「この店のマスターはこのビルのオーナーで、 この上の階に住んでいる」 たまたま客席で珈琲を飲んでいた私の隣でお客さんが会話した。 「だから、こんな道楽出来るんだろうね」「だね」 毎月ン十万の家賃は大変だったのに..........。
何時だって、こんな感じ。 最近も驚いた。
説明責任 在るのかどうか? どうでも良いさ とは思わないけど。 言って理解されるものなのか。
同じ誤解なら 良い方に間違ってちょうだい 事実もそうなる様に頑張りますよ
人は何故悪い話しが好きなのか
ああ 今 抱きしめたい 母を許して 抱きしめたい 許しを請うて抱きしめられたい 娘を許して抱きしめたい 幼き時のあのままに
ああ 今 抱きしめたい 過ちに気づいた弟を 良く頑張ったと抱きしめたい 誤解を解いてくれた兄に 良く頑張ったと抱きしめられたい
心が離れたと思っている人 心を閉ざしてしまっている人 自分の狡さに気づかぬ人 自分の狡さに負けた人 人の悲しみが分からぬ人 悲しみに負けた人 「触らぬ神に祟りなし」「君子危うきに近寄らず」 「駄目な奴は放っときな」「いい加減に諦めな」 そう言われても抱きしめた。
温かく励まし、優しく説いて 厳しく諭して
音に託して 笑顔に託して 文字に言葉に想いを込めて
気づいてくれるまでじっと絶えて ずっとずっと抱きしめていた。
ああ 今 抱きしめたい 見ても分からぬ愚かな心 聞かねば分からぬ弱い心 聞いても分からぬ狡い心 居なけりゃ感じぬさもしい心
強くなれずに逃げてる心 痛みに負けて苦しむ心 狡さを弱さと言い訳して 人を傷つけ気づかぬ心
全てを許して抱きしめたい 赦さぬ心で抱きしめたい
ああ 今こそ 抱きしめたい 過ちに気づいた健気な心 後悔に沈む悲しい心 自暴自棄にならないで 必死に頑張る立派な心
大丈夫だよと抱きしめたい
音と笑顔と言葉と文字で
もどかしいけど届けたい
ずっと抱きしめ続けていると
港ほど悲しくない 港ほど悲しいと 逆に元気になれるものだ
人間の本能かもしれないけれど 海に戻って行くことは 悲しいけれど 心休まる
海の民族の本能かもしれないが 海に出立することは 明るい未来を感じさせる
空に発つのはとても切ない あまたの映画の記憶の中で 空港シーンが残ってしまう
きっと駅も同じだろう とっても大きなターミナル駅 子どもの頃に見た上野駅 欧米映画にそっくりだった。
幸い今は見る事はない。 そんな大きな駅はない。 新幹線のモダンさは 切なさ悲しさ吹き飛ばしてくれる
だから空港が一番寂しい 小学生の頃の羽田空港 国交正常化前の文化使節 文学座が中国に送った。父を見送り悲しくなった。
帰ってくると分かっていながら。 飛び立つものを見送る悲しみ 窓から見える箱庭の街
どんなに不祥のお弟子でも どんなに意地悪な友達でも 空港に居る時には優しかった。 悲しい結論は言わないでくれた。 案外優しい人たちだった。
ずっとずっと嬉しかった 七十数回嬉しかった 夢と希望とやり甲斐と 友と笑顔と優しさと 朝早く出ても満員電車 くたくたの体も嬉しく搭乗 とても大きな力が有った
そういえば今日もピンときたら やっぱり今日もN機長 珍しく離陸前に素敵な声 それほど気流が悪かった。 N機長では初めての 普通の着陸
お医者の気休めは悲しいですね。 嘘ではないかもしれないけれど 励ますつもりの温かい心 思い遣りの優しい心
それでもやっぱり悲しいですね。
客観的事実
お医者に言われると悲しいですね。 それが正直ほんとうだろうけど 気休めを言うべき、聞くべきじゃないけれど
友に語られると寂しいですね。 一緒に怒って貰いたい甘え 苦楽を同じに感じて欲しい? 気休めを言われても悲しいけれど
客観出来る君は何処に?
音楽家でごめんなさい。
お医者はさぞかし辛かろう
楽な仕事でごめんなさい。
浜辺に打ち上げられた小瓶の中に手紙があった。 差出人も日付も住所もない。 素敵なメッセージだったが 何十年海を漂ったのだろうか。
返事を書いて海に投げる きっと本人に届いたり ご子息に届いたりする そんな出来事って きっとある。
モーリタニアの弦楽器を修理した 中にアラビヤ文字のメモ 直す心が無ければ読めなかった 素敵な一文 自分もメッセージを入れた いつの日かその楽器は祖国に帰るに違いない そんな出来事って きっとある。
売れ残りのアフガン弦楽器にサインを見つけた その人とその楽器の人生が伝わった 出来る限りの 湿気の国で長生き出来るように修理した お金持ちだったら出会えなかった 売れ残りのその一本 いつの日かその楽器は祖国に帰るに違いない 乾燥の国には不要な修理 僕の人生を読んでくれるだろう そんな出来事って きっとある。 今のあなたがあの頃の僕にくれたメッセージ あの頃の僕は今のあなたに送っていた。 これを「通じた」と言わず何を言わんか
「私の詩は 私亡き後数十年後にあなた達の心を掴むだろう」 アジア人初のノーベル文学賞受賞者の言葉だと言う。 今の心を理解する人が いずれは理解出来なくなる かつての心を理解出来なかった人が 今は理解してくれる いずれ理解出来なくなった人が 再び理解出来るかもしれない ザンビアの童歌の様だ。
中学の卒業文集 今の私にメッセージを送っていた。 あの頃から何も変わっていない 考え方も生き方も 音楽続けている人生も
ただ少しくたびれて かなり汚れて ひね曲がったけれど あの頃の私に言うとしたら
君の期待に応えたよ 頑張って頑張って答えたよ 夢は叶いはしなかったけど 真っすぐ歩いて来ましたよ
今回の人生を終わらんとしている私に 今の私が送るメッセージ
きっと頑張ってくれたのだろうけど、きっとお疲れの事でしょう どうぞゆっくりお休みなさい 見送る人が居ることを きっときっと居ることを
今回の人生を終わらんとしている私が 今の私に送るメッセージ
君があの時もう少し あとほんの少しだけ 頑張ってさえいてくれたなら
そう書かずにすむように そう思わずにすむように