考えた事  2007年 12月 -2-
日々の暮らしで想った事 / 世の中社会に想う事 / 心や人間について / 生きること


 心や人間について                                 

 
 
 
 
 
 
 
 

 生きること                                    

 
 
 

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 心や人間について                               


 12月5日(水)   「依存症」
    いよいよ、吉祥寺の借家の期限が春に迫って来ました。
 猫さん安住の家。大量のレコード、文献、楽器資料。 関東での活動の為の楽器の置き場。
 逆算すれば今日もとっくに「不眠不休」の筈。

 溜まりに溜まった書類を必要事項だけでもPCに入れる事を始めました。
 写真のスキャニングは今回もやり切る時間がなさそうです。

 それにしても「物が多過ぎ」

 はい! 紛れも無く「物依存症」だと思います。
 人一倍、我が儘で、寂しがり屋なのだと思います。

 感謝が足りない訳ではないのですが、
 きっと親にもたっぷり愛されて来たのでしょうけど。
 欲張りだから「足りない」と思っているのか。

 しかし、その母親も父親も、かなりの「依存症」でした。
 父親は「鳥類」に興味を持つや、30坪程の「禽舍」二戸に数十種の野鳥を飼い、
 キンケイ、ギンケイから孔雀まで居ましたし。

 母親は、お菓子の包み紙も丸めて保存して「捨てられない」人でした。
 父の父は、上海支店長時代に中国家具を運んで来ちゃった人ですし、
 母の両親も豪邸に数十年分の「意味不明」の財産が溜まって居ました。

 母の「馬人形コレクション」叔父の形見の「河童人形コレクション」
 と比べれば、私の集めた楽器は日々使っている物で、あまり使わない管楽器は、皮肉にも場所を取りません。

 「捨てる」という事は「要らなく成った」ということばかりでもなく。

 何かと何かを選んだ時に「やむなく択一」する場合もあります。
 保管場所が一つしかない。 そこに二つあれば「割愛」せねばならない。

 お客さんに頂いた楽器も沢山あります。
 場所が無いからでもなく「使ってあげないと可哀想」「若林さんなら託せる」
 「より良い場所へ」という考えもあり、その深みに触れる光栄を得ました。

 その意味では「捨てられない」は極めて「贅沢」で「我が儘」な事です。
 人が興味を持ってない時代に始めたとは言え、あまりに未計画。
 東京で平均20万円の家賃を25年。楽器の保管の為だけ。 家が建ってましたね、きっと。

 でも、

 「捨てる」ことも簡単になった様な気がします。

 あまり深く考えずに「捨てる」
 そもそも「要る」「要らない」に対しての「気持ち」も浅い。

 この気持ち。 「愛着」「執着」
 度が過ぎれば「物欲」「依存」「執着」
 軽すぎれば「浅い関係」「軽い付き合い」「存在感の希薄さ」

 真ん中で「程良い関係」で居られたら良いのですが、
 つくづく「スタンダード」が見えなくなった時代だなと思います。

 右に居る人からは「左」に見え、左の人からは「右」に見え。

 結局はそんな「相対論」なんですが、
 人の「興味」の浅さ。「人と人の付き合い方の浅さ」
 沢山見て来た様に思います。

 所詮は「そんな程度の必要性」だったということなのでしょうけど。

 「必要」に気付かない場合もとても多くて、勿体ない。
 薄々気付いているのに「楽」を取るは憤りも感じます。

 
 とは言え「物が多すぎる」

   
 12月9日(日)   「個体差」
   あらゆる生き物は、個体差がある。

 「当たり前じゃないか!」と言う方は、数百頭の昆虫を飼育してみてから言って貰いたい。
 私が飼育していた世界百数種のクワガタ、カブトムシ、カナブン、直翅目にも同じ種で個体差があった。それは主に「生命力」に起因し、思考や性格ではない。だが、行動のみならず醸し出すオーラさえもがまるで「人柄」の様に個体によって著しく異なった。

 その様な経験を経ると人間が「人柄」「個性」「性格」と言っているものの多くは「生物学的個体差」であり、「環境的影響」であり、「経験と慣習の堆積」であり、「教育的」「外的要因の影響」であり、本当の意味で「信念」「思想」「志向」「志」「心」を持ち「生き様」でそれを確立、証明しつつ、語らずとも「オーラ」で醸し出している人は、非常に稀である事が分かる。

 飲食店のメニューやショップ・カタログを選ぶ「好み」のわずかな違いを主張してみても、「流行」を追いかけ、時には行列に並び「常識」とか「定説」とか「普通」などという「まやかし」に沿って生きて居る以上、冬場の葉の陰に集まって暖を取るてんとう虫との違いは如何程のものか。

   
 12月9日(日)   「群れなくては生きていけない種」
    個体差がある事を前提に、生き物は大きく分けて「群れる種」と「群れない種」に分けられる。
 言い換えれば「群れないと生きて行けない種」「群れては生きてい行けない種」である。
 
 「群れては生きて行けない種」は、二足歩行の場合自分の身長を直径、四つ足の場合半径とした最小限のテリトリーが守られていないとストレスが溜まる。「群れないと生きて行けない種」も同様な「必要最小限」の「テリトリー」が必要であるが、それは「物理的距離」「精神的距離」「年歳(世代)的距離」の三つが足すか、掛けるかして合算されて答えを出す。

 
 「物理的距離」が保たれていても、「精神的距離」が近い。すなわち「立ち入られる」「構われる」度合いが高いと「閉塞感」「圧迫感」「緊張感」を感じ。逆は「寂しさ」「疎外感」を感じる。「物理的距離」「精神的距離」がほぼ同じ場合、「年齢的距離」が離れているとその「閉塞感」「圧迫感」「緊張感」は少なく感じる。それ故「親子」の関係がなり立ったり「年上の人が好き」などの感覚が生じる。

 都会では必要最小限の「物理的距離」も保てない。核家族化が進んだ上に親子の断絶も進み、同世代、同思考・志向の者達「同類」で「群れ」れば必然的に、「精神的距離」を十分に置かなくては息苦しくなる。それが高じて来ると「精神的距離を保つ」「構われたくない」では足りなくなり「過剰防衛的」に「我が儘」「身勝手」「横柄」で「囲い」を広げなくては居られなく成る。
 電車の中でのリュックサック、イヤフォン、満員電車のゆったり座り、自転車の車道逆走などなどである。

   
  12月9日(日)   テリトリーの守り方
   「物理的距離」「精神的距離」「年歳(世代)的距離」を「保とう」という「本能的欲求」は、四つの手段で「欲求」を満たそうとする。「確保」と「防衛」「騙し」と「比較」である。

 「都会に住まない」「他人と時間をずらす」「関わらない」「関わらせない」などの手段で「確保」し。それが侵されそうになると「守り」「防衛」に取りかかる。その一方で「気休め」「気のせい」「自己暗示」などで、そのストレスを軽減させ、「気を紛らわす」「ストレス解消」「癒し」などでバランスを取ったつもりになり、他人とのささやかな比較で安心する場合もある。
 「人のフリ見て、我がフリ直さない」事が最前提である。また、「人の世話をやく」「弱き者を助ける」など、むしろ「積極的に関わる」事で「紛らわす」「逆に関わらせない」という巧妙な手段もある。

 また、似た様な「精神状態」の者を相方にしたり、集まったりして、「発言力」「行動力」はさほどでも「連帯感」「存在感」を確かめ「安心感」を得ることも「当座の誤摩化し」には有効である。
 その為には「仮想敵」も作り出し、それに対する「敵意」は遠慮がない。また「共同体」の「公約数」である「常識」「定説」「普通感覚」に反する者を徹底的に批判し、追放し、抹殺しようとする「確認作業」の冷酷さも、「比較」の一種である。この時ばかりは、メユーやカタログで「個性」を確認していた者達が、一様に「同じ感覚」「同じ価値観」を確かめ合う。
 本能的には「虐め」と同じ構造であり、この「心理的因子」は相当の自覚を持って抹殺しない限りには無くならない。「因子」を封じ込めたり他に逃がしたりするだけでは根本的な解決ではない。
  残念ながら「虐め」も「差別」も「戦争」も無くならない。

   
 12月9日(日)     防衛本能
   「確保」と「防衛」「騙し」と「比較」の「手段」を心理学の専門家は「代替戦略」と言う。

  「テリトリー」を守る為の「物理的距離」「精神的距離」「年歳(世代)的距離」の最小限は様々な状況によって変化する。友人、恋人、夫婦などによってペアとなった場合や、グループ、組織、団体となった場合、「安心」の為の「代替戦略」によって、実は「互いにテリトリーを侵害し合っている」訳だが、その分その「欲求」は「外に向けて」放たれ、強引に「勝ち取られる」
 もし「必要最小限の距離」というものがあるとして、ペアになれば「二倍」より多く、グループになれば人数分より多くなる。

 アフリカの水場に恐々と群れる「草食動物」の様な健気な「おしくらまんじゅう」状態では居られないところに、人間の「高慢さ」「強引さ」「凶暴性」があり、それは個人より「群れる」事によって増大して行く。

  
 「代替戦略」の他に、人間は、巧妙な「武装本能」を持っている。
 一戸の家には「囲い」「垣根」がある。 
 つい十年程前の「ブロック塀」には「近隣に異常を気付いて貰い、助け合う為」の小窓が在ったが、最近ではほとんど埋められている。

 その昔の集落は「全体を囲う」大きな「垣根」があり、「城壁」もその類いである。
 「万里の長城」の様な物も作る事がなくなった代わりに、近代エレクトロニクスによって守られている。レーダー、人工衛星カメラ、ミサイル迎撃システム。etc........。

 
 これらは、いずれも「物理的距離」を「群れ」の為に取る手段であるが、個々の人間は、「精神的距離」を様々な「囲い」「垣根」「バリアー」で守っている。

 かつて「理論武装」という言葉があったが、最近では聞かれない。「理論」を構築している暇もなければ、学ぶ事も怠り、考えずに得られる「盾」「鎧」の方が「楽」であり「安直」である。

 「特技」「技術」「経済力」「知識」「見栄え」

   
 12月12日(水)    「酸っぱい葡萄」
    イソップの話を久しぶりに聞いて、面白かった。

 狐が葡萄を取ろうとして飛ぶ跳ねるが、届かない
 狐は「ふん、どうせあの葡萄は酸っぱくてまずいに違いない」
 と言って去って行く。

 学術的には「(自己防衛機制の中の)合理化」と言うそうだ。

 そう思える事、それが出来る事が、羨ましい。
 
 「どうせあいつはその程度の奴だったんだよ」
 と思えない。

 勿体ない。悔しい。 
 何故、そんな勘違いをしているのだろう 何故気付かないのだろう。
 
 慕う人も居れば、それなりのキャリアもあると言うのに。

   

 12月13日(木)    素敵な話
    「素敵な話」を聞いた

 「人と言う字は、二本の線がもたれ掛かり、支えて成り立っている。だから、人は一人では生きて行けないし、助け合って生きて行くのだ」

 この言葉を初めて聞いた時、背筋がゾワっとする程の「違和感」を覚えた。

 その言葉も含む、甘い含蓄で1000人もの聴衆を「うっとりさせる」タレントさんとお仕事をした。
 リハーサルの会場で、彼からは何のオーラも感じなかった。
 そこに居たのは「自分の居場所を探す」気の小さな男だった。
彼はもの凄いスピードで「自分の為に座布団を差し出す者」「自分より目立つかも知れない者」を共演者とスタッフの中で「嗅ぎ分けていた」。オーラは出さねど、人のそれは敏感に感じるらしい。それは感心する程の「才能」であった。

 突然、大ホールの中程から、かなり離れた私の方を振り返った。 そして一瞬私を睨みつけたと思ったら。「憧憬の眼差し」で彼を包むその「輪」の中にまた戻って行った。彼は「瞬間」に私を見切ったのであろう。

 私もその瞬間に「ああ、今回のお仕事もお金しにかならなかった」と理解した。

 それ以後「違和感」は「嫌悪感」に変わった。

 「素敵な話」はそれから10年してやっと先日聞く事が出来た。

 「『人と言う字は、二本の線(人)がもたれ掛かり、支えて成り立っている。だから、人は一人では生きて行けないし、助け合って生きて行くのだ』なんて、冗談じゃない! 一方が転けたら、もう一方も倒れちゃうじゃないですか! 人は一人一人しっかり自立してこそ助け合えるんです。」

 嬉しかった。

 「もたれ掛かり」の話を初めて聞いた時、悲しかった。

 私は「人」と言う字は、「前へ前へ歩いて行くひとりの姿」を表していると思っていたから。

   
  12月14日(金)  「心の種」
   
 心というものは「ひとつ」だと思っている人は多い。
 私は昨年の今頃の日記に「心は袋」と書いた。
 その底には「篩」があり、それを通して様々なものが「壁」にしみ込む。

 素敵な話を聞いて嬉しかった。
 「人は、他人と接する前に、自分という他人と接している」
 「自分という他人と上手く付き合える人は、他の人とも上手く付き合える」
 
 しかしながら、「自分の事が良く分かっていない」人は多い。
 他人と照らし合わせて分かろうとする人 安心、安住の地を求めて彷徨う人
 
 それらの苦労を解消してくれる話を聞いた。
 「人はだれでも、心の中にあらゆる種類の種を持っている」
 すなわち「山の人」にも「川の人」にも「森の人」にも
 誰にでも成れる「種」を持っている。

 その話を聞いて、私が言った「心は袋」と同じだと思った。
 「袋」は「畑」の様なもの。
 あらゆる種が「雑草」の様にボウボウ生えまくったら、その人は大変だろう。
 何かを選んで幾つかを「栽培」する。

 一つが枯れ掛かっても、他があるかもしれない。

 「えっ!あの人にそんな一面が?!」と言う事があっても当然なのだ。

 そんな「一面」で人を「好きになったり」「嫌いになったり」
 それは「心」が機能していない。 「作物批判」してどうするのか?

 「ああ、あの人は耕すのをサボってばかりだから、背高泡立ち草」ばかりだね」
 そう思ってみれば良い。 

 「人は変わらない」と痛感の年月であった。
 たしかに「今日からキャベツ畑を撤廃して麦畑」という訳にはいかないだろう。
 

 「人それぞれ」と言う言葉が嫌いで、抵抗し続けている。
 「それぞれ」ではなく「いろいろ」であって欲しい。

 「人間は人間が思っている、理解しているよりも遥かに複雑、壮大である」
 それを聞いて納得した。
 
 「種」の種類は数千もあるかもしれない。

 「根菜類」だけを耕す人。「稲作」専門の人
 何処かの県では「レタス御殿」が在ると言う。
 昨今では「ハーブ」「有機農法」「中国野菜」も良い商売に成っているだろう。

 「アンテナを張り巡らせて」も嫌いな言葉
 「どの種を植えたら商売になるか」を察する力が強いだけ。
 と言うよりも、「大切な事」をしないで、キョロキョロしていれば、たいがいの人が「察する」事が出来るだろう程度の事である。意図して訓練すれば「磨かれる」事もあるし、人生に何回かそんな感覚が際立つ時もある。「精神的な繁殖期」の様なものだ。

 「何をどう植えるか?」
 賑やかな畑にも出来る。 一つの収穫の時には、別なものが植えられるかもしれない。
 季節が変わっても「何時も何かが育って居る」

 人の真似をして売れるものばかり植えて、
 囲いや垣根を作る事にばかり気を注いで。

 早く育つ様に 薬を使う 害虫にやられない様に 薬を使う。
 機械を使ってマニュアル通りに耕す。

 人は誰もが、様々な「種」を持っていて、
 どれをどの様に耕すか、 それこそが「自由」に決められるのに。

 
 シチリアの大好きな歌に
 「俺の畑には何も生えない」がある。塩に侵され作物が植えられない。
 僕の中では世界で一番悲しい歌。 でもそれを歌える人間が居た。

 今は無き山古志村の畑を耕す、直角に腰の曲がったご老人。
 きっと日本一早く曲がってしまうのだろうと思う程の段々畑

 「心の畑」はそんな過酷な畑じゃない
 もちろん、生まれ育ち、幼児体験、教育、教養の為せるものは大きい
 時に過酷に、残酷に。

 でも、イラクの南部では2000年の昔から「塩抜き」が行われている。
 山間には「段々畑」も作られる。

 土壌はあなた次第で変えられる
 作物も自由に育てられる。

 それこそが「本当」の「唯一」の「自由」

   
  12月14日(金)   病気になれない
    ある友人が「若林さんの様な人が一番危険」
 「ふっと気を緩めたときが怖い」と言いました。
 その人が「心の病」に悩まされる直前の状態に似ているから。

 楽器を色々弾いているお陰で「肩の力」はかなり昔から抜けています。
 「手首」も柔らかい。 
 何よりも「緩急自在」の音楽。 譜面(マニュアル)に頼らない「即興演奏」
 ソロでも演れるし、アンサンブルも出来る。
 10数人の合奏の中の弦楽器の一本の音のズレも聞こえる。
 「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」どちらも良く分かる。
 今は「木を見る」「森を見る」時も良く分かる。

 何よりも、楽器の演奏は「力を入れるタイミング」「その瞬間のスピード」
 「音の大きさ豊かさは力じゃない」「むしろ力を抜いている時間の方が多い」
 
 と、音楽からこれだけ学んでいますから、
 そう易々と「折れはしないだろう」
 我ながら数々の挫折を「良く乗り越えて来たものだ」と思い、そこそこ自分を「信用」しています。
 が、「良く成った」「楽になった」時が「怖い」と言われると、
 ちょっと「想定外」「未体験」なので、「うっ!」と思ってしまいました。

 ところが、先日運命的な出逢いで、一気に親友のレベルに達した精神科医さんが、
 「若林さんは病気に成りたくても成れない」とおっしゃった。

 嬉しい様な悲しい様な

 結局「頑張るしか無いの?」「だれも労ってくれないの?」「看病してもらえないの?」

 
 遺伝とか、内科的な原因でその質がある方もなれない。
 逆に、医学的に健康な人がなってしまう。

 「外的要因」「外的刺激」から「自分を守る」

 「不眠」とか「胃潰瘍」で「注意信号が出る」とおっしゃるので、
 10年前「六つもクレーターが出来ました」と言いました。
 ならば私も「なれる」筈。 

 クアラルンプールの夕方のラッシュ時に、タクシーに乗っていられなくて
 意味も無く降り、路上で「くの字」の悶絶をうった辛さは随分昔に思えます。

 でも、思い返してみれば、10年前、状況はむしろ「最盛期」
 生徒数が120名を越え、20年間で一瞬「黒字」に成った頃。
 おそらく「守り」の気持ちが生じた珍しい時期だったんでしょう。
 「守ると壊れる」
 自分を守るのではなく、仕事、状態を守らんとしただけで、穴が開く。

 困ったものです。 「じゃあ回りが守ってちょ!」

 数々の矛盾、不条理を見ないフリをして「自分の心を封じて」
 それがいけなかったのでしょう。

 「自分を守る人」に共通している特徴は、
 「一つ許す」と「また一つ許されたく成る」
 「一つ我慢が出来ない」と「また一つ不満が増える」

 一つ気になると「あれもこれも気になる」様な。
 基本的に「真面目」で「完成レベル」の「意識が高い」
 「プライド」も高く「自己批判」も厳しい賢い人。

 いい加減で、呑気で、のんびりさんには少ないのでしょう。
 「のんびり」「ゆっくり」を口に出す人は危険かも。
 本当にストレスを貯めない「本物ののんびりさん」は
 口に出すどころか、本人は至って「一生懸命」だったりします。
 
 これは意外にも血液型気質とは関係ありません。
 O型がのんびり、B型がマイペースだから「成りにくい」
 は意外に逆だったり。
 
 いずれにしても、全てが「外的要因」のせいですから
 本人の努力ではなかなか解決しない。
 じゃあ「全てをポジティヴに考えれば良い」か? 
 と言うとそうでもなく、むしろ逆。 
 その「考え直し」は、ある種のストレスを別なものに置き換えた応急処置に過ぎない。
 HDに溜まるデータの量としては「変わっていない」のです。

 
 ドクターが言うには
 「若林さんは外的要因、外的刺激の全てを血、肉、エネルギーに変換してしまう」
 「良い事も悪い事も」
 「だから、成れない」「成りたくても成れない」

 のだそうです。

 結構疲れてますけど................。 しょっちゅうメゲてますけど.................。

 確かに消化吸収能力が強い様です。

 そして、
 「エネルギー」を「音」や「文字」に変換して直ぐさま「発散」しているので
 直ぐまた「お腹が減る」
 すると「甘いもの」「辛いもの」「苦いもの」も結局は「美味しく頂いてしまう」
 
 その繰り返し。
 
 
 先日の「酸っぱい葡萄」の話。
 
 「葡萄を採れなかったストレス」を「どうせ酸っぱいに違いない」
 と「置き換える」「合理化」の作業。

 ある人に「きついこと」を言われた。 「嫌な事をされた」
 それを「きっとこれも自分の為に神様が下さったものだろう」
 と「ポジティヴ」に考えるのも、結局は「合理化」

 「きついこと」「嫌な事」をそのまま欲する事

 先日の日記に書きました「毒が食べたい」
 身体の中の「免疫作用」とか「解毒作用」が
 「おい! 最近暇で鈍っちゃうぞ!」と文句を言う。

 物事「陰と陽」が半分ずつな訳ですから、
 「陰」を「陽」に転換して取り込んでいてはバランスが崩れます。

 「じゃあその理屈で言えば、悪い事もしないといけないの?」

 「何が悪い」「何が何、誰を傷つける」かを「学ぶため」に
 子ども〜思春期に「悪い事がしたく成る」のも人間に必要な事、
 逆にして来なかった、し足りない人は「悪気が無く出来る」

 「大人とこども」の論理を言えば、「悪事体験し足りない」を
 「こども」「幼稚」と思います。

 十分しておけば、もう悪事をする必要もない。
 それよりも「意味のある事」「世の中、地球、生き物に還元する事」
 やりたい事が沢山あれば、つまらぬ事をしている暇が無い。

 バランスが崩れると思うのなら、

 日々、一日三食も、 「命を頂いている」
 それを考えたら、バランスはどっちに傾いているのか。

   
 12月17日(月)   「道具
   一人で使っている道具がある
 自分専用の道具
 大切に使っているから長持ちしている。

 同じ道具を二人で使う
 二人共有の道具
 大切に想う心が倍になる筈。

 「道具は使う程に良く成る」と言う
 二人で使えば、倍良く成る。
 手入れも倍 よい事ずくめ

 三人で使う

 みんなで使う

 どんどん良く成る  ????

 二人で使うと、寿命は何故か半減する。

 三人以上で使うと

 何故か、あっと言う間にボロボロになる。

   
 12月18日(火)  「話し上手は聞き上手」
   「話し上手は聞き上手」と言う「格言」がある。
 私は数十年、誤解していた。
 「話し上手」は、「話す事が好きで」「よく喋る」人の事だと思っていた。 ところが「格言」通りではない。 「話しが好きな人」は自分ばかり話していて、一向に「聞き上手」なところを見せない。
 
 元々「話し下手」というより「面倒くさい」「苦手」だったが、 「良く分からない音楽」を聴いて貰う為に、何時の間にか「話しが多い」 果たして「聞き上手」かというとその自覚が無い。

 ごく最近、ほぼ二年間「聞き手」に徹した。
 決して「口を挟まない」「決して話の先を読まない」 すると面白い様に「情景」迄もが眼に浮かぶ。 かと言って「黙って聞いている」のでは、相手も「ノラない」 音楽の聴き方と似ていると気付いた。 「相づち」「合いの手」は、民族音楽に欠かせない「歓声」「かけ声」の様だ。

 「口を挟まない」は「自分の解釈、意見を言わない」であって、 分かりにくかった時は、直ぐに訊く。理解を示すべきときは示す。
 話をじっくり聞いていれば、むやみに頭を使わなくても分かる事に気付く。 面白いことに、人によって「様々」な「話の文脈」が在る事が分かる。
 
 その人の「生命力」と「気の長さ」を掛けたものが、ほぼ「文脈」の長さ この二つが「比例」していないのは意外だった。 「順列組み合わせ」的なパターンのうち、「元気がないのに気が長い」そんな人の話は、未だに上手に聞けていないかもしれない。 「話すエネルギー」より「聞き手の聞くエネルギー」を消費する人。

 自分なりの「聞き上手講座」を続けて行くうちに、相手の「語り方」も変わってくる。
 今迄「理解してくれる人」や「じっくり聞いてくれる人」に恵まれなかった人は どんどん「話し上手」に成って行く。

 「聞き方」によっても「話」が変わって来る。 話を、私流に導くのではない。
それでは「聞いている」意味がない。 話の「道先の障害物」を取り除く。「リード」ではなく「エスコート」の感覚。
  話が「横道」に逸れても構わない。  一緒に「散歩」していて、相手が道草をしたく成った。それを眺めながら、 「本道」で待って居る感じ。  「ほら!もうタンポポが咲いてるよ!」「良かったね!」
 
 
 「聞き上手講座」は必ずしも良い事づくめではない。
 世の中の人が、如何に「話し下手」「聞き下手」かを再認識し悲しくなる。
 また、単純に「何時も聞いてばかりなのに」「ホーム・ページの日記にはあんなに書いて」と、まるで「裏表」の様に浅く極解もされる。

 そして「音楽観」も大きく変わった。
 
 以前から「ノセ上手」と言われていたが、「聴き上手」になると、共演者の音が変わって来る。 「ノセル」は言わば「喋らせる」。自信が無い人に対しては「尋問」の様なものだ。
 「人前で音楽を演る以上、自信が無いなど言うな!」と叱るなかれ。 「自信が無い事」の裏腹の「虚勢」や「スキル」の武装集団が如何に多いか。
 
 「話を聞いてくれる」と安心する事は、むしろ「自信を着ける」事では得られない、素直な「素顔の」美しさがある。 そこにはブランド品も、着こなしの技も、香水もない。

 豊かな親の愛、教養、故郷の温かさや、取り巻く友の優しさを沢山吸収した心の声が聞こえる。 それはアマチュア視されている演奏者の方が遥かに豊かである。
 
 それ以前に「自他共に認めるプロ」の類いは、 「話し好き」であって「話し上手」ではない。 ましてや「聞き上手」など 殆ど皆無。

  特に最近の日本は。 

 「音楽が好き」というのが伝わって来るならまだしも、 「自分が好き」が前面、全面。 
そして、膨大に増殖した「自分が好き」という人々に 殆ど無意識に「感覚的」に好まれている。 「殆ど無意識に感覚的」を、彼らは「感性」と呼んでいる。

 
 「話し上手は聞き上手」と言う「格言」がある。
 
 「話し上手」は、「話す事が好きで」「よく喋る」人の事だと思っていたが、
 それでは「まんま」

 「格言」になっていない。 

 「話し上手は聞き上手」「話のなんたるかを知っている」

   
 12月20日(木) 「傾く(かたむく)」
    12月2日(日)のアクロス福岡での子ども達へのイベント。
 温かな人形劇と朗読の間に、アフリカの歌と楽器を紹介した。

 弁当箱大の「親指ピアノ」を立てて弾くと、客席からはどう弾いているか分からない。子どもの一人を呼んで見せて「みんなにどう弾いているか教えて上げて!」と言った。

 可愛らしい子ども達は一所懸命「自分の言葉」で伝えようとした。
 ひとり、言葉が出て来ない子が居て、首を左肩に触れそうな程「傾けた」

 私が「あらら、そんなに左に傾いちゃったの?」と言うと
 その子は、ぐぐぐっと首を右肩に触れそうな程「傾けた」

 その仕草の可愛らしさと、洒落の分かる聡明さに会場は大爆笑。

 思えば、我が家のワンコ千恵ちゃんも、よく「傾く」
 猫さん達も、ワンコ程ではないが、「答えにつまると」傾く。
 
 ワンコは「話が分かりにくい時」に「傾く」が
 猫さんは「答えにつまる」と傾く。

 本能的なものなのだろう。

 傾く事によって、一時的に「左脳」か「右脳」に血流を集めて、
 「論理」か「直感」のどちらかで判断しようとしている。

 まあ、科学的、医学的根拠はさておき。

 世の中を「訝しく」思った時には、
 「首を傾けて」見直してみるのも良い。

 あまりに真面目に真っすぐばかり見ていると

 面白いものも見逃すし。
 騙されている事にも気付かない。

 「信じること」も「素直さ」「謙虚さ」だけれど、
 「疑うこと」も「素直さ」であること。

 しばし忘れてしまいがち。

   
 12月20日(木) 「地球の声」を聞け!
    地球の声を聞け
 「地球という生き物」に脳があるのなら、
 それは、私たち「人間という細胞」にメッセージを送っている筈だ。
 その声を聞けば、私たち「人間という細胞」は「活性化」元気に成れる。

 そして「何をどうすべき」か分かる筈だ。

 地球の声を聞く努力をしていると
 「地球という生き物」の様々な臓器から出るホルモンの情報を受け取れる
 「地球という生き物」の仲間の生き物からも、私たち「人間という細胞」の仲間からも

 海からのメッセージ 山からのメッセージ 

 河から  森から  湖から
 空から  雲から  月から 太陽から
 小鳥から 昆虫から 

 
 自分が「地球という生き物」の「脳みそ」だと思い込んでいる者達
 その者の真意は分からない どれほどの力かも分からない
 そもそも居るのかも分からないけれど

 彼らが出すメッセージを聞いてはならない
 聞き易くても 聞いてはならない
 耳に優しかろうが 気分が良く成ろうが

 彼らが出すホルモンの様な情報
 面白そうでも 受けてはならない
 楽しそうでも 受けてはならない

 

 (注釈)
 迷惑メールと同じですね。
 開けては成らない 受けてもいけない
 肝心なメッセージは間違ったBOXに入ってませんか?

   
 12月20日(木) 「好き、愛しい、慈しい」
    「好き」
 一方的であっても、とにかく「好き」
 人や生き物や物ばかりじゃなくても
 景色や言葉や文化、芸術
 自分ひとりのものじゃなくても

 なんでか良く分からなくても
 とにかく好きだったりする。

 「愛しい」
 一方的であっても、深く感じる
 何かを捧げたくもなったり
 役に立ちたいと思ったり
 失いたくないと思ったり
 自分ひとりのものじゃなくても

 なんでか良く分からなくても
 とにかく愛しかったりする。

 
 「慈しい」
 一方的であっても、深く想う
 心の言葉を捧げたくなったり
 心の掌で撫でたくなったり
 代わってあげたいと思ったり
 そこに在って欲しいと思う

 なんでか良く分からなくても
 とにかく慈しみの心が湧いたりする。 

 「好き」は何時の間にか「嫌い」にもなる
 それほどじゃなくなる時もある
 「愛しい」は「切なく」なる時もある
 「悔しさ」「虚しさ」も連れて来る

 「慈しみ」の心が変わらないならば
 そこにわずかに自分が居る
 変わらない自分がきっと居る

   
 12月20日(木) 上手に自分を好きになろう!
    上手に自分を好きになろう
 人の言葉を借りても良いし
 人の助けを借りても良い

 そのうち自分の言葉に替えて
 そのうち自分で一人で立って
 たった一人の自分になろう

 どれも皆そっくりな
 小豆の一粒かもしれないけれど
 小豆も意外と高価だし

 上手という事は丁寧ということ
 人に倣って人に合わせて
 人の言葉に自分を映して
 
 自分は一体どの小豆?
 外から見てたら分からない
 自分だけが自分になれる

 アナタの力が必要だから
 才能もきっと沢山あるから
 早く自分に戻って欲しい

 人の言葉に自分を映す
 何時でも人のせいにする
 映したい時だけ映すのに

 自分が何時も分からない
 鏡は逆に動くから
 自分で自分を分からなくする
 
 手本は手本、見本は見本
 アナタの歴史はアナタが綴る
 自分でやれば上手に出来る

   
 12月21日(金)  「人の心」
    石の様な心
 それは重くて、しっかりしていて揺らぎない
 安定していて、安心出来て、頼もしい。

 飛ばされそうになった時
 流されそうになった時に、
 重しや錨の役目をしてくれる

 くたびれた時は腰掛けに
 遠くに行った時は目印に
 大事な物を下に隠せる

 しまって置きたい物の蓋の重し。
 敵や盗人も怖くない。

 水の様な心
 それは清くて、爽やかで、心も身体も潤してくれる
 熱く成ったり、冷たく成ったり、忙しいけど

 頑張りたい時も、休みたい時も
 無理している時も、のんびりの時も
 どんな形にも合わせてくれる

 忘れたい事や、悲しい事、恥ずかしい事や、嫌な事
 汚れたものは洗い流し、
 何時でも乾きを押さえてくれる。

 生きて行く上で欠かせない
 喉のつかえも治してくれる。

 
 空気の様な心
 それは形にみえないけれど、何時も側に居てくれる。
 乾いてみたり、湿ってみたり、時の流れを教えてくれる。
 
 何時もは殆ど気付かないけど、
 抱きしめたくても捕まえられないけど
 何時でも必ず居てくれる。

 香りを運ぶ風になったり、噂を運ぶ風になったり
 遠く離れた想いにさえも、狭い隙間に隠れるものにも
 どんな処にも届いてくれる。

 有り難さには気付きにくいけど
 雰囲気、ゆとり、和み、間合い、距離感。

 光の様な心
 まばゆいばかりの素敵な心、思わず笑顔が誘われる。
 淀んだ気持ちを明るくし、温ため元気に活き返す

 暗く不安な迷い道では
 行く先、足下照らしてくれる
 歩むべき道を教えてくれる。

 雨上がりの水滴や、木々の枝葉の木漏れ陽や
 雲の切れ間の閃光や、空を彩る夕陽や朝焼け
 生きる喜びを教えてくれる、

 光に包まれ委ねていると、身体の中迄暖まり
 光が笑顔を作り出し、また誰かの笑顔を誘う。

 

 でも、もしあなたが逃げたい時
 石の心は荷物になる。
 水の心も荷物になる。

 もう、戻って来ないなら
 石の心は忘れましょう
 戻って来ても見つからない。苔にまみれて見つからない。

 もう、戻って来ないなら、
 水の心は忘れましょう
 乾いてしまって、見つからない。

 でも、もしあなたが隠れたい時
 石の心は盾になり、重い扉になるけれど
 
 水の心は容赦なく、隙間からあなたを見つけるでしょう。
 空気の心も容赦なく、隙間風と成り見つけるでしょう。

 光の心を遮って、隠れてじっとしていても、
 そこは悲しい暗黒の場所。

 でも、もしあなたが偽りたい時
 石の心は役には立たぬ
 水の心も役には立たぬ
 空気の心、風の心は
 化粧も香水も飛ばしてしまう。

 光の心はあなたを照らし、
 偽りの色を褪せさせる
 偽りの心を晒してしまう。

 でも、もしあなたが怠けたい時
 石の心は枕にもなる。
 空気の心も優しく撫でる

 光の心は容赦なく、あなたの瞼をこじ開ける
 水の心も容赦なく、あなたの眠気を洗い流す。

   
 12月21日(金) 「キャパシティー」
    自分を愛し、労り、慰める心
 親を愛し、先祖を想う心
 兄弟を愛し、親戚を想う心
 子どもを愛し、育てる心
 友人を愛し、大切にする心

 子ども達を支え、守ろうとする心
 先輩に学び、敬う心
 お年寄りに学び、労る心
 他人に配慮し、譲る心

 自然を愛し、生き物を愛する心
 季節を感じ感謝する心
 時間を感じ、大切にする心
 物を活用し、大切にする心
 言葉を活用し、大切にする心
 文字を活用し、大切にする心

 芸術を愛好し、豊かになる心
 物を造り出し、豊かになる心

 社会に感謝し貢献する心
 祖国を愛し、貢献する心
 世界を学び、貢献する心

 弱者に気付き、救おうとする心 
 公共物に感謝し大切にあつかう心
 社会的義務を学び、責務を負う心
 世の中の不正を暴き、訴える心

 人に押し付け楽したいと言う心
 人のせいにして楽になりたい心
 人を批判して正義を感じたい心
 人を批判して逃れたい心

 自分を卑下して悲しむ心
 自信を憂いて臆する心
 自分の居場所を求める心
 自分の存在を確かめたい心

 自分を励まし鍛える心
 知識を想いに昇華させる心
 愛を信念に替える心
 愛を力に替える心

 人を妬み羨ましく思う心
 人の真似して安心する心
 人に合わせて繕う心
 人と比べて安心する心

 未来を夢見て頑張る心
 世界を感じてふくらむ心
 未知を学んで豊になろうという心
 想い考えて明晰になろうという心
 分からない事を分かろうとする心

 見えないものを感じようとする心
 形無いものの価値を感じる心
 本物が何かを見極める心
 正しさが何かを見極める心
 自分らしさを知ろうという心

   
 12月日() 「」
   
   

 

 生きること                               

 12月10日(月)   「自由」 その1
   
 ある国の大使館に行った時の事である。
 お手洗いをお借りしたいと願い出た。 
 すると特別な部屋に、大きな立方体の棺桶の様な箱があり、
 大男が厚さが半分程の蓋を開けると内側がビロードのふさふさに覆われた
 不思議な形の。 それが「トイレ」だと言う。
 用を足している間は「蓋」が閉められて、用が済むと中からノックすれば、大男が蓋を開けてくれる仕組みなのである。

 早く用をすませたいと思ったが「用を足したいなら、右側にある聖典の一文を読め」と大男が言う。 信者ではなかった。 すると「信者でないなら、2ページ目を読んで特別な許しを受けなくてはならない」と言う。

 しかたなしに読もうとした。 
「予言者◎◎は、聖者◎◎に対して、聖典◎◎の第120章の第十五項に対してこう述べた」
 いちいちその第120章を読まなくては成らない。読み間違えると大男が指摘し注意する。
 細かな字で2ページ目だけでも大変な作業だった。
 トイレを借りるだけが大仕事で、泣きたくなった。

 

   
 今日、ほんの小1時間、昼寝をしている間に見た夢である。
 
 「夢で良かった」

 つくづく「自由」に感謝した。

 「信仰の自由」 そして
 
 「トイレに行く自由と便利さ」

 女性の場合は、公園のトイレは行けない。とかあるだろうけど。
 
 一頃の隣国の観光地の凄いトイレの話も聞いた。
 扉が無くて、背後で待つ人に丸見えとか?

 椎名誠さんのインド旅行の話のバックでシタール演奏をするお仕事が在った。
 ところがたまたまソ連帰りだった彼はインドの話からロシアの話になり、
 トイレの話になって..............「俺はなんでここでシタール弾いているのだろう」
 と思った事もある。

 「表現の自由」とか言うけれど、
 お金のため、仕事のためには我慢、無理無情もある。
 その場で「やってられん!」とステージを降りれば、そのお仕事のギャラが入らないばかりでなく、そのプロダクションからのお仕事も来なく成る。

 なかなか「自由」なるものは、手軽に手に入れ、確保出来ないものである。
 せめて得られた「自由」には感謝し、守る努力をしたいものだ。と考えた。

 単にトイレに行きたくて目が覚めた訳なのだけど。

   
 12月15日(土)   「地球」
    以前から、ひつこく(江戸弁?「しつこく」が正しいらしい)書いていること。
 私たちの身体の「細胞」を「人間などの生き物」に例えるならば、「人間」は「地球」
 「地球」を「細胞」に例えるなら、「人間」は「宇宙」

 私たち人間は、自分の身体の「細胞ひとつひとつ」の「意志」は分からない。
 と言うより「意志など無い」と思っている。

 その割には「肝臓が悲鳴を上げている」とか「頭が疲れた」とか言ったりもする。
 「心臓がドキドキ」したとか「身体の調子が悪いとか」臓器や全身の事でやっと分かるけど
 「一個一個の細胞」の「気持ち」までは分からない。

 だからきっと、地球も、私たち人間や生き物が何を考えているかは分からない。
 と言うか、私たち個々の人間やグループや社会が「何を考えているか?」
 地球の感覚から言わずとも、私たち人間でさえ分からない。
 過去を振り返えれば、説明も弁明も出来ないほど行き当たりばったりで「何を考え、どうしたいのか?」全くもって呆れる程「分からない」
 ましてや人間意外の細胞は、人間ほどに「身勝手」に住む環境を変化させたりしていない。
 まるで意志がないかのごとく、黙々と「生まれ変わり」「入れ替わる」だけである。

  私たちがああでもない、こうでもない、と言いながら、
 比べたり、けなしたり、ねたんだり、褒めたり、尊敬したりしながら
 「生まれ変わる」なり「入れ替わるなり」している様を
 「地球」は見たり、感じたりしながらも「解らない」と思っているのだろう。

 

 私たち人間の個々が、これほど迄に豊かな「感情」があるのだから、
 きっと細胞も、個々に「感情」があるのだろう。 
 私の浅学は「無い」と証明した学問を、まだ知らない。

 私たちが「意志が無い」と思っている細胞達は、
 「外的」や「異端」に対して「この野郎!」と戦っている時も在れば
 「上手くつき合って行こう」と思っている時もある。多分。 いや、きっと。 
 にも関わらず、突然「薬」が投与されたりする。

 人間は「考えても分からない事」は全て「神の意志」として来た。
 もう「十分解った」気になっているのか、「信仰心」もだいぶ薄れて来ている。 
 と、言う事は、私たちの「身体の細胞」も、わあわあ言いながら、こんな私たちを 
 「神」と思っているに違いない。

 もし個々の細胞と会話が出来たならば「神は何処に居る?」と聞くと良い。
 ある細胞は「あそこ」と言うだろう。 「神は此処に居る」と足下を差す細胞も居るかも知れない。
 人間が「神はあそこ」と天を指す者も居れば、「此処」と地を指す者が居る様に。
 山を指す者も、海を指す者も。

 「個々の細胞に感情など無い」と証明した学問は知らないけれど。
 「自分自身に念じて治す」という話は最近良く耳にする。
 私流に言えば「細胞に語りかけて治した」である。
 「手を充て、撫でて和らげた」話は大昔からある。「手当」である。
 それも「掌」を通して「細胞」に語り掛ける手段であろう。

 同様に「地球という人間」が、私たちに「語りかけた」事も少なくない。
 預言者を通したり、奇蹟を起こしたり。
 「天変地異」の多くは、日常的な「地球の生理現象」に過ぎないものが多い。
 が、「異常気象」は明らかに「病気の症状」もしくは「炎症」の様な「抵抗や反応」だ。 「警告」だなんてなまやさしい事ではない。

 人間が「個々の細胞の意志」を聞く力が無いのと同じに、地球という人間も私たち人間や生き物の意志を聞く力に疎い。
 私たちが「暴飲暴食」や「自分勝手のせいでストレスを溜め込んだり」平気で、というか好んで「毒」を取り込む様に、「地球」もしばしばお馬鹿さんである。
 故に、果ては地球を滅ぼす様な細胞を見逃し、地球の「自浄作用」「自然治癒能力」かもしれない「異常気象」で抹殺されるのは、一番弱い細胞であって、悪の巣窟ではない。

 情けない私たちでも、日々「健康であろう」と努力している。方法を間違えている事の方が多いけれど。同様に「地球という人間」も、「オゾン層」などで、日々外敵と対峙しているのだろう。その「バリアー」を壊すのが自らの「細胞」だというのだから「地球の悲しみ」を察するにあまり在る。

 「国」とか「民族」とか、これも揺らぎないものではないけれど、
 「得手不得手」があるのが面白い。というか当然である。
 温暖で豊かな所は耕作に長け、寒冷地は知恵で補い、器用な民族も在れば、古き教えを守ったり、神の声を良く聞こうとする民族も居る。
 それらは「取り込んだものから栄養を摂る臓器」「解毒をする臓器」「力を出す臓器」の「専門の違い」の様だ。
 
 人間達がしている事と言ったら、胃袋が肝臓をけなし、腎臓が脾臓を虐めている様なものだ。
「世界をリード」とか言って「自らが世界の脳みそ」と言わんばかりの国も少なくないが、「脳みそ」たるやどれほど優秀な臓器と言うのだろう。
 他の臓器は、考えずに黙々と働いている。 脳みそは、彼らの働きが在ってこそ成り立つ、言わば「お役所」「国連図書館」の様なもの。 

 さすがにここ迄来ると(か?)「そんなに考えてばかりでくたびれませんか?」という声が少なく成った。 「細胞」や「臓器」に照らさずに、「脳みそ」だけで「考えて」いたら、そりゃくたびれるだろう。それ以前に、「細胞」や「臓器」にそっぽを向かれて、調子も具合も精神もおかしく成るだろう。

 「心は何処に在る?」と問われて「胸を押さえる人」は居るが「頭を指す人」は居ない。
「心」は「全ての細胞」の「意志」なのかもしれない。
 「考える事」が「細胞の意志」を汲み取る事だったら、くたびれるどころか「活性化」するだろう。

 「沢山考えて」「沢山大声で笑って」「泣きたきゃ泣いて」「ぐっすり眠る」

 
 「美味しく食べて」「良い音楽聴いて」「良い美術見て」はそれから。

 でないと「細胞」が反乱を興すかもしれない。

   
 12月19日(水)   「皿廻し」
    昨日の日記「話し上手は聞き上手」
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=657149357&owner_id=327576

 にコメントを頂いて。
 「自分が大好き」というテーマを語ることの難しさに一日想い巡らしておりました。
 「好き」とか「愛」とかを語ることの難しさ。
 でも、コメントへのお返事にも書きましたが「人間がそのテーマに思い悩んでいる間に」
 「もっと上手に好きや愛を持っている生き物達」が犠牲になっているのも事実。

 【皿回し】 

 君は、何故 毎日毎日必死で皿を廻すのか?
 その皿だって安物じゃなかろう
 えっ? 「高価だからより意味がある」? 分からん。
 
 誰も、君の失敗を待って居る訳じゃない。
 ハラハラするのも大変なんだぜ
 えっ? どれくらい廻せば気が済むんだい?

 皿を廻すのを止めてみて
 机に皿を並べてみて、
 じっくり眺めて 一言言う。
 
 そんな芸の方が楽しいかもしれないよ。

 えっ? 「それじゃお客は集まらない」???

 そうかもね。

 ところで、君は
 「皿」が好きなのかい?  
 「皿回しの芸」が好きなのかい?

 
 何故君は「皿回し」をするのかい?

 何時迄君は「皿を廻す」つもりかい?

 「皿廻し」は答えた

 「腕が鈍らないために」
 「皿が廻せなくなるその日迄」

   
 12月19日(水)   「自分が大好き」
   「自分が大好き」という言葉を聞いて
 虐められていた小学校時代を想い出す。

 想い出す様になったのは中学生以降
 人間は都合の悪いことは「しまい込む」能力を持っている。

 虐められている「自覚」がないから大丈夫だった。
 ただ悲しかったのは、
 「仲良し」と思っていた子が、「いじめっ子のグループ」のリーダーに
 手を引っ張られて「あっち」に行ったこと。

 子ども心に「裏切られた」と思った訳じゃない。
 その子の顔が「悲しそう」だったからじゃない。
 「申し訳なさそう」な顔が悲しかった。

 「自分が大好き」という言葉はいったい、
 何時の頃から使い出したのですか?
 

 「誰しも自分が可愛い」
 手を引っ張られたあの子は、
 可哀想にあんな幼い頃にそれを思い知らされた。

 虐められるより悲しいかもしれない。
 
 その子は「そんな自分が好き」なのだろうか? 
 「可愛い」と思い知っただけかもしれない。

 「誰しも自分が可愛い」という言葉はいったい
 何時の頃、誰が言い出したのか?

 「可愛い」と言ったって「プリティー」や「キュート」じゃない。
 「愛おしい」でも「慈しい」でもない。

 「守りたい」「傷つきたくない」
 それを表す言葉は何だろう

 あの子は「自分が可愛い」のに
 なんで「申し訳ない」顔をしたのだろう。

 
 私が「虐められていたこと」に気付いたのは
 中学生の頃
 あの子達の一人に
 「あの時はごめん」と言われた時。

 彼にとって、どっちが「傷ついた」のかは
 分からない。

 「自分が大好き」という言葉はいったい、
 何時の頃から使い出したのですか?

 何故「大好き」って気付いたのですか?
 どんなところが好きですか?

   
 12月20日(木) 「慈愛」〜「地球へ」
 

 【慈愛】

 先日のBlog日記「地球」
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=654429445&owner_id=327576
 に、Blog仲間のPlutoneさんが嬉しいコメントをくれました。

 W:「白血球のように地球のために戦ってくれたり」 って何時の何の事でしたっけ?
 
 Pさん:「地球防衛軍なんちゃって。じゃなくて戦ってはいないかもしれないけど
慈しんであげたり、感謝したりのこころが地球の活力になってくれればいいなって思います。」

 「そう!」私は歓喜の声を上げました。 「白血球の役目」などは全くしていない、それどころか、悪性細胞。地球の「体内」の様々な善良な細胞を食べ尽くし、化石細胞を掘り返しては自らの「楽」「便利」の為にそれを燃やし。もの凄い勢いで増殖し、地球の健康を蝕んでいる。

 しかし、古今東西で素晴らしい人々が沢山居て、地球の素晴らしさ、大自然の素晴らしさ、そこに生きる生き物全ての素晴らしさ、尊さ、美しさを沢山語り、描き、伝えて来ました。

 「最近、無理をしているから、今日はゆっくり休もう」とか「飲み過ぎだから肝臓を休ませよう」とか「ストレスが溜まっているから辛いものは控えよう」とか、「頭が疲れたからボーっとしよう」とか、皆さん「臓器」への労りはなさいます。 
 「健康ブーム」などもありましたから、健康グッズやサプリメントも揃えてらっしゃることでしょう。 余談ですがサプリメントの中には猫さんワンコに劇薬となるものがあるそうですから、厳しくご注意下さい。誤飲で亡くされたお友達が居ます。

 また、映画や美術や楽しい音楽を鑑賞したり、のんびりTVを見たり、漫才、落語に大笑いしたりして、ストレスを解消したり、やる気を蘇らせたり、漲らせたり。「気分」への労りももう十分お上手に思います。
 先の日記に書きましたが、むしろこの50年、少なくともこの20年、世界の多くの国々で、中でも日本が最先端を行って「労り産業」がダントツの勢いで成長しています。

 「自愛」
この場合「自分が好き」という「自己愛」とは別な意味で、良い仕事をして社会に貢献するにも、自然や生き物の為にも、弱い立場、不当な立場にある人を援助する為にも、また今後その様な事に気付いたり、機会を得た時の為にも、心身ともによりベターな状況にありたいものです。

 「身体を労る」「内蔵を労る」「気分や感情を労る」「気持ちを労う」
それは誰もかなり上手です。 

 しかし「細胞」を労る事、励ます事、体中に「生気」を漲らせる事
 意外に下手くそかもしれません。

 胃潰瘍を完治させるには、数ヶ月掛かりますが、クレーターを開けるのには数時間で良いそうです。それほどに「感情」「気分」が身体に大きな影響を与えるのですから、「細胞」と「意識」の関係はきっと驚く程「密接」。

 「細胞」に語りかける事が出来たら。 きっと健康になります。
 
 きっとそれが「慈愛」なのだと思います。 

【地球に声を届けよう】

 「地球という生き物」に脳があるのなら、
 思考もあれば、心もある。
 今迄だってたくさんのメッセージが送られて来た
 天変地異や預言者を通じて。

 今「地球という生き物」は病に瀕して絶え絶えだ。
 再び元気になる様に、私たちは「言葉」を送ろう。
 
 間に合わないかもしれないけれど
 もしもう間に合わないのなら
 心を込めて「感謝」を述べよう

 そして心底お詫びを言おう
 駄目な子どもでごめんなさい。

 今から5000年程前迄は、人間達も偉かった。
 「地球という生き物」の声も心も受け取れて
 何時も感謝の心を返し、 何をすべきか分かっていた。

 何時の頃からか人間は、地球との会話を忘れてしまった。
 地球の子どもの一人として、叔父かもしれない月や星
 祖母かもしれない太陽にも 日々の挨拶さえ忘れていた。

 それでもついこの前までは、もしかしたら今この時も
 地球に心を語りかける民族も在れば人も居る

 地球について語ったり、文字を書いたり写真を撮ったり
 絵を描いたり、鑑賞したり、

 「ああ、なんて綺麗だろう」
 その一言が地球に届く。
 
 「ああ、なんて申し訳ない」
 その心も地球に届く。

 「ああ、何かをしなくちゃいけない」
 その思いも地球に届く。

 毎日地球に言葉を掛けよう
 
 海を見たら、海に向かって
 山を見たら、山に向かって 

 河へ  森へ  湖へ
 空へ  雲へ  月にも 太陽にも

 私たち「人間という細胞」の仲間や兄弟達
 小鳥や 昆虫や 木々や 動物
 
 感謝と賛美を届けよう
 そして深く謝罪しよう

 

   
 12月20日(木) そして「細胞へ」
    
 人間の身体の中の、約200種類、約60兆個の細胞は、
 腸内柔毛細胞の24時間から骨細胞の10年まで差はあれど、
 数ヶ月で入れ替わっている。

 考え方、解釈の問題と言われてしまえばそれまでだけれど、
 寿命を全うした細胞は死に、後継者に「遺伝子情報」を受け渡し
 入れ替わってその持ち場を守っている。

 その細胞達を「活性化」させる。つまり「元気付ける」のが脳から出される
 神経伝達物質。 
 外敵や自らの細胞が「悪性」に変化したものを食べてしまう免疫細胞の管轄も脳

 笑う事で免疫細胞が活性化したり、様々な「心理操作」を行うのも
 ストレスで調子が悪く成るのも「脳細胞」そのものが元気に成ったり弱ったり。
 
 「気の持ち様」とか「病は気から」というのもこのためだが、
 「地球」という「生き物」にとっては、何が「脳細胞」なのだろうか?

 激減したとは言え、未だ数百万種は居るだろう地球上の生物の中で、
 「自分が脳細胞」であると思い上がるのは人間位だろうか?

 否、もしかしたら、全ての細胞(生物)が思い上がりや勘違いの才能を秘めているかもしれない。
 「異常発生」がそうである。

 数年飼育して、その「高貴な食事」に「流石名前負けしていない」と感心した「トノサマバッタ」
 には「孤独相」と「群生相」の「相変異」があるが、個々のテリトリーが「一定の距離」で守られている、美しい緑色の気品あるバッタが、何らかの理由で「異常発生」した際に「黒色化」し「羽根が延び」通常の数百倍もも距離を飛ぶ「飛蝗」となり、田畑を喰い尽くしては、他に飛び、甚大な「蝗害」をもたらす。やがては喰う作物が無くなり、共食いを初め、自滅する。

 幼虫の時に密集していると変異するが、緑色の紙で仕切ると変異しなかったり、逆に黒い紙や鏡で仕切ると少数なのに変異する。 

 「人間には理性があるから、この話は関係あるまい」 とおっしゃるだろうか。

 そう「理性」
 今も、これからも、あると良いのだが。 個々にではなく「群生した群衆に」

 「何かの間違い」で「異常発生」した生き物は、「地球を支配」する「脳細胞」となることなく、
 「自滅」という形の末路を見る。

 これは「地球の意志」か? それとも「物の道理」か?

 イナゴは根元を齧って葉が倒れると他の葉に移るが
 「孤独相」のトノサマバッタは、一枚の稲の葉を、前足を巧みに使って、無駄無く丁寧に、食する。
 その「理性」「真面目さ」「気品」と「教養」が、群生すると失われ、狂気と化す。

 「人ごと」否、「虫ごと」と笑えるだろうか?

 
 それでも尚、人間にだけ「思想」というものがあると言うのなら、
 その「思想」が「地球上のあらゆる細胞」を元気にしなくては、脳細胞の資格はない。

 実は、人間は、その歴史の大半に於いて、非常に賢明で、勤勉で、謙虚であった。
 古代エジプトやメソポタミアの遺跡に残る以前の人間の業績や生き様を計り知る事は出来ないが
 ピラミッドの叡智を考えれば、自然や生き物と共存しながらの繁栄が在った事は言うまでもない。

 人間は、3000年から5000年、もしかしたらそれ以上の長きに渡って「優良な細胞」であったかもしれない。 それが、たかだかこの1000年。否、ある意味この50年100年に「悪性細胞」に変化した。

  それでも、20世紀位迄は「思想」を持ち、「神の意志を察しよう」という「信心」を持っていた。あらゆる学問に於いて勤勉にそれを学んでいた。
 
 しかし「20世紀最大の善意であり愚行に終わった」「社会主義」「共産主義」の挫折の後に
 「思想」と呼べる様なものは在るだろうか?

 
 「地球という生き物」の
 何処かに「脳細胞」があって、全ての細胞を活性化させる「指令」を送っている。
 様々な細胞は、様々な「臓器」を形作って「地球の生命」を維持している。
 その「臓器」は、人間や色々な生き物の住む「社会」

 「臓器」である以上、互いに「関連」し合い、共に「地球の生命」を支えている筈である。
 
 
 「脳からの指令」は、それぞれの臓器、神経系統に刺激を与えると、それぞれの「臓器」や「神経系統」は「ホルモン(情報)」を分泌し、さらに活性化しつつ、過不足をコントロールしながら「正常な状態」で「地球の健康」を維持しようとするものである。

 「社会主義」「共産主義」の無念の挫折は、二つの大きな「誤算」にあった。
 「競争心」を奪う「思想の指令」は、属する細胞から「アドレナリン」や「インスリン」などのホルモンを奪ってしまった。 その代わりに「仮想敵」を作る事によってそれらのホルモンの分泌を促したが、側面では深刻な「環境破壊」を行っていた。

 逆に「勝者」の様にみえる「資本主義社会」が席巻する現代はどうか?
 「アドレナリン」や「インスリン」ばかりが放出され、メラトニン、オキシトシンなどの「ゆとり」「和やかさ」は失われてしまった。
 この不自然なバランスを保つ為に、作為的に「甲状腺ホルモン」を分泌させたり「血糖値」を上げて
誤摩化し続けて行った。
 
 「地球の健康状態」が悪く成らない筈はない。 

 「思想」と「信仰」という「脳細胞」を失った「生き物」は、今や「自律神経」まで侵されている。
 
 そもそも「人間が脳細胞」であるという証はない。

 仮に、そうだったとしても、 近代に於いては「失格」である。
 
 「地球という生き物」の何の役に立つか分からないが、
 「一種の細胞」として慎ましく「他の細胞の健康」と「地球の命の継続」を願わずして
 あとは何をすべきというのだろうか?

 

 【細胞に心の言葉を送ろう】

  私の身体の中で生きる 60兆の細胞達よ
 300分の1mmの 約200種の細胞達よ
 
 短いものではたった一日 
 長いものでも数ヶ月
 
 文句も言わずに黙々と 休む事なく懸命に
 教えに従い堅実に   刻々と働く細胞達よ

 私の心を聞いてくれ
 アナタ達に感心し  
 その働きに感謝している
 
 随分無理も 無茶も強いたが
 無駄に働かせはしないから
 無駄に死なせはしないから

 あともう少し頑張っておくれ
 繰り返しの寿命の内には 
 きっと何かを成し遂げるから

 心が曲がった細胞達よ
 まだ居ないのかも もう居るのかも
 
 心配させた私が悪い
 心を変えた私が悪い

 アナタ達の心を聞かずに
 アナタ達の働きを忘れて
 
 心を交わすをしなかった

 だから今は、我慢して
 素直な気持ちに戻って欲しい

 きっと何かを成し遂げるから
 今はまだ 諦めないで 拗ねないで

 私の中に間借りする 1000兆個の微生物
 役に立つもの立たないもの
 
 どうか仲良く暮らしておくれ
 きっと何かを成し遂げるから

 今は長閑に暮らしておくれ

 今日から毎日話をしよう
 朝起きる時には朝陽を浴びて
 夜働いた者達には「お疲れ様」

 夜寝る時は心静かに 月のみえない曇り空でも
 空を仰いで心を繋ごう
 
 昼働いた者達には「お疲れ様」
 去り行く者には心を込めて 

 ありがとうの言葉を送ろう