考えた事  2007年 12月
日々の暮らしで想った事 / 世の中社会に想う事 / 心や人間について / 生きること

 日々の暮らしで想った事

 
 
 
 
 
 

 世の中社会に想う事                                

 
 
 
 
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 日々の暮らしで想った事

 12月1日(土) 「辞める」こと
 

  御陰さまで、Blog仲間さんが620人を越えた。気付けばご訪問も先日5万アクセスを越えたと思ったらもう5万と5400になろうとしている。
 一見さんのご訪問も増えたけど、関心を持ってくれるBlog仲間さんが如何に多いか。
 音楽のみならず、社会、生き方、自然、生き物への「考え方」を学び、思う人が増えている。

 620人と言っても、いつの間にかBlog仲間さんを解かれていたり、Blogコミュニティー自体を退会されていたりで、延べでは700人位になっているのだろう。

 奇妙なのは「Blog仲間申請」の時点では、あれほど「丁寧」な「手続き」があるのに、
 解いたり、退会する時には「それが無い」

 「突然、面識ないのにBlog仲間申請は失礼にあたりますので」と書く位なら、
 逆の時の「失礼」をも語るべき。理屈で言えば「申請して許可されなければ辞められない」でもおかしくない。「初めた時」より、多くの「関わり」があり、それなりに「世話」になっているのだから。 「むしろ」と言ってもおかしくない。

                  ☆ ☆ ☆

 思えば、私が物心ついた頃から、少なくとも私の生まれた、国の、東京という町の「風習」には、「始める事」を重んじ「辞める事」を軽んじる傾向にあった。

 これを「騙し」と言う人、意見にはまだ出会っていない。

 ある面それは「江戸文化」とも言えなくない。
 徳川が来る迄、浜辺の村だった「江戸」では「新興」がもてはやされ「伝統」や「繋がり」「しきたり」よりも「その場その場の技」で「勝負」した。「宵越しの金は持たねえ」の精神である。
 ヨーロッパの伝統に対して「新興国家」であったアメリカにも似ている。
 
 逆に言えば、日本の中でも「京都」「大阪」などは「新しい事」を始めるのが大変な地域かも知れない。
 しかしながら、江戸〜東京もアメリカも、かなりの歴史を重ねて来た。ヨーロッパ、京都、大阪が守っている歴史の長さに追いついているかもしれない。

 「土壌が無い時代」には「根を生やそうにも難しい」それが、そのまま「浮き草」の様に「楽」に生きる事に都合よく利用されている。
 「手を替え」「品を替え」「場所を替え」「簡単に辞める」

 

 「始める事より、止める事の方が大変」。心身ともに疲労し、それは前に進む時よりも辛い。
 「始める時より続ける事」「続ける事より辞めない事」「前進する事より後戻りしない事」「維持する事より辞める事」の方が何倍も「大変」であり「慎重であるべき」であり「重要」。

「結果論」ではない。 「終わりよければ全て良し」この言葉も「騙し」の良い例。

 自営業や飲食店を「始め」て、そして「止めた」経験がある方は同感されるだろう。
 
 それほど大変だから、余裕もありゃしない。 も事実。
 「お世話になった方々に重々に御礼とお詫びをしなくては」と思いつつ。ぐずぐずしていたら「家財道具から貴重な資料迄、道に放り出される」というせっぱ詰まった状況に、非礼、無礼、失礼を重ねてしまう。

                  ☆ ☆ ☆

 以前にも日記に書いて、反応は良くなかった話。 
 「結婚式をあれだけ派手にやるならば、離婚式も派手にやるべき」

 「仲人さん」も最近では随分少なく成った様だが、結婚前は、友人、先輩、上司、両家の両親、兄弟、仲人さん、様々な人に相談し、世話になって「式」を挙げたのに。

 ところが、そんな風習(?) とは逆に、
 「誕生式」というものが無いのに。「お葬式」は結構派手で、何日も掛かる。
 東アフリカでは「誕生式」に「七日(男子)」掛かるという。

 「仏教」の影響が強いのだろう。 と思えば、インドでは「入滅何周年」は祝わず「生誕100年」「生誕1000年」を祝う。 先日29日のビートルズのジョージ・ハリスンの命日のイベントでも少し思った。 「お釈迦様」「ビートルズ」そして「我々庶民」は、「始まり」「ピーク」「終わり」の何処で「セレモニー」「イベント」「祝い」をするのが良いか。
 こうなってくると、最早「それぞれ」
世界の色々な「風習」が入り交じって、「一つの価値観」「一つの観念」「思想」では判断出来ない、比べられない。

 しかしながら「誕生日」「成人式(割礼)」が「結婚式」「お葬式」に負けず劣らず、もしくはより重要視、派手に行われるアフリカなどと比べると、日本は多分に「仏教的」と言う事は出来るだろう。
 ちなみに、アフリカのアニミズムは、日本の神道に通じるところが多い。

 オリエント三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)と「仏教」そしてアニミズムの違い。
「魂」もしくは「精霊」としてこの世に存在したり、輪廻で蘇ってくるという「観念」と、「それっきり」の観念の大きな違いは、きっとある。

 

                  ☆ ☆ ☆

 
 数百種の甲虫類、直翅目の飼育をして学んだ一番大きなもの。
 「生きる死ぬ」は、個体の問題を遥かに越えた「壮大」「荘厳」なものである。

 「輪廻」とはまた別な感覚。
 一頭の雌が昇天した後に、数十、百数十の卵が残される。 自然界よりも生存率は高いとは言えども何割かしか孵化しない。その何割かが羽化し、その何割かが卵を産む。
 それでも初めの一頭よりは多い。始めの一頭は昇天したと言うより、増えた気さえする。
 「生まれ変わった」というより「増殖」

 昆虫の一生が短く、名前をつける程の固有な個性、一生が感じられ無いからかもしれないが。

 
 人間の細胞もまた、同じ様に、日々入れ替わっている。
 何億かの細胞が、何十日で完全に入れ替わると言うが、もし、それらが「同時」だったら?
 私たちは、一生の間に、数百回「一瞬死んで蘇生した」を繰り返している事になる。

 「心臓」と「脳」が生きて居る以上「あり得ない話」とおっしゃるかもしれないが、
 会社や電車や電気水道の様なもので「システム」が「継続」しているだけで、心臓の細胞さえ入れ替わっている。「だから生きて居る」 
 つまりは、私たち個々の人生がどうあろうと、電車は今日も動き、電気ガス水道が供給され、日本という国が「続いている」様に。 
 
 地球という「生き物」も、人間や虎やハムスターなどと言う「細胞」が入れ替わりながら「生き続けている」
 
 そして時とともに「老化」し、いずれは「全体」が「滅びる」
 それを加速させる「馬鹿たれ細胞」のお陰で、意外に近い将来だろうけど。

 「馬鹿たれ」を弁護するならば、 コピーを繰り返せば「画質」は落ちる。
 「質の低下」を「馬鹿たれ」というのではなく。
 「温故知新」の「勤勉さ」を失い「楽」を求めたから。
 その割には「あらゆる物事のスピードが早い」ので、頭の回転が追いつかない。
 「新しい物」ばかり作って、「新しい思想を創る」事を怠った。
 

                  ☆ ☆ ☆

 「物事の考え方」「思想」「宗教」は様々であり、その何をどう信じるかは自由だけれど、
「細胞の入れ替わり」にも似た「輪廻」。 地球の「細胞」である個々の人間。「宇宙の細胞である地球」の感覚は、ヒンドゥー教とその土壌から生まれた仏教の感覚である。

 それらの感覚に沿えば、極端な話「終わりは始まり」でもある。 ならば「始めも終わりもそんんな大げさに考えなくて良かろう」と言う事になってしまうが、 個々の人間は口で言う程「悟って」ない。言わば「自我を持った細胞」であるから、「入れ替わりたくない」「居続けたい」と思っている。

 ここに数々の「騙し」につけ込まれる「弱さ」「落ち度」がある。

 「どうせ人間何時かは死ぬのだから」「一回きりの自分だけの人生なのだから」
 「楽しく、より楽に生きなきゃ損」

 と、貴方の中の細胞の幾つかが「想い」「言い出し」たら、どうする? どうなる?

 それは果たしてどんな細胞? 貴方の健康、明晰さを維持する事に「役立つ細胞」か? それとも「妨げになる細胞」か? 貴方の成長、社会貢献、地球に対しての貢献、宇宙に対して..............。  役に立つどころか。

 人間はなまじ「意志」「思考」を持った「細胞」だから質が悪い。
 いや! もしかしたら私たちの「細胞」にも「意志」「思考」が有るのかも知れない。
 それを私たちの脳が認識しないだけ。

 私たちの「意識」は「個々の細胞の意志」を分からないのと同様に、「個々の細胞」は私たちの思考と行動、未来が分からない。 
 私たちが、社会の動向を「憂いて」みてもどうにも出来ないのと同じに。 地球の将来を予測出来ず、悪く成ることを食い止められないのと同じに。個々は「社会の意識」さえ分からないから、「地球の意志」など分かる筈が無い。

 突然、地球が「意志」を露にして、人間からしてみれば「破滅」の方向に進んだら、どうだろうか? 「地球温暖化」もそもそもは人間という細胞の身勝手が原因であるけれど。 人間が「発熱」して体温を上げて「細菌」を殺すのと同じ事を地球がし出したら。
 そもそも地球は人間や動物達の仲間と言うよりは、太陽、金星、火星の仲間なのだから。「人間」に好都合な方向に進むばかりのはずもない。
 
 「今、意志を持っている者が決定権を持つ」とは限らない。
「地球」の事も。「世界」の事も。「日本」の事も。「貴方自身」の事も。

 
                   ☆ ☆ ☆

 「始める自由」と「辞める自由」が同じだと思う不思議な感覚。
「始める時」は、勝手に始められない。人の世話になる為に、挨拶に行ったり頭を下げたり、手続きをしたり、大変だ。 でも「気持ちが前向き」だから頑張れる。
 それに対して「辞める時」「止める時」は、いつの間にか「勝手」に済んでしまっていたり。世話になった人には手紙かメール「事後報告」だったり。それさえも無かったり。

 プロのバンドに加入した時「辞めよう」と思って一年前に「予告」し、一年頑張った。「誰よりも」とさえ思っている。 「三ヶ月前」にも更に「予告」を念を押して。それでもプロデューサーには「ドタキャン」と言われた。「この業界で喰えなくしてやる」と迄言われたが。
 その数ヶ月後、本人が「逃避行」で解散したらしい。

 どちらかと言えば「始める事」の方が回りにとって「楽」なもの。
「結婚するんです!」
 ひどい言い方をすれば「勝手にすれば」「別に何も困らないし」「そりゃ良かったじゃん!」てなもんであろう。
 それに比べたら「辞める事」の方が、回りや相手に大きな影響を与える。

 私にとって、希望もない一年の頑張りも、相手にとっては「あっ」と言う間の一年だったのだろう。

 「始めた以上簡単に止められない」と赤字でも20年続けた店。それでも「はるばる来たのに無くなって居た」と言う声を聞いた。
 「ラストライブ」とか結構「派手に宣伝」し「派手に祝った」。それを知らない位ご無沙汰なお客さんではあるが、それでも申し訳なさを感じる。

 
 
                    ☆ ☆ ☆

 「輪廻」と「業」の観念の世界と、「天国か地獄か」の観念の世界と、人間は果たしてどちらが、「一所懸命」「一生懸命」生きるのだろうか?
 意外に後者? 「地獄に行きたくないから」?

 「無常」を知れば、物欲、名誉欲、権力欲の虚しさを知り、「魂」にテーマを置けば、自ずと「良性細胞」として生きれる筈なのだが。 
 

 「終わりを考えて、始める」人は意外に少ない。
 「死ぬ事を前提に生まれる訳ではない」ましてや「生む」訳ではない。

 ところが「就職」は、後々の「定年退職」は見すえた「始まり」である。
 だから「より良い終わり」を望んで、選んで。「貯蓄」「家のローン」「退職金」「年金」
 と「安心」「安全」「安定」の「計画」を起てて、あたかも「ヴィジョン」が有るかのごとく。

 それもあっけなく「崩壊」しようとしている。

 「安心のシステムが崩壊して」初めて分かる。 
 所詮は「安心」「気休め」であって、「終わり」を考えていた訳ではない。

 「離婚を前提に結婚しない」「閉店を前提に開店しない」

 「捨てる事を前提に物を買わない」
 売る側は「捨てる事を期待して売る」のだが............。
 
 実は「レンタル産業」の台頭は、この心理の「裏返し」

 ミレニアムの頃。そして最近も目立って来ている「終末感」
 そこにつけ込んだ商売、宗教も数多い。

 「考えない」クセに「気になっている」と言うか、「解放」されていない。
 だから、「人に頼り」「人に倣い」「人に任せ」
 極力「考えない様に」している。

 「自信がないから始めない」「責任持てないから始めない」
 そう言う人に限って
 「責任」が何であるか人に説明出来る程、分かっていない。
 「自信」そのものが何であるか、分かっていない。

 「分かってない」割には、
 「身勝手に勝手に好きに辞められる」なら「始めても良いよ」と言う。
 「お試し」が好まれる。
 「Blog仲間解除」や「退会」に「手続き」「承認」が必要だったら。
 何十万人には増えなかっただろう。
 

 「自信が無いから」「責任持てないから」
 ではなく「カッコ良く終われない」「楽に続けられない」
 その心理を「上手く代弁してくれた」そんな言葉に飛びつく。

 
 昔の人は「やり甲斐の無い事」「つまらぬ事」は始めなかった。
 「中途半端」で終わらない為に「始まり」に「お金と気持ち」を掛けて込めた。
 本来「入学式」「入社式」「結婚式」も同じだった筈。 

                   ☆ ☆ ☆

 音楽の演奏
 初心者は「始める時」に「緊張する」
 「コケやしないか?」「止まりやしないか?」

 中級者は「終わり間近」で「緊張する」
 「上手に終われるか?」「はみ出しやしないか?」
 
 上級者は「緊張しない」
 「何時でも終われる」から。
 むしろ「カッコ良いエンディング」が「見せ所」

 それをも卓越すると。
 「一曲終わっても」「終わった気がしていない」
 
 

 これを仮に「ものごとの真理の現れ」としよう

 地球の細胞たる「人間」の
 初心者は「死を恐れる」

 中級者は「見事な人生」「充実の人生」「幸福」を求める。

 上級者は「やりたい事はやった、何時死んでも良い」と言う。

 卓越者は「魂は生き続ける」と思う。

 
 
 裏返しもある

 初心者向きに「何となく始まる音楽」 「刹那の快楽」

 中級者向きに「終わりは問わない」「コソコソ」「何となく」

 これは「落とし穴」でもあり「甘い蜜」でもある。

 中級以上に成長する事はない。

 
 ところが、
 初心者のクセに上級者然とした輩

 中級者なのに卓越者然とした輩 が急増している。

 この事の方が、よっぽど「終末的」である。


 12月1日(土) 「言わずに分かる」人
   「見て分からない人には言っても無駄」
 「言わなきゃ分からない人には言っても無駄」
 「困る(恥をかく、叱られる)事で学ばない」
 「困らない(恥をかかない、叱られない)為に教わろうとする」

 もはや「口癖」になってしまった感があるが、
 最近では「分かったフリ」「学んだ気になっている」人の多い事にちょっと愕然。

 そんな中

 「言わずに分かる人」が増えて来ている。
 
 自分の回りだけでもなさそうである。

 
 故郷を離れて大都会に行き、再び故郷に帰った人に
 「言わずに分かる人」が多い様に思う。

 同様に「都会から長閑な地方に行き、再び都会に戻った人」にも。
 長閑な地方で「惚けない様に頑張っている人」にも
 大都会で「流されない様に頑張っている人」にも。

 そんな人達が頑張っている間に
 「学ぶ人」が増えてくれると嬉しいのだが。

 「一を聞いて十を知る」はちょっと多過ぎだから、
 せめて「一を聞いて三を知る」位には。

 12月5日(水) 「感謝」 
    10年程前に、某Y.M.O.のMさんが我が家に来た時に
 「お金はあるけどネタが無い」とおっしゃっていた。
 そう言える素直さが凄いなぁと感心しました。

 人間「裸一貫」から頑張って小銭を貯めても、守銭奴とかいらっしゃいますが、
 それ以上になると素直になるのかもしれません。

 ネタは幾らでもあるヨとお答えしましたが
 お金は無いから頂戴!とは素直に言えませんでした。

 
 今年は色々鍛えられました。

 楽器荷物が溢れて寝室のエアコンがリモコンを感知せず。
 クーラー無しの「熱帯夜」
 
 相変わらずな上に、猫さんのおしっこ布団を丸洗いして干したくても
 ベランダにたどり着けません。
 だいぶ寒く成って来ましたが、毛布三枚。
 
 でも、子どもの頃からの定位置を守ってくれている、家族達四五匹のお陰で
 ぬくぬくです。

 先日の室外電線摩耗による停電では「電気の無い生活」を強いられ、
 元々クツワムシの餌のお陰でTVアンテナ倒れて見れないし。

 携帯も丸1日壊れたり。 

 無きゃ無いでどうにかなるもんです。
 
 すると在る事への感謝も、大切さも。同時に矛盾も疑問も嘘も分かる訳で。

 当たり前に成っていると分からんもんです。

 仏の顔も三度迄 

 そこな若者!

 「何時までも在ると思うな親の金」


 
 12月7日(金) 言いたかった事
 

  不思議なご縁でBlog仲間さんになった方(Yさん)の日記を拝見しました。
 人の「一言」がどうしても心に引っかかり、悔しさや、悲しさ、切なさが入り交じった気持ちが、混沌としている様子でした。

 在る所(Aとします)で、この1年、着かず離れずのお知り合いで、でもなんとなく通じる何かを感じて居た人(Mさん)と急に仲が近しくなって「ユニット結成」まで話が進んだ丁度その日。 そこから800km離れた所(Bとします)の方が、ふらっと尋ねて来られマイミクになってくれました。
 と言うのも、A出身で東京で在って仲良しになった人のお友達さんがB出身の人で、「A→東京→B」という不思議な相関図に想いを巡らしていたそのタイミングに「AからBに転居した」という方の訪問です。
 なにやら暗示を感じたのでした。しかもMさんのお友達だと言うし。

 

 Yさんの日記は、とても個人的なものでした。
 人は時として、個人的な想いを「放電」せざるを得ない時があるものです。そして私たちは、ブログやメールなど様々な機会が与えられている。

 でも、私たちの親や伯父、叔母の世代は、その機会も観念も無かった。

 先日の私の日記「オシム監督のアイスクリームの感想」でも書きましたが、元来「口べた」「口数の少ない人」も居れば「照れ屋さん」も居れば「てやんでい」式な「強がり」も在れば、私の様に「言わなきゃ分からん奴には言っても無駄」と説明不足、言葉不足を居直る輩も居る。

 その症状は「身内」によりきつく出る傾向があります。
 それは「身内」に対する「甘え」だけでもない。

 日頃から「放電」が下手な所に、頭の中はおびただしい想いで満たされている。 それがほんのわずか「スパーク」したとします。
 殆ど「漏電」何故、そこでその言葉、その想いが? 
 きっと本人も良く分からない。

 にも関わらず、回りの人にとってみれば「日頃余計な事を言わない人が言うのだから」と「一番言いたかった事」だと思ってしまいます。
 それによるショックは大きい。

 逆もあります。
 日頃から「思いついた事を何でもその場その場で言ってしまうクセ」のある人。
 肝心な時に「肝心な言葉」が「何故か出て来なかった」りするのです。
 時には自分で「どれが一番言いたかった事だっけ?」と分からなくなる時も。

 前にも日記に書きました、とても感動した話。
 めちゃくちゃ酷い位にお嫁さんに厳しいお姑さん。亡くなった後に出て来た日記に「今日は嫁はこんな事が出来る様に成った」とあり、読んだお嫁さんが涙した話です。

 こんなご時世でも、不思議と「運動部」などは未だにそんな傾向に在る様です。
 「先輩に厳しくされた腹いせを後輩に」の部分も否めない。
 それを「伝統」とする不思議な風習もある。 「その人の為」の部分もあるでしょうし、「スパルタ」でなくては「成長しない」ものもある。
 しかし近年、その様な「風習」「観念」「手法」は急速に改められつつあります。一見「自由主義」「自発性尊重」の様で、良い事の様に見えますが、果たしてそれは人間に良い事ばかりでもない。
 「子どもを甘やかすことしか出来ない親」への懸念、批判が高まっておりますが、その「延長」の様でもある。

 全ては、何処かで「陰陽」のバランスがおかしく成ってしまった事が元凶に思います。

 前に「グミなんぞ喰ってたら馬鹿になる」とも書きました。
 柔らかな物ばかり食べていると脳みそに近い所での歯や顎の刺激が「ぬるく」「ゆるく」なって。きっと生理学的にも医学的にも「良い事は無い」
 
 同様に「耳に優しい」「嬉しい言葉」ばかりや、「眼に優しい」「美しい」ものばかり、「綺麗な音」「綺麗な音楽」「分かり易い文章」「分かり易い理屈」
 
 どんどん人間を「偏った」そしてきっと「お馬鹿」なものにしている。
 
 赤ん坊を定義すると
 「純粋無垢」「柔肌、デリケート、免疫力が弱い」「母乳の免疫力、親の保護に依存」だとしましょう。

 現代の若者、そしてきっと私たち大人の年齢の人間の多くが、

 かなりに「過保護」「甘やかされ」て来た。 戦争もなければ徴兵もない。
 世界で稀に見る安全な「法治国家」否「警察国家」???

 「純粋無垢」ならぬ「思ったまんまの好き勝手言いたい放題、したい放題」
 そのクセ「傷つき易く、メゲ易く」「キレ易く」「諦めが早い」
 「学ばない」から「懲りない」「繰り返し」「経験」が意味をなさず、「免疫」になっていない。 過敏な「防御本能」「過剰防衛」
 内心は「不安」「弱い犬程良く吠える」的。 その一方で「依存心」「群れる」「流される」「合わせる」「逆らわない」が強い。

 これを「大人」と言えますか?

 

 猫さんは「毛玉」を排出する為に「消化出来ない草」を欲します。殆ど本能的、生理的に強く欲します。 緊急時には、固めの尖った「ススキ系」の草を求めます。胃壁をチクチク刺激して早く「毛玉」を嘔吐出来るからです。
 
 「毛玉」は猫さんに取って、「愛情」と「コミュニケイション」の「象徴的な結果」であり「副産物」です。それは「労り」「安心」「平和」「長閑」の「象徴」でもあります。しかし「毛玉」は「消化不要」「体調不良」の原因にもなります。

 これを人間に当てはめれば、
 「愛情」と「コミュニケイション」の「副産物」である「毛玉」の様なものは、「グミ系」の物では、「排出」「放電」を上手く促す事は出来ないのです。

 
 「消化出来ない草」が「消化不良」の薬になるように、「運動部のしごき」も様々なものに対する「薬」でもあった筈。 「陰陽」を「50:50」のバランスで考えれば、「楽「楽しい」「心地良い」ものばかりでは「おかしくなる」に違い在りません。

 「土水火気」が「万物の四元素」であった様に「喜怒哀楽」は「心の四元素」なのかもしれません。
 
 しかし人間は何時の世も「喜楽」「気楽」を優先する。するとむしろ「怒哀」の価値は相対的に高まります。 
 「渡しにくい」「受け取りにくい」しかし「大切な」「肝心な」ものである。 ならば、それは「奥義」の様なもの。 受け取る資格は「身内」しか居ない。 
 
 「愛情」が在ってこその「奥義」の様な「厳しさ」
 それが分からないのも人の常。 だから「分からなくても与え、受け取る」
それが「昔の文化」「風習」 

 今日 「グミ系」の物を好み 固くて苦くて重たいものを拒み
 吐き出すのは簡単に出来る。
 親も「グミ系」を与える事が「優しさ」だと思っている。
 巷も「気遣い」「優しさ」「温かさ」ばかりを良しとしている。

 果たして、その弊害は?
 
 「耐える」と「我慢」の違いが分からない。
 「耐える」と「堪える」の違いが分からない。
 
 同時に「熟成」も「消化」も実は貧弱。

 

 それにしても、最近 意外な所から、  そして多くのところから
 様々なテーマを繋ぐ「言葉」「意見」「想い」と出逢い、それらが目の前で繋がって行きます。
 
 元から「繋がり」「約束されたかの様な偶然」に対しては「敏感」かつ「感動屋」でしたが、最近、半端じゃ無い様に感じます。
 やはり大きな流れが来ているのでしょう。

 この様な時代、時期には、
 「ブレず、群れず、惑わされず」
 私たち、貴方方は、それぞれ個々の「人間」として、極限まで、余計な「物」「しがらみ」「当たり前に想っている事」「考え」を捨ててみる「シュミレイション」をしてみて。何が「大切」か? 何が「自分」か?
をしっかり見極める事を、日々訓練しておく事と思います。
 
 私も、より一層、頑張らねばと思います。

 ある方が評して下さった言葉
「流れに逆らわず流されず生きて来られた」
 そのお言葉を裏切らない様、しっかり頑張りたいと思います。


 

 12月10日(月) 鬼に金棒
   「鬼に金棒」という言葉は、言い得て妙ですが、ちょっと物騒ですね。
「水を得た魚」というのも「じゃあそれまではひからびていた?」という感じもして、ならば「鬼金」の方ニュアンスが近いかな?とか。
 同類語に「仏に蓮華」「虎に翼」が在る様ですが、前者は世界が違うし、後者はむしろ「蛇足」っぽい。 「駿馬に翼」の方がまし?  でも「鬼」より優しい程度で良いのです。 「駿馬」じゃちょっと、おこがましい。 「タブラにパウダー」「ヴァイオリンに松脂」???

 「無いと駄目」ではないけれど、「在るとより凄い」様な言葉はないものか?
「鬼金」より、優しい感じで。

 「弘法に筆ペン」「エジソンにパソコン」????

 語呂が良いだけだなぁ 良くもないか........。 「泣きっ面に蜂」の逆さまな言葉。 と言っても「笑顔に飴」じゃないし。
 「なべつかみ」「ちゃっかまん」「鉛筆の背の消しゴム」みたいな「有ると便利」という感じとも違う。 そういえば、ギターの弦交換に用いるクランク型の「糸巻廻し」の商品名に「アルトベンリー」というのが在りましたが、まだ在るのかしら?

 「饒舌に酒」????
 
 在りそうで、無いなぁ。「鬼金」に替わる良い言葉。



【「鬼に金棒」本文 2007年12月10日10:50】

 この1年は心からの応援者さんに恵まれました。やって来た事、やっている事への応援も嬉しいですが「やらんとしている事」その「心」を励ましてくれる方が増えた事は本当に支えられます。ありがとうございます。
 それこそ週に二三人、新たな応援者さんに出会う位のテンポなので、御礼もご紹介も追いつきません。というより、その分頑張って原稿を書き、楽器を直し、楽譜を書き、むち打って元気に出掛けて行くのですが、今日はまた願っても中々得られない応援者さんに出逢いました。

 と、いうか半年程前から楽器をお教えていて。同じ歳という事もあって、意気投合していたのですが。 レッスンの「うんちく」と言うか「考え方」「感じ方」と「表現」「音への集中」などへの話で、受け取り方が面白いな。と感心しておりました。世代のなせるものか?とも思いましたが、同じ歳の生徒さんは今迄にも少なくはなく「世代的共通性」とはまた違ったものを感じていました。その「理由」が昨日、判明したのです。
 
 昨日初めてお仕事を伺ったら、有名な大学病院の精神科のドクターでした。
音楽のレッスンの筈が、話はどんどん盛り上がってしまいました。
 ビールも大好き、70年代ロック大好き、話は尽きない感じです。

 若林が音楽を通じて学んで来た事、気付いたり、分かったりした事。
 沢山のお客さんや生徒さんにどう伝えようか、どう伝わったか? それらの経験の中で想った事は「学問」の「普遍性」と「論理性」そして「公共性」に照らしてみた時に、より多くの人に深く伝わる可能性があります。
 一方で、ドクターの方も、理論、学問、現場経験、の膨大な在庫を持ちながら「一初心者」として楽器を学んでいる。「自分と楽器」「自分と師匠」「音楽と人間」「音と心」の関係を、きっとドクターなりの興味深い視座で受け止めいるのだろう。そう思うとお互いになんてラッキーな出逢いだったことでしょう! 
 
 しかも、と言いますか、やっぱり、若林と心が通じる人は、業界の「異端児」さんが多いというジンクスにも外れていない。
 
 ドクターの他にも、様々な業界に於いて主力的な立場に居る人との交流が進んでいます。私の年齢がその域に達したという事もありましょうが。

 「流れに逆らわず流されず」

 ある方が私の日記を評してくれた、この一年で一番嬉しい言葉ですが、
 たいして売れては居ませんが、なんやかんや言っても「音楽界」では「知る人ぞ知る」立場には居続けておりますし。御陰さまで、福岡のメンバーの頑張りが東京にも伝わり、また全国各地に励みと成っています。福岡ではかなりポップな音楽をしておりますから、「ご隠居」「仙人」ではない。 ヘタすると若者より元気で楽しそうと言われます。

 「好きな事」「興味のある事」を「邁進出来る幸運な人」
 という見方もされますが、
 
 「属しながらも群れないブレない、戸惑わない」
 「視点に惑わされず、視座を貫く」

 故に「異端児」  は、けっこう大変です。 

 属さないならば「仙人」「アウトロー」「アングラ」

 この方が「孤独」の様で居て、意外に簡単です。

 「サブカルチャー」が消滅して数十年。 
 先日もお友達と「アングラ論」をほんの少し交わしましたが、
 「見かけ似非アングラ」で「中身、日常は常人」が結構増えて来ている。
 ではなく、
 
 「群れに紛れて惑わない」

 半年程前に書きました「岬の人の現代の生き方」です。

 フラメンコの師匠。 シタールの師匠。 キューバの師匠。
 そしてドクター。

 同じ「生き様」を感じます。

 そして、そんな若者も増えて来ている? もしくは私の回りに集まって来ている。

 大都会に居ながら。 地方の故郷に帰っても。 長閑な地方に移っても。

 「仙人」「孤高の人」になってしまったら。

 一番弱い人を真っ先に助けに行けません。



   
 12月12日(水) 「なめられた」?
  「尊敬しています」などと軽々しく言わないでくれ。
 言うなら生涯言い続けてくれ。

 「一目置いている」など軽々しく言わないでくれ。
 言うならその「一目」たるや何たるか示してみてくれ。

 「凄い事やって来られたんですね!」などと言わないで良いから
 単に年上目上に対する程度で良いから「礼儀」を尽くしてくれ。

 君の中でタメ口聞かれる根拠や如何に?
 君に批判される根拠や如何に?

 何故私が挨拶せにゃならんのか。 

 単純に

 「なめられた」??
 と言うか「なめられていた」??

   
 12月12日(水)  酸っぱい葡萄
   イソップの話を久しぶりに聞いて、面白かった。

 狐が葡萄を取ろうとして飛ぶ跳ねるが、届かない
 狐は「ふん、どうせあの葡萄は酸っぱくてまずいに違いない」
 と言って去って行く。

 学術的には「(自己防衛機制の中の)合理化」と言うそうだ。

 そう思える事、それが出来る事が、羨ましい。
 
 「どうせあいつはその程度の奴だったんだよ」
 と思えない。

 勿体ない。悔しい。 
 何故、そんな勘違いをしているのだろう 何故気付かないのだろう。
 
 慕う人も居れば、それなりのキャリアもあると言うのに。

   
 12月13日(木) ミカン
    何時頃からだろう。ミカンに種が無くなっている。 「種無し葡萄」「種無し柿」
 の表示は在るが、「種無しミカン」とわざわざ書くまでもなく、すべてのミカンに種が無い? そして「甘い」 酸っぱさに驚く事がない。 
 気付けばそれに驚かされる。

 「有機農法」がもてはやされて「遺伝子組み換え」が取りだたされるのに。 「種無し」を食べていても平気だと言うのだろうか?

 「種無しで甘いミカン」が「当たり前」になっていると、 昔ながらの「本物のミカン」は、嫌われるのだろう。  「種が在った」だけで、 「酸っぱい」だけで嫌われる。
 いっその事、そのうち「レモン」も酸っぱくなくすれば良い 「苦くない苦瓜」を作れば良い

 「種無しで酸っぱくないミカン」 それに「何処そこ産」「何何風」が着くともっと売れそうだ。

 「お客さんの喜ぶ顔が見たい」 上手い台詞だ。 それをプロと言うのだろうけど

 10年後 「種無し」の弊害が医学的に語られる頃には「お金欲しさに毒を売った」と責められるかもしれない。

 でも、大丈夫 「本物のミカンを淘汰した」のは君じゃない。

   
 12月14日(金) いったい、どうした?
    この半月位でしょうか? 部分は三ヶ月位前だったり、半年前、春頃からだったり、
 私の廻り、友人、知り合いで「いざこざ」「仲間割れ」が妙に多いのです。

 不思議な事に、私はまな板の上には置かれず、どちらとも「同じ」「変わらぬ」関係。
勿論、日常的なトラブル、悲しく成る事、ガッカリする事、ささやかな裏切り、期待はずれ、卑怯、厚顔無恥な振る舞いはあり、私程、頑固に偏屈にやっていれば、そりゃ当然「するっと流れない」問題も出て来ますが。
 私と比べれば、遥かに「温和」「穏便」な普通の人達が、「キレ」ていたり、裏切った、裏切られた、ガッカリだ、本性が見えた、と「憤慨」しているのです。
 「一体どうしたんだ!」
 と「頑固系最古参」の私が驚いています。
むしろ「そこまで憤らずとも」とか「えっ?良く在る事じゃん」と驚く様な事、呆れる様な事を「許せなくなっている」。

 ひとつには「いろいろな事、仕組、物事の裏表、本筋、真実」に「気付いた人」「気付き始めた人」が増えて来た事があるように思います。その結果、今迄「許して来た」「見逃して来た」ことが許せなくなった。

 もうひとつには、今迄「許されて来た」「甘えて来た」人達への「風当たり」、それを「見逃して来た」「許して来た」「庇って来た」人への「風当たり」も強く成って来た様に見えます。 

 私的には、この様な状況は「元来当然」「むしろ遅過ぎ」と言うべきものですが、
「何か違う」様な気がします。
 
 むしろ「今、もめている場合か?」とか「問題はそんな事か?」と言いたい。

 景気の良い時代にあった「悪習」
 「なれ合い」「癒着」「接待」「無駄使い」「公私混同」などが改められ、
 気付けばそれに乗じて「弱者切り捨て」
 「社会組織」がそれを進めた結果、庶民に余裕が無くなって来て、その結果で色々なトラブルが生じているのであるならば、 
 景気が良い時代から訴えていた私の立場では「ほら見た事か!」と言いたい位です。

 だから、むしろ、今もめている様じゃ情けない。 
 相変わらずの「人のせい」
 今迄「胡座をかいていた」分しっかり戒めて、無くしてはならない「信用」
 失ってはならない「友情」 むしろ紡がねばならない「絆」を見失わない事。

 逆に、もっと卑怯で、小狡い人達が、嫌らしく大同団結するのを防がなくては、
 愚かに慌てて、バタバタしている内に、とんでも無い事に成ってしまいます。

 ムガール王朝が幾つもの「藩王国」に分裂して争っている期に乗じて、イギリスが植民地化を進めた様な歴史は幾らでもあります。
 
 人間には「船を造る人」「船を漕ぐ人」「船を守る人」も居れば、あっけなく「乗り換え」られて自分だけ「楽」「安全」な所に行ける人もいます。
 
 まだ、今なら、コルク一個で防ぐ事の出来る船底の穴かもしれない。 その間に、皆で力を合わせて「航路」を定めなくてはいけない。 
 本当は10年以上前にしていなきゃならなかった事ですが。

 ところが、気付けば船底は水浸し。 船が傾いでいる所もある。
 その時に、皆が僅かな救命ボートに群がったらどうなるでしょう。

 人間は、自分の認識、想像を超えて、多感な生き物です。
 何処かで感じている「危機感」「不安」を「整理」も「理解」もせずに、
「目先の問題」に捕われて、「言動」や「考え」などの細かな事に目くじらを立てて、互いに批判し合い。つまらぬ不満を述べ。
 甘え合っている様に思えます。

 5年先、10年先の事を考えて、今動かねば

 今、取り繕った事は、きっと5年後、10年後には無駄になります。

   
 12月15日(土) 「得難い友」
    また一人、得難い友を得た。

 もう二年以上前からのお友達、と言うかお知り合いと言うか、音楽仲間さん。
 昨年は思いがけず「誕生会」迄して頂いた。
 師走の季節なのに大好物「鰹のたたき」を素敵な焼き物のお皿に入れて。
 お皿もプレゼント。

 吉祥寺の三食、そのお皿で頂いている。
 
 この二年 事ある毎に、mixiコメントで メッセージで、 PC-E-Mailで
 励ましてくれたり、答えをくれたり。もう随分助けてもらっていた。

 それでも、一定の距離があったのは、常に「助けてくれる側」で在った事に加えて、「その距離を守らない事」でせっかくの嬉しい存在を失いたくなかった、からである。
 皮肉なもので、その距離が守れなく成った時に、私がささやかながら「励ます側」と成り、むしろ「掛け替えのない友」と思える様になったのである。 思いがけずも。

 「皮肉」」と言わざるを得なかったのは、これを素直に認めてしまうと、
 過去のあまたの出来事。「距離が保てなくて失った関係」が、「所詮はその程度の関係」であることや、その人の「生きる執着心」「人と関わる根性」「全てへの使命感」「使命感の元の謙虚さ」が、やっぱりその程度であった事を認めざるを得なくなってしまうからである。

 良く、人が言う「タイミング」もあるのだろう。 現にこの二年は今の段階に至らなかった。
 が、それでも「何か在るぞ」と思って居た。 それを認めたくはなかったけれど。

 自分の中で「底が見えてしまった時」どうも、急いでしまう様だ。 
 「急げば供に先の段階に行けるかも知れない」
 言い換えれば「待ったところで、変わるものが無い」と早期に判断している。
 それに対して「底に何かが在る様だ」と思うと、それが「自然に現れて来る」のを、少なくとも二年ものんびり待っている自分が居た。

 しばしば「独善的」と言われる。
 「悲しいけれど、嬉しい」
 自分が理解されない哀しみより。人が理解する力を持とうとしない事の方が悲しいから。
 全て「自分の至らなさ」と思う事でしか解決出来ない。人が自分で「気付いてくれる迄」は。
 そうした「解決策」の為には「自分がいけなかった」と思う事が、私の「合理化」だった。
 
 
 今迄、かなり優秀だと思った人でも
 「生きる根性」「人と関わる執着心」「自分への使命感」「使命感に対する謙虚さ」だった。
 それに気付かされる。

 「生きる執着心」「人と関わる根性」「全てへの使命感」「使命感の元の謙虚さ」

 その人から、たった三日で学んだ。

 「生きる根性」は、一所懸命だが、「その場その場」である。「生きる執着心」はずっと続く。

 それを支える為に在るかの様な「人と関わる執着心」。それに対して「人と関わる根性」は、しぶとい。だから「待てる」。

「自分への使命感」は、所詮は「自己愛」の転化。「全てへの使命感」は、
 「思い込み」「自己暗示」かもしれないが「自己愛」は「昇華」されて行く。

 「使命感に対する謙虚さ」は、「自分を見つめる作業」を忘れさせる。「使命感の元の謙虚さ」
 これは常に自分と対峙しながらである。 

 故に「悩みながら」も「先に進み」気付けば多くの人と関わり、傷つき。 
 にも関わらず「待って居る」から、沢山の「未完」の「関係」を持っている。「抱える事」は決して楽ではないのに。
 「沢山の嬉しい友達が居る」なんてお気楽な話じゃない。

 
 ある意味。 と言うか、日々に於いて
 「憂鬱」「面倒毎」の「在庫の山」の様でもある。

 が、そこがまた素晴らしい「未来」「可能性」である。
 友人が抱えている「人材」は、「時がくれば」また、大きな力として動き出すだろう。

 「人と人を繋ぐ」
 そんな「誰もが言える」様な、似非な「綺麗事」ではない。

 故に「得難い友」なのである。
 
 更に「皮肉」な事に、
 その友は、けっして「丈夫な身体」ではない。 決して「気丈」な訳でもない。
 「心の強さは生命力に比例する」という私の持論。
 それが「諦め」の為の「合理化」だったのかもしれない............
 薄々判っていた事を、示されてしまった。
 「弱くても頑張れる」  否、「弱いから頑張る」 だから「人を助けられる」 

 そんな人を一番悲しくさせる、足を引っ張る人。 それは、
 「弱いから頑張らない」「弱さ」を「頑張らない理由」にしている人
 本来、一番の「理解者」が、一番の敵になってしまうこと。
 
 これが、一番の皮肉かも知れない。

   
 12月17日(月) 宜しくお願いします。
 

 Blogの話題で恐縮ですが、

 皆さん、何時も、ご訪問、ご愛読ありがとうございます。
 そしてコメントもとても嬉しく頂いております。メッセージでのご感想も
ありがとうございます。
 6月に3万、10月に5万に達したアクセス数も、あっと言う間に58000を超え年内に6万に達しそうです。月5000アクセス、一日平均160アクセスという事です。
 ありがとうございます。
 
 3万を越えた頃に一気に増えたのが「在宅系」「宗教系」の一見さんの訪問。
それが5万を越えた頃からは、逆に下火になり、全国で色々な物事に関心を持っている方の訪問が増えました。
 
 お気づきのかたも多いと思いますが、TVを見ない事もありますけれど「時事ネタ」には触れない様にしていますので、「ニュースマコメント検索」ではないのです。

 「人の噂も85日」という言葉がありますが、逆に「口コミ」の広がりも「三ヶ月」位は掛かる様です。ネットの時代になって不思議な感じがしますが「検索逃れ」をしている私の場合、もっと時間が掛かるかもしれません。

 もどかしい様な気もしますが、「福岡・猫さんの会」「のーそん倶楽部運動」「駅前商店倶楽部運動」もっともっと動きたい思いが空回りします。

 せっかちな江戸っ子だからかもしれませんが、今年は11月くらい迄暖かく、最近になって急に寒い日があったり、暖かかったりで、1月〜3月の気温が心配です。
 野良猫さんを見かけたら、事の是非はともかく、缶詰のひとつコンビニで買って、こっそり上げて下さい。
 色々な問題はあります。それは懸命に急ぎます。でも、春に成れば随分安心です。
 
 「責任問題」を考えてしまう方もいらっしゃるでしょう。でも、まずはコミュニティーにご参加下さい。「輪」が広がり、お友達のお友達から、動いてらっしゃる方、動ける方、動こうと思っていた方に繋がれば、次第に大きな動きになります。

 宜しくお願いします。

   
 12月17日(月)  「白い眼」「引っ越し」
   白い眼  引っ越し  段ボール

 怖い眼  引っ越し  期限が迫る

 弱り目  自分の   頑固さのせい

 鳥目   夕方    手元が見えぬ

 蔑む事で 我慢が出来る 今の仕事も あるだけましか
 
 蔑まれても 構わないから

 もう一枚下さいな

   
 12月20日(木)  「身内」
    最大の問題点

 こんなにも沢山の応援者さん、理解者さん、嬉しいメンバーが居るのに、
 何故か昔から「身内」「家族」に理解者が居ない。

 「身内」「家族」に理解されない=「裏表がある」「偽物」という事になってしまう。

 

 十代の頃から「異なる意見、価値観」に妙に惹かれた。
 21歳の時から5年完全菜食、禁酒禁煙、根菜も食べない。未だに肉食はしない。
 そのきっかけは、腹が立つ程、考え方が違って、私を耳かき一杯程も理解しない上に、批判の言葉には堰が無いという同じ歳の友人の一言への反発だった。 今では感謝しているが、初めは「意地」だった。

 さすがに20年位掛けて「疎遠」になったが、同様の「不理解者」の友人、10年20年の付き合いは未だに数人居る。 「同類相哀れみ」が出来ない「Yes-Man」が気持ち悪い。
 1990年代スタッフ20人全員に辞めて貰った事がある。新興宗教が問題を起こす前の頃。 「何か真理を求めて」とは聞こえが良いが、マニュアル文化に乗り切れなかった、「プライド」と「依存心」という相反するものの両方が高いエリートが多い時代であった。

 共に音楽をしようと言う人に、そこまでの「異質」を求めはしないけれど、
 パートナーには自然と「異質」を求めて来たかもしれない。 少なくとも「妄信的」に慕われても困るし、懐かれるのもどちらかと言うと照れくさい。「高嶺の華を追い求める」本能も強い。とは言っても、物やお金で釣る意識も現物も無いから「釣った魚には.....」ではない。大事にする。むしろ大事にし過ぎて「人として駄目」にしてしまうらしい。末路は悲惨。 人はその面白い部分だけを知りたがる。

 「灯台下暗し」もあるかもしれない。
 「導いてくれると思って、来てみたら、真っ暗じゃない!」と思われる。
 こちらも、側に居てくれるのだろうと、安心して「外」の難問、課題に取り組んでしまう。

 最大の欠点が「群れ意識」の欠如。不理解。
 人は、群れに参加した段階で「守られる」と判断する。「安心」が得られる筈と。
 ところが「人として間違っている!」などと言う。
 「ライオンが子どもを崖下に」ほどの厳しさでは全くないが「だらしない」事が許せない。

 感謝の気持ち 私に対してでは無く、「生きて居る事」「出逢い」「日々の出来事」
 「心地良い事」ばかりでなく、全てに「感謝」
 「自律」と「自立」と「克己心」が弛んで来る「馴れ合い」「もたれ合い」が出来ない。
 
 「ヤキモチ」も「束縛」も分からない。
 仮に「社会的責任」としての「契約」があったとしても、パートナーとして互いに成長しなくては、意味が無いなどと思う。 「もっと良い男が居ればそっちに行けば良い」と思う。そう言う前に、自分を鍛え、磨いている..............。つもり。 見事に「同業」で私の上を行く者に盗られはしなかった。
 
 「群れ意識」の欠如は、
 お弟子やスタッフにも悪影響がある。
 「身内的に守られないのなら、他に居ても同じ」

 「最大の欠点」以上に質が悪いのは、
 「オフる」事らしい。
 「だらしない」との違いが分からない様だ。 人には「だらしない」と言いながら、
 「Off」になっている姿が許せないらしい。 

 「身内の苦言」を総合すると「類い稀なる欠点のデパート」の様である。
 「自発性」しか求めないので「人使い」が嫌い。 嫌いな事は上達しない。
 数多の工夫、改善 否「根本的改革」をしないと、どうにもならない。

 分かってはいる。

 が、時間がホントに無い。

 「忙しい」からでは無い。

 そろそろ、文句言いながらもどんどん動いてくれるスタッフ
 ひっぱたいてくれても良いから、やる事やるマネージャーとかが得られないと

 時間が勿体ない。

   
 12月20日(木)  「何がしたいの?」
    世界中の民族楽器3000近く集めたり、三ヶ月でCD45枚録音したり、
 8ヶ月でバンド30個作ったり。ライブをしたと思いきや、日記も沢山書いていて

 「アナタは一体何がしたいの?」「何になりたいの?」「どうしたいの?」

 もし、「答えは一つだけ!」と厳しくおっしゃるのなら。

 「◎◎をしたいのかぁ」と思われたくない。  が答えです。

 「何でもやりたい」「何でもやれると思いたい」「何でもやれると思われたい」
 も「◎◎」の一種。

 皆さんには「二三こくらい出来るでしょ!」「人生一回じゃないですよ」
 とは、何時でも「言いたい」ですけど。

 自分が「何でも出来る」と思ってる訳でもなければ、するつもりも無いです。

 一番したいこと。

 「何もしないでごろごろしていたい」
 
 「猫溜まり」に顔を埋めて一日中「昼寝」していたい。

 って、言うと「疲れてるんでしょう」と言われるのが嫌。
 子どものころからです。
 「何もしないでごろごろしていたい」のは。

 もし、家の回りが自然だらけで、1920年位の、環境で、
 何時でも昆虫が回りに言えば「昆虫飼育」もしないだろうし

 「じゃあ、森にでも住めば」「無人島にでも住めば」

 なんか「厄介払い」見たいに言われるのは嫌ですけど、
 「出来ればそうしたい」です。

 多分、否、きっと10年位頑張ったら、森か、島に行きます。

 なので、
 その夢を叶える為に、頑張ります。
 何でもします。色々します。次々します。勉強もします。
 練習もします。働きます。
 
 「お疲れさん! 後は僕らでやりますから、島でも森でも行ってらっしゃい!」
 と言われる迄。

 なので、
 間違っても「政治家」「企業家」「教祖」などになるつもりはなりません。
 もしかしたら「環境復旧産業」の社長になるかも? 
 心の音楽大学の学長になるかも?
 そうだとしても、まずは、取っ掛かり。 居座る事は無いでしょう。

   
 12月20日(木)  「何をすれば良いの?
    「じゃあ、私たちは何をすれば良いの?」
 
 と、訊いておきながら「そりゃアナタの個人の意見」というリアクションは無しでお願いします。 難しいことは言いませんし、どの政治、その宗教にも関わらない意見です。 もしかしたら根底では全てに拘っている「当たり前」の事を言います。

 まず、五年で「身辺整理」をしましょう。
 独身で健康で、ご両親も元気で働いている方は、二三年。

 仕事を考え直しましょう。
 「サービス業」より「生産業」。「生産業」より「第一次産業」
 世界に武器や農薬や消耗品を供出している職場は替えましょう。

 十年計画で「先祖返り」を致しましょう。
 三四代前のご先祖の仕事に戻るのが良いと思います。
 「泥棒」は難しいですけど。

 出来れば「腕に職」を付けて、ご先祖の仕事の他にセミプロで。
 「作る」ことを優先しましょう。出来る事なら「創る」こと。
 
 日本の環境産業や、測量産業はかなり優秀と聞きます。
 残念ながら軍事にリンクしている場合もあるかもしれません。
 じっくり吟味して、世界の「自然復旧」に役にたつ、新しい仕事もあるでしょう。
 出来る限り、力仕事。どうしても無いなら営業職でも経理でも。
 

 少しずつ「生活」を替えましょう。

 「衣食住」を改めましょう。
 ファスト・フードは減らしましょう。外食は、地域の「食堂」で
 「先週より一食多く」日本食を食べましょう。
 出来る限り国産材料。 お豆腐屋さんも良いですね!
 地域の小売店を優先しましょう。季節のものを食べましょう。
 先週よりも「一品」多いだけでも。

 「先月、去年より、「輸入衣料」を一着減らし」て、
 同じ輸入衣料なら、途上国の、経済を替えずに支えるフェアトレードの

 出来る事なら、郊外の、古い民家の日本家屋の。
 車は一人で乗らないで。 出来れば歩くか公共交通。 
 
 TVもなるたけ見ない様にして、ニュースもあまり見なくても
 その分教養のある番組。
 良い番組のスポンサーを応援し、下らない番組のスポンサーの商品は避ける。
 出来ればTVを消して「読書」をしましょう。 一人でも家族が居るのなら
 辞典さえも「朗読」しましょう。 本は、街の本屋さんで。古本屋さんも良いでしょうけど
 絶版以外は新品を。レンタル、図書館は止めましょう。

 夜は、早めに寝たいですね。 その分朝は日の出前に。
 出来れば、地面の高さ迄行き、空気を一杯吸いましょう。
 お水も沢山飲みましょう。 水道水で十分です。
 ペットボトルは止めましょう。 

 美味しい水があるのなら、仲間でまとめて買うのも良い
 大きな入れ物一つ担いで、歩いて運べばより良いでしょう。

 ウォークマンは止めましょう。
 出来れば「音楽聴く時間」一日30分でも良いですから。
 好きな飲み物を飲みながら、ゆっくり座って聴きましょう。

 生き物と暮らす事は、とても良い勉強になります。
 でも、ペット・ショップ、ブリーダーさんは減らしましょう。
 「地域犬猫の里親探しコミュニティー」は沢山あります。

 自然環境のこと、人権問題の事、途上国の衣料、伝統産業、
 世界の本物の伝統文化、色々な問題点に関心を持ち、
 無理無く、ささやかでも支援する方法はたくさんあります。

 楽しいライブや、美術鑑賞、ひとつ幸せな気分になったら、せめてひとつ。
 鑑賞費の一割でも。そういう活動に参加しましょう。


 
 そんな事を「昨日よりひとつ」「先週よりひとつ」
 ゆっくりの様でいて、大したものです。

   
 
   
   



 世の中社会に想う事                                

 12月5日(水)   「そこな若者!」
    そこな若者!

 その半開きの口を閉じなさい。

 およそ、鼻を持つ生き物は、その鼻に「殺菌力」が集中していて
 鼻で呼吸する事が本来であり、腹式呼吸にも繋がり、健康と成る。

 そのふてぶてしい鼻でさえ、大変貢献してくれるのだから
 君が風邪を食い止めれば、数十人に移さなくてもすむのだから。

 もし自然が豊かだったら、虫だって飛び込むぞ。

   
 12月11日(火)   始発電車
    天神のカルチャーセンターで教える為に、吉祥寺の始発に乗る
 新宿で乗り換える。ホームの上は始発迄飲めや歌えや、踊り遊んだ人々の天下である。

 勿論、自分も若かりし頃は朝迄音楽談義を戦わせ、夜明けの井の頭公園で酔いを冷ましたものである。しかし、新宿のホームに溢れる人々のその表情には「違和感」を感じざるを得ない。
 「若気のいたり」と言うならば、「若さ」を見出したいものだが、生きる事にくたびれ投げやりになった、ストレスを貯めた手負いのハイエナの様な。 何も考えず何も問題にせず、自分の気分だけを優先した、ルビで台詞がないと「喜怒哀楽」さえも分からない漫画の絵の様な無表情な。
 表情もさることながら、その会話がまた悲しい。

 思いのほか、世の中は急速に悪く成っているのかもしれない。

 いやいや、東京の新宿、しかも朝迄飲んでいた輩の話である。ある意味「日本の荒廃の最先端なのであろう」と気を取り直して、羽田に向かう。

 レッスンを終えて福岡の自宅に戻って楽器を担いで小倉へ。
 西鉄電車に乗るや否や衝撃的な出来事が。

 七人掛けのシートに「ゆったり座る」は福岡でも始まっていた。否、交通マナー、公共マナー(嫌いな言葉だが)の悪さは、福岡は東京に次いでいる。
 「愛情故の」と理解して下さる事を前提に言えば、福岡は「プチ東京」。近隣県からそういう意識で人が集まる。そして地元生まれの人々もそんな奢りも幾分在る。「博多っこ純情」とは言えど「博多」のエリアは県外から見たイメージの10分の一以下であり、福岡人の「精神的基盤」な訳でもない。北九州からでさえ「他県」の話の様でもある。
 その北九州も、小倉はまだ多少「固有の文化性」の「気骨」を持っている。が、「小倉市」が「北九州市」の「傘下」となって以降、「博多」と対峙し、それ以上の規模、男気を誇った精彩は、近年かなり衰えている感じがする。

 そんな訳で、福岡に「古き良き時代の温かみ」を見たとしても、それは公共の場所ででは無い。 が、昨日の西鉄での出来事は象徴的であった。

 天神に向かう電車の西側のドアが開いて乗り込んだ。
最寄りの西側に座ろうとした。 七人掛けに五人であった。
 一番ゆったりと座っている30歳代の女性に向かって「すみません」と言った。
彼女の左右がそそくさと詰めて座り直した。

 ところがその女性が「頑!」として微動だにしないのである。
 もう一度「すみません」と言ったが、動かない。人の顔さえみない。 その目つき、表情から
心が病んでいると言う事は分かった。 否、昨日運命的に出逢った「鬼金友人」のレクチャーによれば「病んでいる」のではなく、その手前の「自己防衛手段」を取っている状態。

 私は、三度は言わずに無理無理に座った。 その女性はやむなく多少ずれるはめになった。

 座ってから向いの東側のシートを見て唖然とした。人の1,3倍は在る様な大男がダウンジャケットで着膨れしている。その一人置いて隣は、朴訥とした田舎紳士。自分の横に大きめの紙袋を置いている。その上に皆が「ゆったり座り」である。なんと七人掛けに四人しか座っていない。
 
 もし東側から乗っていたら? 悲しいかな、如何にもその筋っぽい大男とはやり合う年齢は過ぎている。正確に言えば、やるべき事をして世話になった人へ恩返しをする「残り時間が無い」。以前新幹線でその筋っぽい人の携帯を注意して修復に膨大な時間を浪費した苦い経験がある。その筋の方はちょっと問題外。 もし、紳士の側から乗車していたら、彼に言っただろう「その紙袋を膝にお持ち下さい」と。

 話のテーマは変わる。
 
 「七人掛け」は、その昔、つい5年程前迄は、東京でさえ「譲り合い」の精神で守られていたものである。車中のステッカーにあろうとなかろうと。マナー云々ではない。 それがこの一年で急変した。

 これをなんと考えるか?

 まず「座る権利」を意識する。 が「面倒な事はごめん」と思う。
 お年寄りに「席を譲った」のと次元が異なる。「座る権利」を譲ったのではない。「面倒臭い」から、自らの「権利」を「捨てた」のである。

 私の頑固さはそれ以上である。 「座る権利」を、主張、執行した訳ではない。
 その女性に対しての「人の権利を奪う権利は無い」と「表現」する。

 電車内での「マナー」を訴える様々な表示、ステッカーの類い。
 「携帯」「荷物」「足伸ばし」「ウォークマン」の類いを「気持ち良く乗れる様に」「マナーを守りましょう」とある。とんでもない話である。

 もっとびしっと書くならば
 「アナタには、他の乗客の権利を侵害する権利は在りません」であるべき。
 
 それと同時に
 「アナタには自らの権利を主張する義務があります」であるべき。

 更に言うならば、
 「アナタが自らの権利を放棄する事は許されていません」

 「譲り合い」は、
 それらの「権利」を守り、互いに侵害せずの状態を作った上での事である。

 でなくては「譲り合い」の「心」「温かみ」は無くなってしまう。

  
 「人の権利を侵害する事」
 これは「悪意」として「許されない」と理解される。
 
 が、「自分の権利を放棄する」
 は、「個人の勝手」「他人に迷惑を掛けていない」「悪意じゃない」
 だから許される。というか「しのごの言われない」「個人の自由」

 この様なプロセスだから、
 人が放棄したシートに、厚顔無恥な人がゆったり座る。
 これは「悪意がない」「人の権利を侵害した訳ではない」
 と許されてしまってもしかたがない。

 人の家に入り込んで物を盗めば犯罪。
 人がベンチに置き忘れた物を取得しても「遺失物拾得罪」があるから犯罪。
 もしその法律が無かったら?

 置いてあったもの、落ちていたもの、を拾って私物化する事の
 「何処が悪い?」と思う人は少なくないのだろう。

 人が放棄した「権利」を拾う者が増えている。

 そんな人々に「まごころ」「譲り合い」を語ってどうなるのだろう。

   
 12月12日(水)   在って当たり前
    そこに在ったものは、「在って当たり前」の文化

 そして「在る物を消費する」文化

 「創り出している」フリしているけれど「作り替えて」いるに過ぎない。

 この3000年の間で、初めの頃の人間は「何故在るのだろう」
 と神の「意志」を知ろうと学問を始め、勤しんでいた。

 いつの間にか「勉強はおしまい!」「さあ遊ぼう!」

 
 「そこに在った店がもう無くなっている」

 最近では「無くなっても驚かない」

 「じゃあ他の店に行けば良い」

 そのうち「無くなって当たり前」

 「在って当たり前」の逆が「無くなって当たり前」「無くて当たり前」
 ならば、人間は「正しい方向」に進んでいる様に思えるか?

 無くて当たり前の所に「在る」事の素晴らしさ、凄さ、
 感謝と感動とその恩恵から生み出す様々な新しいもの。

 それを作り出す、叡智も無く、「在る」事の感謝も無ければ、

 「無くなる事」に困りもしなければ
 「無くしてはならぬ」と思わない。
 
 ならば「無くさない努力」なする筈も無く。
 責任も感じない。

 浜辺の砂山の様な話だ。

   
 12月14日(金)   騙し言葉と畳語
    【騙し言葉】

 僕の民族音楽LIVEのMCネタですが、 「サハラ砂漠」と「チゲ鍋」と「インダス河」と「白いブランコ」み〜んな 「殿様キングス」です。
 愉快なのは、「サハラ砂漠」と「インダス河」
 地図を作らんとした、西洋の間宮林蔵さんみたいな人が、シュバイツァーさんの様な帽子を被って、ひいこらひいこら砂漠に行って 「おい!そこな土地の人よ! この砂漠の名前を教えなさい!」

 「何言ってんだこのオヤジ」と思いながら、  「サ ハ ラ!」 

 オヤジさん「なるほどサハラ砂漠か」と書き込んで帰る。 アラビヤ語でもペルシャ語でも「砂漠」の意味。

 「インダス文明」などでも名高い、「インダス河」の語源は 「インド」の語源とも共通しています。 「インド」の語源となったこの河「インダス」は、 土地の言葉「スィンド」を聞き間違えたもの。 愉快なのは、中国の古地図などには、当て字で「身毒」とあります。
 玄奘三蔵さんも意を決して渡った事でしょう。

 アフガニスタン南部とパキスタン北部に股がるパシュトゥーン族のパシュトゥー語とパキスタン南部のスィンドゥ族のスィンディー語に辿る事が出来ます。「スィンド」は「河」です。 スィンドゥ族は元々「河の民」という名だったのでしょう。

 「白いブランコ」と言うのは、昭和30年代40年代生まれの人じゃないと 通じないかな? 懐かしい日本のフォークソングのタイトルですが、

 「ブランコ」は英語では「Swing」  この外来語らしき「日本語」は「バランス」の語源にちなむ説と スペイン語の「白」にちなむ説があります。

 
 ちなみに、ちょっとずれますが、 「猫」の語源は、「寝る子」なので
 「寝ている猫の子」は「殿様キングス」です。
 日本に漢字が入る前から、猫さんは日本人に馴染みのある生き物だったのでしょうか?
 起源は古代エジプトだとも言いますが。

 
 エジプトと言えば、本来「エジプト人」の意味なのが「ジプシー」
 インド起源なのにどう間違えたのか? 
 近年「ロマ」と言い直すのが「流行って」ますが、私のハンガリーの師匠などは「ジプシー」と言い切りますし、スペインでは「ヒターノ」 肝心のエジプト人は、国名を「ミスル」と言います。
 現地の大手旅行会社に「MIsr-Travel」さんがありますが、私の友人、何かの不手際に怒って「ミスるトラブル!」って可哀想に。
 
 なので、「エジプトのジプシー」は変な言葉。

 
 【畳語】

 日常で頻繁に使いながら、その言語学的分類名称「畳語」はあまり知られていないかも?

 「まあまあ」「そこそこ」「ちょくちょく」「しばしば」「なあなあ」
 「よくよく」「ただただ」「ふさふさ」「がんがん」「ぎんぎん」
 「めちゃめちゃ」「ぎりぎり」「やれやれ」

 これらは「擬態語」「擬音語」なのでしょう。

 これらの発展系が

 「云々」「久々」「日々」「延々」「方々」「せいぜい」「こもごも」

 類似系が

 「土地」「河川」「果実」「遅延」「殿様キングス」?

 「重複」もある意味「高尚」な「畳語発展系」ですが、「重複」させる事で「強調」している訳です。 究極が「喧々囂々」?

 日本語は世界でも最も「畳語」が多い言語で、 英語には「So-So」がある程度?

 むしろ「Ob-La-di-Ob-La-Da」「Hoochie-Coochie」
「Hurdy-Gurdy」の様に「語呂の似た二語」をセットにする洒落感覚の方が優勢?

 「Eeny-Meeny-Miny-Mo」も有名ですね。
 
 日本語の他に「畳語」が多いのがインドとアフリカ
 
 この三か国は「音にサワリ」を付ける点でも共通している。
   私の古いインド映画音楽の十八番の一曲の中に出て来ます。 「Samri-Samri=そろりそろり」「Cham-Cham=ぺたぺた」

 その他の歌にも
 「Jhan-Jhan=そのまんまのジャンジャン!」鈴の音の描写です。

 「JayJay=嬉々」 英語の「JoyJoy」に似ています。
 ベンガル語ですと「ア」が「オ」に近いので尚の事。

 私のズィンバブウェの十八番
 子どもに歌う歌ですが「Kuwabi-Kuwabi」は「なになに?」です。

 日本語のルーツの一端と言われる、中央アジアの言語、
 トルコ語やモンゴル語にも「畳語」は見られます。

 「LimyLimy」「LeyLey」「TinyMiny」

 「TinyMiny」は英語の「Tiny」と「Mini」が混じった様です。

 日本語のもう一端のルーツ「東南アジア〜太平洋」にもあります。

 ガムランのシンバルなどは「擬音語」で「ChenChen」と呼ばれます。

 私のハワイのレパートリーの一つの

 「ビリビリ・ヌキヌキ・オイオイ」
 
 なんと一種の「魚」の名前で、本当はもう少し長いです。

 日本語の「畳語」の大元の感覚は
「よしよし」「なぜなぜ」「なでなで」「はいはい」「よちよち」

 の様な可愛らしい優しい心の言葉。

 日本人らしい、穏やかな生き姿を想い出させてくれます。

★民族音楽センター長崎の山口さん(シリア留学経験有り)から「アラビヤ語も多いよ」と頂きました。

アラビア語にもいっぱいありましたよ。 (一部方言かもしれませんが)

「シュワイシュワイ」=ゆっくり
「ノスノス」=半分ずつ、ぼちぼち
「フレーフレー」=胡椒
「シムシム」=胡麻
「ミシミシ」=アプリコット
「ルウルウ」=真珠


   
 12月14日(金)   「池の鯉」
    その昔
 ミュージシャンはシャーマンだった。
 
 音楽の「薬効」が薄れて、「娯楽」または「芸術」となった頃でも
 その「魅力」はある方法で保たれた。

 スポンサーシップ  
 
 いわゆる「パトロン」「贔屓衆」である。

 それに対して、一世代前のインド音楽家やアフリカ音楽家が良く言っていた
 「コマーシャル・ミュージック」
 は「それ自体が売れなくては意味がない」ものだった。

 所詮はどちらも「売り買い」もしくはその「価値」が問われる訳だけど、
 
 「微妙な違い」が「根本的な違い」なのである。

 「歌い継がれる名曲」の様に「結果」として「残った」ものではなく
 「残すもの」と「消費するもの」の違い。

  例えば「美術工芸品」と「ブランド物」と「百円ショップ」
 
  金額の上下ではなく「消費し摩耗しいずれは消えてしまうもの」
 と「鑑賞するもの」「消えないもの」

 美術骨董品を日常的に用いれば、そりゃ欠けもすれば、割れもする。「消耗品」になる。 それを飾るから「美術品」。同じ価値でも「床の間」か「台所」かの違い。

 しかし 落語の「猫の皿」じゃあないのだから「希少価値」のあるものを「日常に使う」事はあまりしない。 ましてや「一点もの」ともなれば、尚の事。
 逆にそのような「プレミア」がその物の「価値」を高める。
  タージマハールを立てたシャージャハーン大帝は、「一点もの」に拘って、ペルシアから呼び寄せた職人達を完成後処刑したと言う。

 
 「形に残らない音楽」に価値を着けるのは?

 バッハやハイドンや、インド宮廷楽師や西アフリカのジャリの時代は、録音物など無いから「一切残らない」 ある意味「究極の一点もの」だった。

 しかし「しょっちゅう頻繁に、色々なところで演奏」していれば、その価値は失われる。
 パトロンもそれを許さない。と言うか「そこでしか演奏しない」から「価値」があった。

 言わば「池の鯉」 
 
 以前にも「東京ライブハウス・ユニオン」の話を書いたが、今やミュージシャンは「箱」を常連客を引き連れて点々とし、「箱」はより売れているミュージシャンを求め「箱」のポリシーも無くなって行く。 

 私は頑固にも「その店でしか演らない」を貫いて来た。
 インド音楽はその店、アラブ古典音楽はあの店
 この楽団はこの店

 でも、お客さんにとってみれば「みんな若林忠宏の音楽」
 価値も意味もなかった。

   
 12月16日(日)   「立たされ坊主」
    今では音楽を生業にし、演奏し教えているこの私が、
 小学校の音楽の時間、確か9割近く立たされていた。

 昭和30年代中盤。 立たされる時に両手に水の入ったバケツなども持たされた。
 「躾」も「罰」も「懲りさせる」事が目的であって「導き」でも「更正」でもない。
 しかしながら、「野原で思う存分遊ぶ事」以外不要な私の様な「駄目小僧」には「導き」は意味を持たなかった。 

 辛いけど懲りなかった   ある意味「人生の最初の分岐点」だった。

 「罪状」は「何度言ってもハモニカを忘れる」「練習して来ない」

 「授業中先生の話を聞かない」  

 そんな私が唯一授業に参加した記憶がある。

 「四分音符は一小節を四分したからです」「三拍子には三つありますね」

 「はい!先生、じゃあ三拍子では三分音符ですか」

 嫌われた。 のだと思うが
 
 それ以前に、その先生の前では「思考」が先に進まなくなったので、
 記憶すらない。 立たされていた事をうっすら想い出す程度である。

 運悪くか運良くか、 六年間音楽の教師はずっと同じだった。

 多分。 ずっと立たされていた。

 「学習障害」を何処で線引きするのかをまだ知らないが、
 「軽い学習障害」という子どもも居ただろう。
 単なる我が儘な子も居ただろう。 
 私の様に「引っ掛かると先に進めない」子も居ただろう。

 「教える者」が「教えの内容」に疑問を持ったらいけない。
  そりゃ確かにその通り。

 「信じる事が自己治癒能力を高める」部分も大なのだから、
 お医者が「この薬効くかどうかは、人によりけりです」
 と正直に言ったら効くものも効かなく成る。

 が、医者自身が「効く」と「信じ切っている」と言うのも如何なものであろうか
 医者もプロであるならば「自己治癒能力を高める」為に「信じさせる」
 言わば「好意の詐欺師のプロ」であっても良いのではないか。
 それこそ「片栗粉」を「新薬」と言って渡したって良い
 
 医者が医学を 薬を信じ、
 弁護士が弁護人の言う事を信じる

 音楽家が自分の音楽を楽しみ、素晴らしいと自負し
 
 そうでなくてはプロではない、かの観念。
 それは単に「お金」を貰う事に対する言い訳ではないか
 
 自分を騙して もしくは素直に、もしくは回りに倣って
 騙されて、自分をプロと思い込んで

 「全てが嘘」とは言わないが、信じ切って与える事
 その方が「詐欺」ではないのか
 上級の「詐欺師」は自分が「嘘」を付いている自覚が無いと言う。

 自分を愛せない人は人を愛せない。
 真逆だとさえ思う。
 自分を愛している人なんかに愛されたくない。
 
 音楽が好きだからプロになった
 陶芸が好きだから、演劇が好きだから。

 50年前の日本にそんなプロは殆ど居ない。
 

 「学び舎」と言う言葉が在るくせに

 「教わり処」でしかない。 
 「教えている」という自覚、責任があるから、
 「信じ切っている」
 
 「学び舎」なのだから「学ばせれば良い」
 その素材に責任を持つ事もない。

 高校の現代国語の授業で、教師を虐めた。
 夏目漱石の「こころ」の解釈を「教える」ものだから
 「解釈は色々な筈」と食い下がった。毎回彼と私の時間となってしまった。

 世の中に対する悶々とした不満をその教師にぶつけたに過ぎなかったと思う

 その事が原因では毛頭ないだろうが、その教師は年度明けて教師を辞し、医学部受験生となった。
 つい昨年、彼が関東の有名な総合病院の「医院長」として写真を見て驚いた。
 

 教師の「質が落ちた」という言葉を聞く。

 現場では驚く程の教師が悩んでいたり過大なストレスを感じている。
 「信じ切っていない」教師は排斥される。
 職員室で苛めがある。
 
 学校教育を「間違っている」と言う事は「簡単」で「楽」である。

 私の母は、とある偉い人が「自分の子どもを通わせるべく学校が無い」
 と創始者に成った学校を出た。
 
 その学校から更に理想を追求して派生した「改革派」が創設した学校は、私の生まれ育った街にある。 
 さらにそこから派生した、更なる「改革派」が創設した学校で演奏した事もある。

 私の知る限りの中での思い込みだが、
 確かに「自由を謳歌」している。 「自分はこのままで良い」
 と思っている人しか今だ会えて居ない。その度合いは、
 「改革派」の方がより顕著に感じる。

 私は小学校の音楽の時間に
 とても大きなものを沢山学んだ様な気がする。
 
 立たされて良かった。 

 これは「合理化」ではなくて。 本気でそう思う。

   
 12月18日(火)   「流行言葉」
   日本人は昔っから「流行言葉」が好きだった。
 「変わったもの」「奇抜なもの」に「眉をひそめ」ながらも、 ちゃっかり「真似をする」のも好きだった。
 バランス感覚も良かった。 その「バランス感覚」自体を「洒落」と呼んだくらいだ。
 メイン・カルチャーとサブ・カルチャーの絶妙な応酬を楽しみながら、 日々の暮らしはコツコツと。 誰もが勤勉に真面目に一生を終えていた。

 今では「昔言葉」となった様々な言葉

 「宵越しの金は持たねぇ」
 
 居酒屋と言うよりも「角打ち」っぽい様な飲み屋で 隣の男が連れと飲んでいる「もう一件行こうじゃねえか!」
 「明日のおまんまの分残さにゃなるめぇ」 「ってやんでぇい こちとら江戸っ子だぁね..............。」 横で聞いてい居た男は 「おっ、粋な事言いやがる」と

 「あれっ? 今日は、随分しみったれてるじゃねぇかい?」
 「ってやんでぃ、武士は喰わねど高楊枝ってさ」
 「何気取ってやがる、 おめえんとこは代々◎◎じゃねぇか」

 ここが肝心

 「粋がる」「カッコ着ける」 は「粋」になってない。「カッコ付いてない」 ことが肝心。
 
 「やせ我慢」
 明日の心配や保身はもっとみっともない。 みっともない事はしない。 カッコ付いてないけど、ツッパる。

 
 そもそも「流行言葉」は、「人の言葉」の拝借
 これは言う者も聞く者も周知の事。 「流行歌舞伎の名台詞」などを拝借して
 「おっ! この野郎、随分洒落た事ぬかすじゃねぇか」
 と楽しんだ。

 
 インド音楽にもアラブ音楽にもある。 
 演る側も、聴く側も「出所」を知っていたから「洒落」になる。

 インドでもアラブでもそういう演奏者も聴衆も殆ど居なく成った。

 最近の日本の流行言葉。
 マスコミ煽動の「流行語」は別として、 日常的な「真似言葉」
 
 まるで、自分の言葉の様。 まるで「常識的」「普通の言葉」の様に発して恥じない。
 「出所」も分からなければ、「洒落感覚」も分かっていない。 「便利」「都合が良い」「考えなくて済む」「通じ易い」 「心を込めなくて良い」「心が見透かされなくて助かる」

 今迄にも日記に書いた。 「嫌いな言葉」

 「音楽は国境のない言語」とか、

 「たった一回の人生だから」は、

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=575595426&owner_id=327576

 「○○○○......................それだけです」は、

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=583550158&owner_id=327576&org_id=582852408

 「ニュアンスの違い」も何処かに書いた。

 最近聞いたという事ではないけれど、
 ふと想い出した、ゾワっとする嫌な言葉

 
 「出来る事ならなんでもするから、なんでも言ってよ! その代わり出来ない時は、出来ない!って言うから」

 なんじゃそりゃ。 と思う。

 「何処が何でもや!」

 
 その昔の「流行言葉」には
 「楽」「安心」「保身」は「みっともない」という精神が漲っていた。
 「やせ我慢」「無理」「無茶」「見栄っ張り」「ハッタリ」

 それが、今じゃ、
 「自分が楽に成るため」の「都合の良い言葉」が流行っている。
 しかも「パクリ」なのに「自分の言葉の様に」
 他でも使われている「認知されている」事を上手く盾にして。

 
 あっ! また一つ「嫌いな言葉」を想い出した。

 「男は黙って勝負する」

 黙ってたら何考えてたか分からん。 
 後で何とでも言える。 

 「有言実行」の方が、根性要るゾ。 

 「言い訳」したって良い。
 「言い逃れ」じゃなくて、「言った分」再挑戦しなきゃならないなら。

 また、ひとつ

 「言葉の遊びは嫌い」

 言葉を知らない輩の「常套句」

 遊び好きなクセに 不思議な話だ。

 遊んでばかり居て、頭を使わないから「言葉」の違いが分からない。
 で「ニュアンス」などという好都合な言葉を愛用する。

 
 ちなみに、何度も書いたけれど、念を押して、
 「誰か」の事を言っているのではありません。
 僕の回りの、知人だったり、喫茶店の隣の知らない人だったり。
 

   
 12月19日(水)   「言葉遊び」
    昨日の日記に

 「言葉の遊びは嫌い」
 言葉を知らない輩の「常套句」
 遊び好きなクセに 不思議な話だ。
 遊んでばかり居て、頭を使わないから「言葉」の違いが分からない。
 で「ニュアンス」などという好都合な言葉を愛用する。

 と書きました。

 「遊び」の定義、をしないで議論するのは危険ですから、
 今は深くは取り上げません。

 でも、昨日、今日。
 「言い方の問題」とか「ニュアンスの問題」
 ではぐらかされることや、
 「言葉の選び方で相手の受け取り方、感情が変わる」
 と昔からの難題を考えさせられる事が多い不思議な日々です。

 結論としては、
 「遊び」を「自在に楽しく操れる」と「仮に定義」
 するならば、「言葉の遊び」はあり得ないと思います。
 「言葉」はその人のものであると同時に「受け手のものである」
 「二人で廻す、大きな縄跳びの縄」の様なもの。
 
 もし「言葉の遊び」があるのなら、
 それは「縄」の様に「二人で楽しく廻して」
 それに沢山の人が「楽しく飛んだり、くぐったり」
 
 それに尽きると思いたいです。

 
 「ニュアンス」「言い方」で、今日の夕方、
 我が「少年の脳みそ」に去来したのが

 「花屋にしておくのが勿体ない程のガラの悪さ」 という言葉。

 「花屋さん」は「花」の健気さ、可憐さを毎日見ているけれど
 寒い冬の水仕事は辛いだろうし。売れ残って捨てるのも忍びないだろうし。
 楽な、綺麗な仕事ではないかもしれないけれど。

 それにしても「ガラが悪い」 という花屋さんが近所に居ます。
 
 
 これなど、正に俗に言う「言葉の遊び」の最たるものではないでしょうか。

 「ラーメン屋にしておくには、勿体ない程、親指が長い!」
 
 「警察官にしておくには、勿体ない程、私語が楽しそう」
 
 
 要りますか? こんなもの。

 それより、心からの言葉を遠慮なく、自由に話せる方が良いですよね。
 「選ぶ」「思い遣る」も聞き手と一緒に「縄」を廻していると思えば
 自然に、次第に、意外に早く「上達」するものです。表面的な「技術」ではなくて。

 おそらく「言葉」の難しさに悲しい想いを重ねた結果、
 「選んだり」「技術に拘ったり」「受け手の事まで考えてたら気が保たない」
 と決め込んでいる人が多い様です。

 「縄の向こう側」をちゃっんと持って貰ってないのに「発した」からではないでしょうか?
 もちろん、ちゃんと渡したのに、振り回した途端に「手を離す」様な人。
 縄が揺れて、地面の砂利を飛ばした途端に「手を離して逃げる」様な人も居ます。
 でも、それは問題外。 
 でも、初めっから大きく振り過ぎるのも良くない。
  
 人は、自分の「言葉」が思いの他「傷つけていること」
 思いの他「つけあがらせていること」を分かりにくいけれど。

 「心の縄」は、どちらのものでもないですから。

   
 12月19日(水)    「口より先に手が出る」
   その昔「この太鼓で喋った」と言われる、西アフリカのトーキング・ドラム
 の一種「ルナ」におでこを殴られた。 プリンが無茶に棚に飛び乗る際、太鼓に足を掛けたらしい。 真下に居た私のおでこに直撃した。数十年振りに「たんこぶ」を作った。 三日経つけれど。 まだ痛いし、腫れている。

 私の両親もそうだったけれど、
 「口より先に手が出る」 という人は多かった。
 
 「叱る」に「怒る」が加わってしまうのは、 教育上良くないのかもしれないが、 それほどに「情に厚い」時代だった様にも想う。
 今では、我が子でも下手に叩けないし、 学校では尚のこと。
 その代わりに「怒り」が内在している様にも想える。
 冷酷、冷淡に。

 言葉の暴力に至っては遠慮が無い。
 相手は血も出せねば、たんこぶも作らないから罪悪感すらないのだろう。

 
 昆虫飼育の再開を夢見て、膨大な飼育用具を梱包した。
 「捨てて買い直す」か「九州に送るか」緻密に計算してみた。
 武蔵野市では、押し入れ用コンテナ五個捨てるのに 「粗大ゴミ費用」が¥1000掛かる。
 送料と同じ。という結論が出た。 ならば、焼却してCo2を出さぬ方が良いに決まっている。

 時間と痛めた肩、腰を駆使してこの三日、冷蔵庫20個分程の荷物を梱包した。
 段ボールを貰いに「百円ショップ」に行って驚愕した。100円ショップの筈が、¥300、¥450、¥600が当たり前。なんとそれらは「プラスティック製品」 「原油の値上げ」が理由だそうだ。思いの他、急速に変化が訪れている。

 大小100個程のプラスティック容器。 皮肉な一財産かもしれない。

 その昔、親にしても、教師にしても「情」と「熱意」と「想い」が「手を出させた」
  それが禁じられた今日 、言葉が暴力を振るう。
が、その「言葉」も、論理性も無ければ、とげとげしいだけのもの。それでも、懲りない者同士は、 その内「手が出て来る」のだろうか?

 もっと卑劣なことをし始めるのだろうか。

   
 12月20日(木)   「傾く(かぶく)」
    先日の日記に「歌舞伎」のそもそものルーツについて少し語った。
 するとしばらくして、「傾奇者」というネーミングの人の訪問があった。

 確かに「かぶき」は「傾奇」という意味であった。
 しかし「奇異」の字をわざわざ充てる迄もなかろう。その人の事を言うのではない。実際尋ね返しても、詳しくは見なかった。 

 根性は「通俗」の極みなのに「非日常的な奇異」を服飾や武器にしている輩にはうんざりだ。 否、「武器」として「戦う姿勢」があるのならまだしも。気の小さな人間の「過剰防衛」ならば批判するのも勿体ない。「そこ迄深く考えていない」というなら尚更である。
 
 私にとって「かぶき」は「傾き」でなくてはならず「傾奇」は二次的なものと考えている。
 私は「大衆」「俗衆」から見た「Kitsch」よりも「彼ら」が「世の中を傾いて見ていたこと」に日本人の根底にある「Avant-Garde(へそまがり)」の根性を見たいからである。

 計らずとも、日本人の「お上」というものは、世界で稀に見る名プロデューサーである。
「お国カブキ」を禁じ「女郎カブキ」を禁じ「若衆カブキ」を禁じ。
 禁じれば次々に新たな工夫で芸幅を広げさせ、深みを増させた。
 「豊後節」に至っては数多くの後継芸能を生み出させた。

 同じ事は、プロテスタントがブルース、ジャズを育てた様に、アメリカにも在れば、オスマントルコにもあるし、カスティラ王国にも、大英帝国にもあるだろう。
 が、それらの根底には「民族的」「宗教的」対立構造、差別構造があったが、日本の場合、ほぼ「単一民族」で、ほぼ「同宗教」「同文化圏」であるからユニークだ。

 そんな日本人が、ほぼ鎖国時代にあれほど豊かな文化・芸術を創作したにも拘らず、
それらをかなぐり捨てて、ポップを追求した理由が分からない。
 
 命を落とし、土地を奪われ、墓を失った人々に叱られる事を覚悟に言えば「文化を失ったこと」が「敗戦」の決定的な結果だった。

 それでも、ほんの10年程前迄は、まだまだ日本に「日本」は在った。
 私が店をやっている頃は「外米」も「スパイス」の多くも「輸入不可能」だった。
 ハラールミートでさえ湾岸に一件の問屋に買いに行かざるを得なかった。
 
 それが、近々「国産米」も無くなる日が来るだろう。 味噌も輸入品。
 豆腐も。納豆も。

 「自由」の怖さを知らない愚かさ。

 「不自由」がどれほど素晴らしい芸術を作り出していたか。
 
 何処も彼処も似たり寄ったりでは「傾いて見る」までもない世の中だ。

 否、そんな時代だからこそ「Avant-Garde(へそまがり)」の見せ所かもしれない。

 ごくごく普通の ありきたりの中に。 普通人の不気味さや狂気とは根本的に異なる、
 真の「Avant-Garde(へそまがり)」

 それは「惚けない事」「騙されない事」「負けない事」