diary 2005 december
12月も初めの3、4日は暖かめでしたが、第二週に入るや急に寒く成りましたね。三週目に至っては寒波が到来し、東京でも福岡でも雪がぱらつく程の寒さ。 今年は怖いインフルエンザの話しもあり例年に増して都会、人ごみに出て行く用事の多い若林も恐々としております。 でも気合いが入っているのと、今年はおかしなお友達の御陰で良く笑うので、ほとんど風邪も引かずに張り切っています。 ただ「猫毛アレルギー」はこのところちょっと悪化。 薬が切れ掛かる時のジンマシンから、一歩進んで唇が腫れたかと思ったら、遂にまぶたが腫れる症状迄。さすがにちょっとうろたえました。 それでも教室のチャメ君は可愛さ可笑しさが増す一方で、自宅の11匹も楽しさ愛しさ増す一方。孤軍奮闘「猫たるや人間に媚び売るなかれ」を貫いていたアイーシャまでもが日に日に尖った性格が丸く成り、若林の布団に入って来たかと思えば、ついに他の猫達と寄り添って昼寝をし始めました。猫さんも年齢とともに丸くなるんですネ。 このHPの表紙と上野写真は、 東京音楽大学付属民族音楽研究所の受講生から奥さん、息子さんと一緒にお友達になったヤマヨシ君が撮ってくれたチャメ君との教室での写真です。
12月5日は2005年3月にも生放送で出演しました渋谷のN.H.Kの敷地内にあります「ふれあいホール」で、今回はBS2の番組の公開録画に出演しました。 番組は「BSふれあいホール」 ピアニストの国府弘子さんの司会に歌手の辛島美登里さんが三回に渡ってゲストで呼ばれ、その第一回目に若林忠宏が日替ゲストで呼ばれインド音楽を始め幾つかの民族楽器をご紹介したものです。 一曲目は辛島さんの代表曲「あなたの愛になりたい」をピアノの弾き語りで。 若林はお仕事で共演させて頂く他は、日本のポピュラー・ミュージックとの接点があまりなかったのですが、初めて聴かせて頂く辛島さんの歌声、音楽はなかなか素敵でした。声が大変綺麗で、嫌味が無く、詩は勿論ですが、音と間を大切にされている感じが大変気に入りました。 辛島さんがセンセーショナルに登場した1990年代前半は、若林が最も必死に民族音楽に取り組んでいた時期。T.V.もほとんど見なかったので存じ上げなかった次第ですが、ここ数年の余裕でなにげにT.V.の歌番組を見れば、声量や表現力が無いのをごまかす為か、歌い方や声に変なクセをつけたり、いかにも頑張ってます心を込めていますの表現の流行なのかブレスがとっても目立つ歌い手さんがとても多い様な。我が儘でひねくれた若林は、それだけで歌心や歌詞の世界に入って行けなくなっていました。 そんな日本のポップス・シーンで辛島さんの存在は救いだなア、とさえ思います。 これもご縁なのでしょうが、番組プロデューサーさんがふとした偶然で若林にたどり着き、運良く東京にいる時期に共演のお話が決まって。 楽しいお仕事をした後はどなたとも「また是非ご一緒したいですね」の気持ちになるものですが、それ以上の何か通じ合うものを感じた様な気がします。 カラッとしながらも暖かい国府弘子さんの司会に誘われてステージに上がりました若林は、二曲目にインド古典音楽の演目をシタール独奏で披露。 その後で辛島さんが京都嵐山の紅葉を見て作ったという「紅葉空」でシタールとタブラを弾かせて貰いました。 とても楽しく、穏やかな気持ちで共演し、辛島さんにも国分さんにも、そして番組スタッフさん達からも真心の賛辞を頂きましたが、よくよく考えて見えると、この種のお仕事の割にはリハーサルが少なかった。というよりほとんど無かった! 譜面を渡されたのが1 週間前でも、曲の構成が決まったのが三日前。それから譜読をしてインド譜面に書き換えただけで当日。サウンドチェックとカメリハで本番ですから、二回通しただけでした。 曲のイメージも本番のMCで初めて「へ〜!嵐山なんだ」と知りましたが、直後には若林のシタールから曲が始まって。原曲のヴァイオリンの旋律は本当はカメリハが最高の出来で、本番はちょっと凝り過ぎ。でも曲の後半で半音転調したところから登場するタブラの第一音は我ながらゾクっとしました。 タブラに持ち替えたのは シタールに半音の転調は無理だったから。ちょうど理想の音域だった分、半音転調は一番厳しく、共鳴弦のい全てが不協和音に成り、フレットも足りなく成りました。 そこで無理をせずにタブラに持ち替えたのは正解。ピアノを弾き乍らタブラの第一音が鳴る度にニコっと微笑んで下さる辛島さんにも良い感じで伝わった様な気がします。 その後、数々のTV番組のお決まりの「民族楽器紹介コーナー」 そして45分の番組のラストはサンバっぽいノリもある軽快な曲「ハーフ&ハーフ」で紹介コーナーの楽器を、インドのハンドシンバル→鈴→インドのカスタ→ブラジルのカシシ→ナイジェリアの瓢箪打楽器→ニジェールのトーキング・ドラム→インド太鼓タブラ→アラブの太鼓ととっかえひっかえ。普通はもっと選びますが、何ぶんコンセプトが 「なるべく多く使え」だったので.............。 CMが無いからの理由もあるかもしれませんが、公開録画自体もノーカットのコンサート形式。お客さんも常連さんが多いのか暖かく聴いて下さり、解説ではニコニコとうなづいて下さって。全体的にとってものんびりと、まるで25日に出ました若林の岩波新書の新著「スローミュージックで行こう」の新刊記念キャンペーン期間中!の様な柔らかな一日でした。 それには辛島さんの音楽にある広大な大地を感じさせるイメージの御陰も大きかったと思います。 民族楽器を取り入れるポピュラー・ミュージックが少なくない昨今ですが、「アーバン」と言えばカッコいいですが、行き場の無い都会、現代社会の閉塞感を絞り出した様な雰囲気への共感を狙って売らんかな?と言う風潮が感じられ「癒し系」と言ってもどこかにストレスが感じられて民族楽器を使っていても逆に辛かった。 せめて音楽ではモンゴル大平原位感じさせて欲しいと思っていたところに出会った辛島さんの音楽でしたからかなりに嬉しいお仕事でした。国府さんとも初めてのお仕事でしたが、昼から夜までですから短くはないお仕事とは言え、終わった頃には三人で連続番組やって来た様な気さえしました。竹楽器アンクロンを合奏する時にみんなで気付いた「三人とも左利き!」も親近感に繋がったのかもしれません。 【若い世代の番組制作者の人間性に期待する】 番組制作会社のスタッフも大変感じが良かったのも嬉しかったです。ディレクターさんが本番直前に「若林さんには楽しんで 帰ってもらいたい」と言ってくれた時は、今迄のこの種の現場で聞かなかったその言葉の珍しさが先行しましたが、終演後、代わる代わる楽屋に来てくれるスタッフさん達が真顔で「本当に楽しい良い会に成りました」と言ってくれた時に、次々仕事をこなすでもなく、かと言って「創るんだ!」と頑張るでもなく「楽しむ」という感覚のニュアンスが分かった様な気がしました。 吉祥寺と渋谷の往復の楽器運びを手伝ってくれたこの春入社の若いAD君もとっても感じが良かった。 帰り道のワゴンタクシーの車中「楽屋のおにぎりって誰の好み? 辛し明太と辛し高菜って九州っぽくない?」と聞いたら「さあ? 誰が買って来たかは分かりません。でも僕は福岡出身です。」とこれもまた奇遇な! 四日前に福岡から戻った若林が福岡話しをすれば「この六年で久しぶりに東京で福岡の話しをしました。えっ!『おきゅうと』? 懐かしい!」と感動してくれて。 「おきゅうと」は29日に生まれて初めて頂いた、テングサ(後日談参照)を材料にした生コンニャク風のヘルシーな食べ物。菜食系の若林には大変嬉しい食べ物で、NHKの前日の吉祥寺のパーカッション教室でも久留米、北九州出身のお弟子さんが居るのでその話題でひとしきり盛り上がった翌日でしたから頭の中には「おきゅうと」「おきゅうと」。 番組「ふれあいホール」のエンディングでゲストが座右の銘の様な言葉を色紙に書くというのがあって、若林も書かされたんですが「自分の字が読めない人だから」と固辞したのに駄目で、生まれて初めてそんなことをさせられました。 楽屋で考え込んでいたら「一言って方が多いですよ。何か一言、今頭に浮かぶ言葉無いですか?」って聞かれてその時頭に有った言葉がなんと「おきゅうと」これじゃ番組が終わらんと言う所から話しが長くなってしまいますから.................。 そんな話しを福岡の親友に電話で話しましたら「『おきゅうと』は深いよ!」「人知れず人の健康を考えていて、でしゃばらないけれども、ちゃんと自分らしさを出していて」って。番組最後の「一言」に「しとけば良かった?」と思わされる不思議な解説が返って来ました。さあ、果たして昨日の若林の演奏は「おきゅうと」だったでしょうか? 「ごぼう天うどん」の「ごぼう」だったかな? それでも嬉しいですが.............。 「おきゅうと」が懐かしいと車中で歓喜していた福岡出身の新人TVマン君は、今度のお正月は帰郷するかな? 逆に忙しい業界だから無理かな? でも「おきゅうと」が中野で売ってるって噂も聞きましたヨ。 番組収録前後ずっと若林の世話をしてくれた何かと気配りの行き届いた若いのにしっかりとしながらも、何処かゆったりの優しい青年で、彼の御陰で帰路も楽しく。いろいろな場面で「つながり」を感じる「スローな」一日となりました。
辛島さんも楽しんで下さった様で「公式サイトに載せるから」と若林とのツーショット写真を撮って下さりました。「まだアップされていないだろうな」と思い乍らサイトを拝見したらなんと彼女も九州人。鹿児島市のご出身で、ご自身のサイトの他にも南日本新聞のサイトにもエッセイを書かれていました。 番組のオンエアーは、N.H.K.BS2で1月24日(火)の18:00〜45分。 再放送が N.H.Kハイヴィジョンで翌25日の15:00〜だそうです。
12月5日の後日談 「おきゅうと」の事に触れたので、サイトでもう少しお勉強しました。 ありました、ありました。ちゃんと詳しく書いてあるサイトが意外に多く。中には「おきゅうとはり(お灸と鍼)」のサイトも混じってましたが................。 材料は「エゴノリ」という海藻だそうで。テングサのところてんより腰があるらしいです。 若林が頂いたのは口溶けも良く、とっても食べ易い美味しい食品でした。 しかしながら、その名の由来はどなたも明確ではないようでした。 食糧難の際に「救人」と呼ばれた、というのもありました。でも、名の由来が分からなくなっても愛され食されているのは嬉しい様な切ない様な。民族音楽の世界でも由来が分からなくなったものもとても多い。古い伝統をずっとやっている様で居て、世界の何処でも伝統や風習はどんどん変わって行く。 「おきゅうと」も何時の日か若者が見向きもしなくなるのかも知れないですし、海に潜って採る人も居なく成るかも知れない。かと思えばある日突然「ポリフェノール」だかなんだかがもの凄いとか騒がれて、海底ショベルカーがなんかでガリガリ採る様になるかも知れない。 全く昔の人にしてみれば、今の人間のやること為す事「気が知れない」事ばかりでしょうね。 昔は誰が成分を科学的に分析した訳でもないのに、誰も騒がず、何処の会社も派手に新製品を宣伝もしないのに、ちゃんと何をどのくらい食べていれば健康でいられたかが分かっていた。 それが今じゃそんな昔の人の知恵など忘れて、突然「ポリフェノール」だ「フラバノール」だって、おかしくないですか? 民族音楽でも同じ。若林もこの数週間「誰もが簡単に喉を痛めずホーミーを出す練習方法の開発」にいそしんでいますが、1970年代末、日本で誰も「ホーミー」について語っていなかった頃、偶然手に入れた輸入盤レコードで聴いた時、ホントに怖かった。タレント歌手の録音にオカルト的な別な音が録音されているののモンゴル版かと思ってレコードごと供養しなくちゃって思った程です。それがオカルトじゃないって分かった後もレコード棚の角に「勝手に出て来ないでネ」ってしっかりしまって有ったんですが、それが今じゃT.V.C.Mに登場するや「ポリフェノール」状態で。 アフリカ太鼓の「ジェンベ(あっジンベでしたっけ?)」もしかり。ギニアの町の「おきゅうと」だったかもしれないものがなんで日本でそんなに流行るの? 日本人が買うから大樹を切って、安かろう良かろうで東南アジアの自然を壊して。ジェンベがそんなに好きならバンディケは? そう言えば最近ラスタカラーって見かけなくないですか? 昨日のNHKBSの収録で辛島さんが民族楽器の音色を聴いて「なんだか切ない」とおっしゃったのが妙に心に残りました。「癒される」「暖かく成る」という声は幾度も聞けど「切ない」という声は珍しい。と言いますか若林はそんな風に感じるのは自分だけかと思っていたので、かなりびっくりでした。 今迄その感覚を 自分で分析した事は無かったんですが、前世の記憶かもしれないし、「昔ながら」の響きを聴いて昔を懐かしく感じるとともに忘れていた何か、失った何かを思い出すのかもしれない。いずれ今聴いている音も失われて行くだろう感覚に襲われるのかもしれない。 意味も理由も分からずとも民族音楽の響きにその様な何かを感じるのでしょうか? またお会いする機会があったら辛島さんに聞いてみたいと思います。 意味が分からずとも「おきゅうと」の響きに若林もなんだか楽しい様で切ない感覚を感じました。やっぱり方言や食文化って大切ですね。民族音楽をやっているとつくづくそう思います。 東京に生まれ育ったから尚更なのかもしれませんが。 逆に九州に行くと東京原住民の血が呼び起こされる感じもあります。気付けば「ひつこい」とか「まっつぐ」とか言ってる自分にびっくり。 でも意外に江戸・東京原産の物って少なくて。「佃煮」だって関西?からの移入でしょ? 昨晩NHKから戻って辛島さんのサイトと国府さんのサイトを拝見し、国府さんのサイトに掲示板が有ったので、早速お礼メッセージを書かせて頂いたら、スタッフの方がお返事を、そのサイトのみならず若林の掲示板にも下さって。暖かいお気持ち嬉しく思いました。ありがとうございました。 P.S.12月10日 お友達に教えて貰って辛島さんもご自身のHP日記に共演の写真と嬉しい文を書いて下さっていました。ありがとうございました。 福岡出身のAD君からも嬉しいメールを貰いました。 「僕も人と人との「つながり」を大切にし、「おきゅうと」のように「でしゃばらないが、自分らしさをもった」人になれるよう頑張りたいと思います。」の言葉は大変嬉しく思いました。ありがとうございました。
【10月迄蝉が鳴いていた福岡も】 10月11日に福岡市文化芸術振興財団の企画の「音楽鑑賞教室」で訪れた福岡市の西、生の松原近くの西陵小学校では10月だと言うのに裏山からヒグラシの声が聞こえ、さすがに九州は南国だ!と昆虫シーズンが長い事を嬉しく思いましたが、それから丁度二ヶ月後。たったの二ヶ月で福岡は寒い寒い冬です。 11日の日曜の天神の町。師走を感じさせる人ごみを抜けて警固のネパール料理店「マイティー・ガル」へ。道を行く若者が奇妙なミックス福岡弁で「今日はしばれるとぉ」って言ってたので「東京から比べればこんなん「しばれる」内に入らん!とつぶやいてすれ違いましたが、どうもそれは若林得意の「思い込み」が為せる技だった様です。 もしその場で温度計の数字を知ったら「九州は東京より暖かい」という「思い込み」の魔力が解けて急に「しばれた」に違いなく、実際翌日の福岡の2nd雪がぱらつくのを見て急に寒さを感じたという有様です。 それどころか雪が降ったの日の晩などは、歩き乍ら携帯のキイが震えで押せないという寒さを初めて体験。携帯というものを手にしてからの最低気温だった訳です。 福岡も冬はしっかり寒かったのでした。 【スカイマークAir Linesの名パイロット】 高所恐怖症の若林が意を決して初飛行機で初渡印してから25年。これまでの国内外飛行機搭乗数を、たった8ヶ月で越えてしまった東京〜福岡往復の全てがスカイマーク便です。 リーズナブルさと尾翼のデザインが気に入って、何処の空港でも端っこに搭乗口があるので、ギリギリで猛ダッシュするのも良い運動で愛用させて頂いています。 思えば日本中が急に寒波に襲われた11日。本州、瀬戸内海も何処も厚い雲に覆われて飛行機の窓からは白く厚い雲だらけ。更に気流が強く、乱れが有った?その日の便は、初渡印に次ぐ人生で最も揺れました。 ハイハイをしていた乳児の頃に親達が「あ〜!大変」と叫ぶ中、自分で縁側の縁でUターンしてきた程の高所恐怖症。そんな若林の初飛行機が旅慣れた人も驚く程に揺れたり急降下急上昇。思わず発した乗客の声が機内に響く程。しかもバンコクで三度も離陸に失敗した挙げ句「エンジントラブル」で飛行機を取り替え。無理をしていたら大惨事?という恐怖体験。 ところが意を決して乗り込んだ若林は「ほら!やっぱり怖いじゃん」とむしろ覚悟が出来ていて「飛行機はこんなもの」と思えばそれ以後は逆に何処で乗っても安心感。 しかしその日の福岡便は、そんな若林が数十年振りに「おっ!今日の揺れはかなりでかい?」と感じた程でした。ほんの僅かな時間でしたが。 すかさず客室乗務員さんがアナウンス。それでも更に大きく揺れて遂に機長のアナウンス。飛行には支障が無い事を告げられましたが、その機長の声の良さと語り口調が素晴らしかった。 元々声(歌とM.C.)の仕事を始める前から、男女問わず「声の良い人」は「良い人間」と思っちゃうところがあるので、機長の暖かく頼もしい低音の素敵な声に思わずうっとり。プロのアナウンサー顔負けじゃないの?と言う程流暢に、暖かく。しかもスウィッチを切る直前の言葉は「本日の福岡は例年に無く寒さが感じられる様です。どうぞ皆様ご体調にはくれぐれもお気遣いなられて」の様な言葉を添えてくれて。それがまた落ち着きながらもハートが有って。 並ぶのが苦手な若林は何時も真っ先に前方出口にたどり着き、ドアが開くや飛び出るんですが、 その際についつい機長のお名前を再確認。 と、言うのもそのN機長、着陸の腕前も半端じゃなかった。 車の運転でもギアチェンジの上手下手で車酔いする情けない「渦巻き管」の持ち主の若林は飛行機の揺れには慣れて数時間酔わずにも着陸の時に一気に酔ったりします。それがN機長のランディングは、着地後しばらくしてからの逆噴射迄「着地したことに気付かない程」と言いたい位のソフト・ランディング! 国内線飛行場の中では決して大きくない福岡空港の2800mの滑走路。これが羽田の3000mや成田の4000mだったらN機長は逆噴射もソフトなの? 「逆噴射は常にフルスロットルだから関係ない!」のかもしれませんが、やっぱり、短い飛行場では早めに掛ける? いやあまりに着地がソフトだった分、逆噴射の衝撃が大きく感じたのかもしれません。とにもかくにも「声が綺麗で暖かい人は、仕事も、見事」という思い込みが更に強くなってしまいました。 注:アナウンスは機長の名で副長の場合もあるかもしれません。実際の滑走路の長さよりも、町中にある福岡空港の圧迫感は特別の様にも感じます。素人考えですが。 【ネパール料理店マイティガル】 心地よいソフト・ランディングのおかげの軽い足取りのまま、その足で地下鉄で天神へ。 そこから10分弱歩いて警固へ。2006年1月18日水曜日に記念すべき第一回が行われる事になった、若林忠宏の福岡でのインド音楽定期ライブ「Raga-Malika in Fukuoka」の会場、ネパール料理と雑貨の「マイティガル」に打ち合わせに。 若林の演奏を福岡アジア・マンスのステージで見て惚れ込んで下さったインド文化関係の大学教授の先生が自ら世話人になって下さって、福岡に住んで20年以上、ネパール料理と民芸雑貨のお店を開いてからも8年のネパール人Kumarさん、夫人のYumiさん達を発起人とした「若林忠宏のインド音楽を聴く会」を立ち上げてくれてのとっても嬉しい光栄な定期ライブの会場に初めて行って来ました。 【音と想いをつなげて】 ライブ・タイトルの 「Raga-Malika」の「ラーガ」はインド古典音楽旋法のこと。 西洋音楽の長調、短調の他にも独特な音階が数十あり、それの五音音階型、六音音階型、組み合わせ、主音と副主音の位置などなどの決まり事で各音階に数十の旋法があり、理論的には数百とも数千とも言われるのがラーガ。 「マーリカ」は「マーラー」とも言われる「花輪」のこと。インドの冠婚葬祭に欠かせない生の花びらを糸で繋いだものですが、「1曲1ラーガ」が原則のインド古典音楽に於いて比較的近年のプログラムですが複数のラーガをメドレーで演奏する手法のタイトルがRaga-Malikaです。 インド最古のシタール流派の内弟子としての若林はこの新しいスタイルは演奏しないのが本筋ですが、稀に演奏する時はRaga:Jhinjhoti〜Raga:Jayjaywanti〜Raga:Gara〜Raga:Ziraなど極似するラーガを並べるマニアックな演奏をします。 が 「Raga-Malika in Fukuoka」では、インド音楽のみならず、インド〜ネパール〜バングラデシ〜パキスタン、いわゆる「インド亜大陸」の【文化・風俗】をも紹介する「トークバトル」のコーナーも設けた音と音を様々な想いで繋ぐことを「マーリカ」と称しました。 プログラムも「ヒンドゥーの神々に因むラーガ特集」「春祭りのラーガ特集」「宮廷音楽のラーガ特集」などのテーマでラーガを次々に紹介する感じにしたいと思っています。 店長のクマール氏も夫人ユミさんも気さくで暖かな人。お店のライブで演奏したアフリカ音楽の近藤ひろみさんはアフリカに行き始めた頃に若林の吉祥寺のライブスポットで演奏してくれた、若林の親指ピアノ「ンビラ」の師匠。
【福岡インド(亜大陸)通の実家?】 マイティガルの意味はネパール語で「実家」本来は嫁いだ女性の実家ですが、福岡を離れたお客さんも帰郷の際には空港から電話して直行する人が何人も居ると言う、沢山の人に「実家」の様に親しまれている知る人ぞ知るお店。 若林が親睦会で意気投合して、お仕事を離れてオフの日に若林の教室・ライブのチラシを配ってくれた市役所職員さんも常連。若林の大橋の太鼓教室の生徒さんで旧芸工大院生も常連でした。 木の壁の全面にネパールにも有る手透き和紙を張り、店内所狭しと民芸雑貨が並ぶ20席程のかわいらしいお店は、天神からケヤキ通りを西進し、福岡中央病院から南に薬院六角方面に下り、10月に若林がロック・バンド「CICCAROLL」の録音に飛び入りしたスタジオ「ヒーコン」の手前、長円寺の向かいの筋を西に入った駐車場の上にあります。 3月の地震では宮廷料理のタンドールの大壷が割れて、やっと秋に復活したというご苦労を味わい乍ら、商売人根性が見事な在日亜大陸人にあらず、常連客さんさえもがアドヴァイスする程にお金より気持ちを貰いたい、スパイスでごまかすより素材の味を大切にしたい、というポリシーの頑固さが嬉しいクマール。純朴で暖かで情熱的なユミさん、淡々とした仙人の様な見かけに寄らずエネルギッシュで熱い想いの助教授と日暮れ前迄来年からのライブの展望を熱く語りました。 【 文句あんなら帰ってくれ! と言えない民族料理】
未だにカレーは「辛ければ本物」と思っている人が 少なくない日本。辛さは単に唐辛子の量。日本人の味覚と胃袋にはスパイスの味を分からなくさせ、胃を傷めてあまり意味が無い。しかもインド人が辛い料理を食べる様に成ったのは植民地政策の犠牲。 もちろん、本物かどうかは別として、辛い料理を食べて発汗作用、新陳代謝を高め元気になる、という目的で食べるならばインド料理は韓国キムチに負けぬ嬉しいチャンスではあります。ただ「あの店は辛くないから」と不満げに言うのはとってもフーリッシュ。むしろ「辛くない」方が本物で良心的で、儲けも少ない。 マイティガルも「辛くない!」と良く言われるので「辛くしたいなら勝手にこれを好きなだけ入れて!」と唐辛子ペーストを別に出したそうな。 なんと若林も自分の店で同じ事をやっていました。 良く「一見さんお断り」のお寿司屋さんなどで「そんな注文するなら帰れ!」という厳しい親父さんが居る話しを聞きますが、日本の料理を知ってて当たり前の日本人に対しては成り立っても、若林やクマールさんがやっている民族料理は「知らなくて当たり前」ですから「帰ってくれ!」と言えないところ。 「辛さが本物を意味しない」と学んだ人でもスパイシーだと「本物」と言いますが、これも間違い。 若林も自分の店でパキスタン人コックさんを雇った事があり、現地の料理人の隠し技を目の当たりにしました。しかも彼は「これは馬鹿で無知な日本人向け味付け方法」と言いながらスパイスはホール(粒)で少量を派手に効かせる技を見せてくれました。それで意見が対立して彼は三ヶ月で辞めて行きました。彼の言う通りにしていればお金も溜まったかもしれません。 マイティガルのネパーリ・カリーは辛さも控えめでスパイスも適量。野菜の味がじっくり伝わる嬉しいカレーでした。 本来「薬膳」の原点は紀元前のアーユルヴェーダ医療や仏教の時代のインド亜大陸。漢方薬にも多く登場するスパイスを適量適所に用いたものがカレーです。クマールさんは若林がそのあたりの知識とポリシーを持つと知り「それは音楽でも一緒」の言葉に刺激され、後日助教授が「久々にクマールも熱く語っていた!」と言う程の歓談でした。中でも日本に於けるインド料理屋の多くがしていると言うフェンネルの葉の特殊な用い方の話しには驚嘆。なるほどなあ、と勉強になりました。 【兄貴の持ち味】 料理の話し、日本でやり続ける事の難しさ、大切さを熱く語ってすっかり意気投合した後、肝心なライブの企画と、具体的なシステムの打ち合わせ。 そこでもクマール&ユミさんは良心的過ぎてむしろ学者と音楽家に説教されて。 かなり深く意見交換した後に「若林忠宏のインド音楽を聴く会」のネーミング考。 「音ってネパーリーで?」「アーワーズ」「えっ!それってペルシャ語だよ。なんかネパールっぽくないネ」「友達は?」「サティ」「?なんかスーパーみたいだね」「そう言えば日本に@@@@ってお店を初めて見た時に大笑い」「なんで?」「ネパーリーで貧乏人の事だから」などなどと中々決まらず。やっと決まったのが「Dai ko Sor(ダイ コ ソール)」 「ダイ」はおじさん、長兄。「ソール」は声。厳密には「その人、あの人の独特な声」という不思議な観念。「声紋」としてしまうとちょっと彼らが用いる暖かみに欠けるので「持ち味」とさせて貰いました。 12月15日追記: マイティガルさんのブログにYumiさんが楽しかったミーティングの日の事を嬉しく書いて下さっていました。http://blog.goo.ne.jp/kumar_m/e/c0b63ddd7f110cdc04217c3b42794af1 ありがとうございました。良い演奏会になりそうですね。 【大将のお店へ】 ネパール料理店マイティガルで食材の持ち味が生きている日本じゃ珍しいカレーを頂いた翌日は若林の11月末の岩波書店さんからの新著「スローミュージックで行こう」の最終章に登場する「大将」の日本料理のお店に。 大将の何時も変わらぬ暖かい笑顔と、心の隙間に「ポン!」と入り込んで中から暖かくしてくれる「何気ない言葉」。そして奥様の明るく元気な笑顔と言葉に心を温めれば、その料理は中から身も心も暖めてくれました。 10月にたっぷり「秋の食材」を堪能させて貰えば、今回はすっかり「冬の味」。 大将の料理は冷やした「卵豆腐」の段階で暖まりますから「焼き物」「蒸しもの」に至ってはもう身も心もポカポカ。ヒラメや、ホタテ、牡蠣といった馴染みの食材なのに、どれも初めて出会う様な。 口の中で嬉しさが大笑いして「美味し〜い!」と言って喉元過ぎると体中にちりばめられて行く感じで胃に入った感じがしない。明らかに満腹で、更に大変な満足感なのに「あれ!もう消化したの?」という感じ。 【客席との間の一線】 生まれて初めて頂いた「ふぐのお刺身」「若ちゃんの太鼓ソロに負けじと!」なんて心優しい巨匠ならではの嬉しいジョークを言い乍ら、目の前で「二枚引き」を見せてくれました。今迄聞いたりTVで見た、お皿の柄が透けて見える様な切り方とは違って少し厚めに切ったものを更に書籍を真ん中から開く様に切って行くので、とても薄い所とほんの少し厚い所が両方あって、ポン酢とのバランスの微妙な色々が堪能出来る。盛りつけも厚い側が外側に並んで、無地のお皿に牡丹の花びらの様に映えます。 初めての料理が大将の!なんて本当に光栄。その包丁さばきまで堪能出来て! 大将のカウンターでの物腰、動き、手や肘の使い方、力の入れ方抜き方、はホント音楽の勉強になります。 それでもカウンターの中と外の一線は、音楽のステージと客席の一線と同じで、如何にノリの良い演奏家や人間味溢れる料理人さんであっても、その気の入れ方、息づかい迄は伝わって来ないのが不思議。もしかしたら本物だから伝わらないのかもしれません。 若林はインド音楽の師匠に一度だけ同じ舞台に載せて貰いました。インド音楽の修行の一環なんですが、楽器も持たずに舞台に居るのは照れくさいものがありました。 ところが 演奏が始まるや否やその意味深さに感動しました。客席からは分からない息づかい、気の入れ方がビンビン伝わってくるのです。もし楽器を持ってたら自分の事で必死で分からなかった。 その時の感動が大将の包丁さばきを拝見しながたふつふつと蘇って来ました。 演奏家や料理人さんの気の入れ方、息づかいがその一線を越えて客席に伝わらないからお客さんはリラックスして楽しめ、味わえる。当たり前で何気ない事かもしれないですが、大事な事に思います。顔をしかめたり、息が聞こえる演奏家、歌い手増えて来てますが、料理の世界はどうなんでしょう。TVなどで見る限り、逆に淡々とし過ぎている人が多いかな? 大将は暖かみは凄く伝わって来て、決して淡々とじゃないですよ。 料理人さんなのに音楽の師匠の様でもある大将。 その世界ではたいへんな巨匠。でも、人柄も料理も暖かいとても大きな人。 そんな大将が若林がカウンターに座るや否や発した言葉にびっくり! 先日大将が聴きに来てくれたライブで若林が歌ったグァンタナメラが耳に残って気がつけば口ずさんでると。 「音楽やって来て良かった」出会いの運命とお引き合わせに感謝です。
【福岡の雪の空】 奥様の笑顔に見送られて大将のお店を出ると、パラパラと雪が。 東京の初雪?も2nd雪も見逃しているので、福岡のぱらつき雪が若林の初雪になりましたが、海が近くて風が強いからか、福岡の空は不思議な世界。 雪を降らす灰色の雲の切れ間に青空が見えたり、高層の白い雲が見えたり。自転車で走っている内に雪が止んで晴れ晴れとしたり、また曇ったり。ほんと福岡の空は飽きさせません。 海も見えれば山も見えて、高台に登ると全体が箱庭、交通会館の都市模型の様に見渡せる街ですが、その変化の豊かさには何時もワクワクさせられます。中心街は何処も清潔で、博多川端の博多座、リバレイン、少し南のキャナル、天神周辺、西のシーホーク周辺やマリノア・シティーなど何処に行ってもお洒落で綺麗で。それでいて物価がリーズナブル。 人々の感じも良く。東京吉祥寺などはむしろ福岡以上にお洒落でセンスが良い若者の街と宣伝されていますが、どうも全く逆な感じです。 吉祥寺も頑張って欲しい所ですが、地元人経営のお店がほとんど無いですから、商店会も人がどんどん変わって。なかなか難しいかのしれません。 【嬉しいメール】 薬院六つ角のネパール料理店に行って、10月に同じ薬院六つ角のスタジオでインド音楽弦楽器シタールと太鼓タブラで飛び入りレコーディングをしたことを懐かしく思い出した日の翌日。そのロックバンド「CICCAROLL」のニューアルバムが12月23日にリリースされるとのメールを貰いました。 リリースの日に福岡に居るなら記念ライブに出て欲しいと言ってくれたんですが、残念ながら東京。23日は若林の誕生日なので、ライブで盛り上がったらハッピーだったかも。 でもリーダーたいすけ君が、改めて聴いて若林の演奏は「やっぱりカッコいい」と言ってくれたのが嬉しかった!来年はライブにも新録音にもどんどん参加させて下さい。
福岡から吉祥寺に着いた翌日の12月15日(木)は朝からちょっと忙しい長い1日でした。 雪がぱらつく福岡よりも寒いかと思えば、風が少ない分でしょうか?海から遠いから?日差しも暖かで、屋内や電車内ではついついうとうとしてしまう程の良い天気。 日差しを受け易いからかだと思いますが 東西に走る電車は寝過ごしが怖くて怖くて。先日の千葉迄はお弟子さんが同行してくれたのでどうにかなりましたが、15日の川越の教室は東上線が高架な事も含めて本当にポカポカでとっても危険。小刻みに携帯のアラームを掛けて、辛うじて乗り過ごさずに今年度最後の授業むしろ早めにたどり着いて。 駅前のサンマルクでのお気に入りのコーヒータイム。テキストを書き上げる時間もあって。 【東京国際音楽療法専門学院】 音楽療法はこの5年、10年で日本でも急速に注目され、学会が出来たり、資格制度が出来ましたが、川越の東京国際音楽療法専門学院はその中の最先鋒の一つ。 昨年からレクチャー演奏に呼んで貰っていましたが、2005年は光栄にも一年生の1クラスの1授業を任され頑張りました。 音楽療法学の中でも「民族音楽」の価値は高く評価され、同時に肌合いの感じられる「民族楽器」も重用されています。 そんな要求の中で、若林は民族打楽器を用いた「即興演奏」のクラスを任されたのですが、音楽大学の有名教授が「即興演奏」、民族音楽学の先生が「民族音楽」、その他の講師が「パーカッション」の授業を持っている中で、若林ならではのレッスンが期待されて、かなりシビヤなお仕事でした。 民族音楽を教える訳でもなく、民族楽器を用いて民族音楽演奏家ならではの即興演奏を教えるわけですが、入学一年目の学生さん達の民族音楽系打楽器技術は全くの素人レベル。それを8、9回のレッスンで「即興」という音楽演奏スタイルの中でも最高レベルが出来る様にする、大変な課題でした。 言う迄もなく、ほとんどの時間「民族音楽系打楽器の基礎奏法」に終始してしまった訳ですが、11月と12月の最後の最後になって、ちょっと?いや、かなり若林ならではのレッスンが出来たのではないかな、と思います。 特に今年度最後の授業となった12月15日は、音楽療法の現場のシュミレイション。 学生がクライアントさんに扮し、代表が講師となって音楽療法を進めて行く。その中で若林なりのアドヴァイスを、それこそ培った音楽経験のあらん限りで即興で反応し、それから幾つかのポイントを取り出してしっかり記憶して貰う。 不思議と言えば不思議、矛盾と言えば矛盾ですが、最終的に若林が見せた打楽器奏法と音楽は、いままで教えて来た「民族音楽系打楽器の基本奏法」とは全く関係無い楽器の用い方であり、むしろ楽器を用いる事以前、以外の事がほとんどでした。 楽器を鳴らしてみることのみならず、パントマイム、MC話術、パフォーマンス術、ありとあらゆるテーマを臨機応変に展開。 始まりの所で緊張のあまり怖い顔になっている講師役が居れば、その怖い顔を。初めの挨拶でモジモジしたり肩や腕をポリポリ描いてしまった講師役が居れば、そのアガッタ時のクセをすべて「芸」に代えるという発想を伝授。 太鼓を叩くという発想さえ捨てて、クライアントさんがその「物体」にどう反応するかを優先し「教える」のではなく、こちらが「学ぶ」ところから音楽を初めて行く発想などなど。それによって彼らの現場での緊張が少しでも和らげばと。 来年度からの授業についてはまだ未定ですが「音楽療法学」に根ざし乍らも自分の音楽経験を生かし限られた時間の中でより効率良く学生の実力を育てて行く。その点では「音楽」を教えるという次元には収まり切らない視野が求められていると痛感しました。 幸いに一年を通して出席率が良かった若林の授業ですが、最後の授業は春からで一番学生達が盛り上がって、笑顔や喝采が溢れ、別れ際には各自が笑顔で感謝を述べてくれました。
【アジアン特急2005】 川越の授業を終えるや否や、トンボ帰りで吉祥寺へ。 この春から毎月イベントを行って来ました、吉祥寺の老舗西域民芸品店「はるばる屋」さんとの合同企画「アジアン特急2005」のファイナルイベントです。 会場は何時もの50人程で満員のスタジオから、ファイナルを盛り上げんと武蔵野公会堂ホールを借りて。キャパ350人の会場です。 【かなりレトロな武蔵野公会堂】 武蔵野公会堂は昭和39年1964年開館のかなり由緒あるホール。 昭和59年1984年に吉祥寺駅より三鷹駅の方が近い武蔵野市中町に「武蔵野市民文化会館」が出来る迄は、武蔵野市の文化・芸術の中心的な場所であったのですが、文化会館の大ホールのキャパ1354席とは比べようもなく、小ホールのキャパ474席よりも小さい為、84 年以降は間違って文化会館の方に行ってしまうお客さんも少なくない影の存在になっています。 しかし若林にとっては想い出が多いホールで、吉祥寺の隣駅西荻の生まれ育ちですから、新宿のデパートより今は無き吉祥寺名店会館、上野動物園ではなく井の頭動物園、 新宿御苑や上野公園ではなく井の頭公園、そして厚生年金会館ではなく杉並公会堂か武蔵野公会堂が嬉しい「お出かけ」の目的地でした。 駅から3分ですから文化会館よりは遥かに便利なのですが、公会堂の楽屋へ届ける花や果物を扱っていた果物屋さんはとっくにドトールコーヒーに転身。今では市の小規模な文化イベントか、アマチュア民謡教室や大学落研の発表会で知る人ぞ知るホールと成っています。 「アジアン特急2005」ははるばる屋さんの30周年記念と若林主宰の民族音楽センター25周年の 合同祭事でしたが、はるばる屋さんは15周年と20周年にインド舞踊イベントを、若林は1998年の夏にインド音楽オーケストラ(1980年初演) のリサイタルを武蔵野公会堂で行っています。 【懐かしい話しに歴史を感じる】 アジアン特急2005のファイナル・イベントは南インド古典舞踊「バラタナティアム」東インド古典舞踊「オリッシ」北インド古典舞踊「カタック」の三大舞踊共演という贅沢なプログラム。演者は、現代日本の各舞踊の代表者、久保幸代さん(Bharatnatiyam)、福島まゆみさん(odissi)、中島さちさん(kathak)。 若林はオープニングにシタール独奏を行い、全体プログラムの最後二曲、カタック舞踊との共演で出演しました。 中島さんとは踊るスペースは全く無い教室で直前に二回程、曲の進行の打ち合わせを行っただけで、当日のサウンドチェックが初めての踊りとのリハーサル。そして本番。当然のごとくハプニングもありましたが、盛りだくさんの演目は我ながらゾクゾクする良い所も多く、シタールの仲丸さん、タブラの岩田君、ハルモニヤムの山宮君、タンプーラとスワルマンダールの遠藤君らお弟子さんも中々堂々とした演奏で頑張ってくれました。平日の6:30始まりということもあって、教室の生徒さんの多くが諦めてしまったのは残念。インド音楽がヴィジュアル化されると言っても良い舞踊を是非見て欲しかったですし、最後の共演はもっと多くの生徒さんに見て欲しかった。 この所、仕事が立て込んでいて、打ち上げに参加できなかったのですが、ファイナルということもあって顔を出しました。会場は何時も義理堅くアジアン特急2005のイベントに顔を出してはお店に飛んで帰るネパール人ママさんのレストラン「ナマステ・カトマンズ」自分の店があった頃は一日三食カレーの20年間だった若林も店を畳んでからはほとんど食べず。今では月に一回荻窪のライブ会場インド料理店か福岡のスリランカ料理店さんで食べる程度。それが福岡のインド音楽ライブ会場マイティガルに続いて五日に二回もネパール・カレーとは珍しくも嬉しい限り。 終演後の演奏会場でも打ち上げ会場でも、舞踊家の皆さんやお弟子さんが若林達の演奏や共演を褒めて下さりました。打ち上げ会場でちょっと盛り上がった嬉しい話しが、元々関西出身の久保さんが十数年?以上前、インド舞踊を始める前若林が大阪のライブハウスに出演した時にお客さんで聴いてくれていた話し。以前にも「アジアン特急2005」のサイトに寄稿して頂きましたが、福島さんは10代の頃に吉祥寺に初めて来たのが若林のライブスポットだった話し。これに加えて若林の新著「スローミュージックで行こう」(2005年11月岩波書店)のp51に写真があるインド人舞踊音楽家師とのリハーサルで当時小学生だった中島さんとお会いしているという話し。お三方共に今では日本の第一人者なんですから若林はもっと貫禄が有っても良いという理屈になるのかな?
今年最後の〆が二日でみっつ繋がった翌日は、本番がぴったり重なる完全ダブル・ブッキングの日でした。 ひとつは渋谷国学院大学の考古学資料館が在る「常磐松記念館」でエーゲ海学会の年末の総会後に毎年行われる忘年会でのギリシア楽団の演奏。そしてもう一つは上野の老舗結婚式場「東天紅」さんで行われたライオンズクラブさんの忘年会でのベリーダンスとの共演。 【エーゲ海学会】 エーゲ海学会はギリシアを中心とした学問、文化、芸術の専門家の方々と熱心なファンの方々で構成される学会と友好協会を併せ持った様な気さくな会です。ギリシア哲学の大教授、古代ギリシア語、現代ギリシア語、ギリシア演劇、美術の大家が並ぶ蒼々たる組織でありながらも、みなさん気さくで暖かなのは、中心的に動いてらっしゃる先生方 のお人柄が会全体に染み渡っているからではないでしょうか。 若林忠宏のギリシア音楽楽団は1980年に日本で初めて東欧民族音楽を演奏する楽団として発足し乍ら、著書にもしばしば書きましたが苦難の道を歩んで来ました。 その理由は「西洋音楽ファンには東洋ぽい」「第三世界民族音楽ファンには西洋っぽい」と思われ人気が無かった事。そして当時東欧のほとんどの国が社会主義陣営に属していて情報が少なく、音楽文化も変形して届けられていた事があります。 ギリシアは世界大戦以前から東欧では稀な自由主義国でありますが、前述の東洋的な西洋という欠点(?)。古代に栄えた分中世以降パッとしない。世界大戦前後から今日ずっと政情が不安定。観光の他の資源に乏しい。というこれ以上無いほどの不利が重なる国です。 その意味では、若林のギリシア音楽楽団が中々お客さんに恵まれなかったのも当然で、それはそのままギリシアという国への日本人の理解、興味を反映しているとしたら、むしろ光栄な感じです。 そのギリシア楽団を励まして続けさせてくれたのは、ギリシア・東欧舞踊のサークルの皆さんと、1994年から12年続けて毎年年末に演奏に呼んでくれたエーゲ海学会さんなのです。この12年には、年末の演奏会の他にも学会員の画家の先生の個展、会で知り合った在日ギリシア人のパーティーでの演奏も含めて考えるとギリシア楽団は、エーゲ海学会によって育てられたと言えるほど、お世話になりました。
【上野東天紅とベリーダンス】 東天紅本店は上野の忍ばずの池の畔に有って、駅としては千代田線の湯島の方が近くです。上野駅からですと忍ばずの池を突っ切って行く感じで、池の反対側の上野駅方面には、「世界の師匠は十人十色」(ヤマハ・ミュージック・メディア)のP190に書きましたキャバレー・バンド時代の苦い想い出の中華料理屋さんがあります。それこそ30年近くぶりでそのエリアのお仕事でした。 お世話下さったのは、来年から更にお仕事のお世話になることが多くなる期待があるプロダクション。一面ではマニアックな音楽情報を提供する一方で、ソフトな営業を通じて民族音楽系の新しいニーズにも答えて行こうという会社です。 幸いに若林のマニアックな部分の頑固さプライドを十分に理解、評価して下さった上で、その為にも良い感じのお仕事を世話して下さろうと応援の意味で色々と売り込んで下さっています。 共演のベリーダンスはアジアン特急2005という企画で春に共演させて頂いたNamiieさん。 なかなかしっかりした基礎と、リズム感が嬉しい本物志向の舞踊家です。アラブ舞踊の枠を越えて様々なスタイルが連立する中で、ダマスカス系が好み、というなかなか嬉しい感性の落ち主でもあります。 プログラムは、忘年会のアトラクションでしたが、クライアント、プロダクション、共演者全てに渡って全力投球が求められるお仕事でした。 民族音楽センターアラブ音楽楽団は、レギュラー・メンバーの太鼓ダラブカの岩田君の他は、今回デヴューの新人メンバー。アフガン音楽では名古屋万博に一緒に出演してくれたキーボードの山宮君、びっくりする程繊細で美しい音色を聴かせてくれるヴァイオリンの岡本君。 【やっぱり師走!】 ところが、そんな嬉しくも大事な演奏のお仕事が、同じ12月17日の同じ時間帯に重なってしまいました。エーゲ海学会での年末の演奏は、毎年一年前の本番の日に翌年の予約を頂くところ昨年末は「会場が取れないかもしれない」と予約が無く12月になってからのお話だったので、ベリーダンスが先に決まっていたのです。 12年育てて下さった学会、同じ会場では最後になるかもしれない。先生方もギリギリになって、やっぱり若林楽団を呼ぼう!と決断してくれたのでしょう。その時点では時間が微妙にずれるのでどうにかお引き受けしたいと思い、エーゲ海学会の先生には「若林は終わりの方しか居れない。他は生徒メンバーのみになりますが」とお話をしてお引き受けしたのです。 ところがその後でバリーダンスの演奏時間が一時間後にずれた為、若林のエーゲ海学会総会での演奏が危ぶまれました。急遽上野のリハーサルの時間を一時間繰り上げて貰って、4:00から30分サウンドチェック、その後渋谷に飛び、5:00から6:00に演奏し、後はお客さんの歌やダンスの伴奏をメンバーに託して、上野にトンボ帰りして本番を演奏した後渋谷に戻ってギリシア音楽の〆に参加する渋谷〜上野二往復でどうにかやり遂げる事に。 昼の2:00にアラブ楽団キイボーディストでインド太鼓、アラブ太鼓のお弟子、音大の院生で民族音楽を研究課題にしている山宮君と楽器、機材をタクシーに積み込んで渋谷へ。師走の交通渋滞にもイライラせずに「なんとかなる!と思えばなるもんだ」位の気分で。5分遅れで到着した国学院大学の会場では学会講演会が行われていました。 それからはひたすら走りまくりました。アラブ楽器を積んで渋谷駅対角線の端から端へ。一か八か!と賭けて乗り換えた地下鉄駅でも同じ位走る事に。今正にドアが閉まる地下鉄でしたが、最後尾側だったので車掌さんに「すみませ〜ん!」と叫んで飛び乗って。「最後尾でラッキー!」かと思えば着いた駅では先頭側に最寄りの出口が。ホームで走り、駅からも走って走って。 「なんで何処もかしこも反対側、対角線なんだろうネ?」着いてみればスケジュールが押していて結局待たされる。「これって若林のジンクス?それとも山宮君のジンクス?」と問えば、「いや僕は日頃こんなに走りません」と。 山宮君を上野に残して渋谷にトンボ帰り。師走の青山は渋滞。タクシーを降りて走れば人の並。エーゲ海学会で得意レパートリーを5,6曲演奏して「また来ます!」と飛んで出ては又走る。 渋谷と上野は皇居の周りを大きく囲む山手線の2時と7 時のほぼ反対側。結局地下鉄銀座線の方がやや早く、乗り換えも少ないですが、ほぼ端から端。それらの判断や走った結果全てがどうにか上手く行ったんですが、戦前からある銀座線が停車駅でも携帯が繋がり難かったのはちょっと困りました。 日本初の地下鉄。無理無理蒸気機関車を走らせていた時期もあるとか。 さすがの20歳代の山宮君もシンドかった様です。すべて終わって元気に帰っていったんですが、翌日の教室は風邪がぶり返してダウン。お疲れさまでした。頑張ってくれました。
地下鉄に飛び乗って「山宮君の歳以上音楽やって来て未だに走ってるんだからネ」と言うと彼は「はい!頑張ります」と。「そうだね」若林より上手く自分を売り込んで出世してネと言うと。「いえ、先生の歳になってもこれだけ走れる様に頑張ります」って「オイオイ!」
12月18日吉祥寺〜福岡ネット 【吉祥寺民族音楽センター福岡県人会?】 今日は、2005年民族音楽教室の最終日、インド音楽太鼓タブラとラテン・パーカッション・クラスの面々と教室の下の白木屋で軽く打ち上げをしました。 福岡の大学の助教授の結婚式出席やなんやらで欠席が続いたK君も帰ってきて久々にいい感じのタブラを叩いていました。K君は掲示板に書いてくれた通りに博多のお菓子「とおりもん」のお土産をみんなに。気付けば隣にならんでいるのは福岡の国立芸術工科大学八期生で生粋の福岡人のO氏。有名パソコン・メーカー技術者のO氏は、かれこれ8年目のお弟子ですが、若林と同い年。金君は芸工大が九大と合併する直前の最後の芸工大生(33期生?)。練習が終わって降りて来たのが久留米人と北九州人。 今や吉祥寺民族音楽センター教室は九州人か縁のある人が第一位、第二位が関西人、三、四が無くて福島、そして全国色々です。福岡教室、小倉教室を加えれば全体の三分の一が福岡県人かもしれません。 音楽之友社から「レゲエ音楽入門」を出された、偶然若林の杉並区立中学校の先輩で今やタブラのお弟子さんの中南米諸国歴訪の経験談や、O氏の語る最近の日本の企業のアメリカナイズ傾向などの話しにみんな興味津々。高度成長期には欧米の会社が日本式を学んだというのに、泡と消えた今日、立場が逆転している話しはショックでした。 【サザエさんは福岡人!】 自宅に戻れば、福岡で紹介された若林の校正者さんからの嬉しいメール。 不定期な演奏の仕事の合間に締め切りに追われる連載の執筆が増えつつあるので、編集者さんに渡す前に校正をお願いしているのですが、 最近どうにも締め切りに遅れがちなので「遠慮なく催促してね!」と甘えたお願いをしたら 「ノリスケさんみたいで面白い」とご快諾頂きました。
現代っ子なのに「サザエさん」とは渋いな!と思いながら、改めて勉強してみれば、なんと 「サザエさん」も福岡生まれの設定でした。
1946年終戦の翌年夕刊専門新聞として創刊された福岡の地方紙フクニチ新聞の創刊時に連載がスタート。作者の長谷川町子さんは佐賀出身で「のらくろ」の田河水泡さんの弟子だったことや、兄弟弟子が『あんみつ姫』の倉金章介氏だとか。知らなかった事がいっぱい。 「ノリスケさん」はサザエさんのいとこで、隣に住む作家、伊佐坂先生に締め切りを嘆願する役柄で登場していました。
「ノリスケさん」の存在は、長谷川さん自身の編集者への謝意もあったのでしょうか。締め切りに追われる身になって、校正者さんの一言がきっかけでたどり着いてみれば「見流し、聞き流し」していた自分を振り返って思う事もいっぱい。 核家族の時代になって久しいのに、昭和20年代からずっと良き時代の日本の家族の姿や、日々のささやかな思いを描き続けている。福岡独特の食材「おきゅうと」を「深いヨ!」って言ったお友達に話せば「サザエさんも深いヨ!」ときっと言う様な気がします。
この秋から若林の連載と単発の原稿は、暖かな洒落のセンスの持ち主?福岡の「ノリスケさん」を通して色々な出版社の編集者さんに渡されています。
12月27日の朝、東京で知り合ったけれど、心優しい福岡の男らしさを持ち続けている若いお友達からメールを頂きました。 若林が福岡の話しをしましたら、ちょっとホームシックになって。今度のお正月は「帰れたら良いんですが...........」と言っていたのが、おじいさんが亡くなって思いがけず帰郷した様です。 そのお便りの中の一文は、若林が心の中にずっと持ち続けていたもの。そして今、新たに大きく展開する人生の中で色々想うことに共振し大きく突き動かされました。 【思い出し、話しをする事】 若林は、叔父が亡くなった時に「その人の話しをするのが一番の供養」と言われたのがとっても嬉しかった想い出があります。失った悲しみを、行く人の魂を思い遣る事で乗り越えて行く。素敵な風習と思いました。 メールをくれた彼のおじいさんへの「供養」の気持ちがとっても嬉しく若林にもおじいさんの事を伝えてくれる気持ちが嬉しく、その一文をご紹介したいと思います。
「先週、入院していた祖父が亡くなり、急遽福岡に帰りました。85歳老衰でした。無口で頑固な博多男、でも孫にはとてもやさしいおじいちゃんでした。
小学生高学年の時のことを思い出しました。急に雨がふりだした午後、祖父は教室まで傘を持ってきてくれました。 軽トラックに作業着姿、クラスメイトに見られているという恥ずかしさもあり、僕は「友達と濡れて帰るから、いらん」と断ってしまいました。 傘を持ち黙って帰る祖父の姿に、当時の僕は「ありがとう」が言えませんでした。でも本当はそんなおじいちゃんが大好きでした。
お通夜から葬式、バタバタとした形で福岡滞在3日間は終わってしまいました。今度帰るとしたら、来年の初盆。天国の祖父とゆっくり酒でも飲みたいと思います。」
余計な事は言わないけれど、確かに伝わる懐の大きさ、優しさがいっぱい伝わって、素敵なおじいさん。福岡の男だなあ、と思いました。 身内に対しては、子供のみならず大人も案外不器用だったりしますネ。 甘えもあったり、外に対しての気遣いでくたびれていたり、同じ気遣いを身内に対してしたくなかったりで、ついつい横柄だったり、互いに傷つけてしまったり。 身内だから分かってくれるだろう、と思いつつ。でも、その割には、言ってしまった事や言われた事を何時迄も気になっていたり。 若林も父親とはお互いに愛情の交わし方が分からずに、貴重な時間を避ける様に費やしてしまった経験があるので、色々な事を考えさせられました。 すると偶然にも福岡のお弟子さんが「若林先生とのお話で父親との不仲を改善するヒントが得られました」という嬉しい話しをしてくれました。 でも、血縁の有無に関わらず、身内だからこそ、耳に優しい言葉じゃなくても心は通じていると思います。 仮に悲しい想い出であっても、それも愛情の為せるものとして、心に残っているのではないでしょうか? それを理解出来ない事や、理解したくない思いもあるでしょうが。 メールをくれた彼は、ずっと心の中に「ありがとう。ごめんね」の気持ちを持っていたのですね。確かに若林がお会いし、好青年!と気に入った彼はそんな気持ちの優しい男です。 きっとおじいちゃんは、そんな彼の気持ちをとても良く分かっていたんだろうと思います。 若いのにしっかりとした素敵な手紙を書く彼が、その心暖まるメールを書いてくれた前日は、若林の父の誕生日でした。
ところが変化は2004年位から現れました。 虎は次第にファミリーにとけ込み、逆にお兄ちゃんを庇い続けていたミーシャがひとりファミリーから浮いて、その内唯一の応援者オプーお父さんにも「シャー!」を言う様になってしまいました。丁度その頃、子供達は次第にオプーお父さんから独立し、オプーはその寂しさも有ってか、あんなにかわいがっていた実の子、虎とミーシャを執拗に責める様になりました。 上の写真のミーシャはカラーを着けてワイン箱の中でお休み中。 ティナ君のとの大喧嘩で尻尾の付け根のかみ傷が膿んで、全治2週間のカラー、投薬、通院の日々でした。 そんなミーシャと虎に新たな応援者が現れました。 なんと虎、ミーシャとは血縁の無い、吉祥寺東町猫屋敷のママさんクーちゃんです。 虎とミーシャはチイママのアイーシャとオプーの子なんですが、アイーシャは人間も媚びず、他の猫とも一緒に痛がらないマイペースで孤高のいかにも猫らしい猫。生後半年もするとさっさと子離れしていました。 クーチャンも一人っ子の頃は人間に媚びない猫っぽい子でした。6匹の子供を生んで、子離れした後でもその独立心は残っていましたが、人間の話しが良く分かる子なので「ミーシャ達に優しくしてあげてネ」と頼んだら、一緒にワイン箱で寝てくれる程世話をみてあげてくれています。