考えた事
6月11日(日) 感謝の足りない幼稚さ
人は何故、絵に書いた様なつまらない事をするのでしょう。 自分の思いに忠実なあまり、毒リンゴを作っているのは自分なのに、白雪姫の様な被害者気分なのが不思議でなりません。 この数日でそんな事が三つも! 何時かこの人やらかすゾ、と思っていたらやっぱりやらかした。防ぐ手だては何も無い。自分や組織から遠ざけて置けば良かったことですが、それが出来ない性分には、我ながらほとほと困ります。 こんな性分は、なんと表現したら良いのでしょう。 町を歩いていたら毒蛇が居たとします。 自分だけ助かる? 人に伝える? 見なかった事にする? 周りに誰も居ない時、助けを呼びに行ったら見失います。 「それは「逃げた」事と変わりがない」と思ってしまう困った性分。 とりあえず、周囲にバケツか桶か、何も無ければ上着でも投げつけて、戸惑って居る間に石で重しをして封じ込められないか? と努力してしまう。 よせば良いのに籠に入れて餌迄与えて。その内毒気が抜けるんじゃないか?とか。 毒蛇も己の危険、恐怖から過剰防衛するのなら、安心して信頼感が生まれれば実は 「良い奴」なんじゃなかろうとか。 そんな事は今迄一度も無いのにまた繰り返す。 思えば蛇の方がまだまだ善良かもしれません。 何故なら動物は「生きる」為に刃を向くだけですから。 それに対して人間はややっこしい。 動物として「生きる」だけでは満足出来ずに、存在意識としても「在りたい」と思う。造形としても「在りたい」と思う。しかも、より「楽しく」「楽に」生きていたいと願い、人に好かれ、人に頼られ、人に甘え、人に頼って「在りたい」と思い、美しく、カッコ良く在りたいと願う。これら全て上辺の事なのに「当然の感覚じゃない!」と豪語して止まない。 ともすれば「当然の権利ヨ!」位平気で言う人が大多数。 「在る」という事は「居る」という事より意味が重い筈。 それは他に取り替えが利かない「貴方」だからこそ意味がある事。だから「人に頼られ」「人を頼り」と常に人次第じゃあ「在る」とは言えない。 美しく在りたいと思ってみても、カッコ良く在りたいと思ってみても、目立つ事と勘違いしてちゃ全く愚か。 逆に温和、柔和を目指してみても、根っからの頑固さ、我の強さはオーラに出ています。 鏡の前ですましてみても、ふとした瞬間にもの凄く嫌〜な顔しているかもしれませんヨ。 明るく奇麗な声や、優しい声を出していても、ふとした瞬間にもの凄く大声だったりしてませんか? 毒々しいそんな姿を悲しく見ている人が居るかもしれません。 もうそろそろ中身を代えないと、同じ事が繰り返されるばかり。 本当の貴方は、貴方が思い描いている姿より小さいかもしれない。でも、貴方が心配しているより遥かに素敵なんですよ。 でも、上手いこと弱い人を取り込んで、偽りの自信を得て、同じ事を繰り返してゆくんでしょうね。
何時何処でとは言えませんが、最近、かなりの悪人に出会いました。 「ホントに悪い奴は居るもんだ」と噂には聞いていたけど。 幸いにして今迄は、接点が殆どありませんでした。 今迄 接点が有ったのは、情報をかすめたり人脈をかすめたりする、スリ置き引きにも似た小悪人と、悪気の無い自意識過多人間か、過少人間。弱い人の過剰防衛ばかりでした。 詐欺師も私には「無駄な努力」と思うのか? モチベイションが下がるのか近づいても直ぐに居なく成っていました。その代わり、私の周りに集まる人はかなり犠牲者になってましたが.............。 民族音楽が既製の価値観と異なるものと誤解されていた時代には、自信が無いのに我が強い人達が集まっていて、詐欺師には格好の対象でした。 意外に私が当たり前の感覚である事でガッカリさせた事が、余計に詐欺師にふ〜っと惹かれて行く きっかけを作った部分もあるかも知れず、そんな時、私の忠告はむしろ逆効果でした。 この一年、急速に社会性が宿っていると評価されます。 20年も地下のライブハウスに籠り、その後も民族音楽という接点でしか社会と関わらず、演奏に行ってもトンボ帰り。それが頻繁に地方に飛び、積極的に人と関わり、社会の中心で人やお金を動かしている人との交渉事も増えて来ました。 すると今迄の「変な人」の次元を越えた凄い人にも出会う気配。「危うきに近寄らず」の雰囲気を感じる事がありました。それが仕事上避けられぬ場面で遂に同席しなくてはならなくなって、「凄い!こりゃ本物だ」と感動する程の人物に会いました。 これはかなりに良い経験でした。 と、言うのも、御陰で「そう言えばあの時のあの人もかなりにその類い?」と思い出される事もあったり、普通の人の中のかなり危険なオーラも感じれる様になって、人間は弱さ故だけで悪くなるんじゃない事を初めて体感出来たのです。 負のオーラとか、ネガティブなオーラの悪や、悪気の無い冷酷さではなく、堂々とした明るく元気で、強い悪。ポイジティブな悪? 幸いに人相が悪ければ誰もが警戒出来ますが、オーラを感じない人。依存心が強くて、頼りがいがあると勘違いして逆に受け取ってしまう人達は、あっと言う間に取り込まれてしまうのだな。と思います。 社会が何割かのそうした人間のバイタリティで動いているとして。また何割かの弱い人間がサクリファイドして成り立っているとして。その社会を変えるべきなのか? それともバリアーの中で生きて行くしかないのか? それは今は分かりません。 野生動物の世界を見ますと、ライオンの様な肉食獣も結構苦労して生きている様です。人間社会でも今迄は同じだった事に気付きます。悪い人もそんなに簡単に世の中をいじれない。そんなに頻繁に弱い人間に出会えず、取り込めない。 でも社会が守る力を失い。弱い人間が思い上がり、善良だった人々がエゴを剥き出しにしてハイエナの様な人相になって来た今日。社会の体質がどの様に変わって行くか。想像に余り在るものがあります。 家族の絆、善悪の観念。人と人の絆。してはならない事。言っては成らない事。それらは法律や契約上の事ではなく、心の潤いを汚さない優しさの話し。それらは耳に優しい甘い言葉ではなく、むしろ厳しい言葉であったり、強い愛情。 それを受け取る力が弱まり、伝える勇気が乏しくなって来た事。それが最大の原因です。それは社会が守ってくれるという過信から生まれたものと思われます。守ってくれないと気付いた時に逆の方向に進んだからに違いありません。
5月3日4日の日記の「Music & Life」の項で「ステーキハウスの想い出」を紹介した際、昨年の日記で紹介した「傘を要らない」と言った想い出とひっくるめて、「嬉しかった想い出のみならず、恥ずかしかった想い出も、悲しかった想い出も、悔しかった想い出も、みな心の宝物になり得る」と書きました。 が、他人の悪意で恥ずかしかった事、 悲しかった、悔しかった事迄が宝物には成り得ない。その後の人生の潤い、その人の柔らかさや暖かさの「種」には成り得ない。それをどう言葉で簡潔に説明したものだろうか?と考えていましたら、お友達が素敵な言葉をくれました。 それはとっても素敵で、立派な人生を送られた方が、大往生された話しの中で、いとも簡単に語られていました。 それは「奇麗な記憶は心に残る」でした。 嬉しい、楽しい、優しい言葉や想いの記憶ばかりが「奇麗」ではない。恥ずかしい、悲しい、悔しい想いも「奇麗」であり得る。場合によっては「腹立たしい」でさえも。 人は、「心地良い」ものばかり求め過ぎて、それが分からなくなっています。 奇麗の反対は、みにくいではなくて「濁った」「淀んだ」もの。それは日常に溢れていて、あっと言う間に人と人の間を行き来する。知らぬ間に人から受け取って人に渡してしまう。まるで風邪やインフルエンザを移す様に。 つくづく自分は恵まれた人生を送ってきたと思います。 民族音楽と言う社会に守られていない文化を追求し、変わった人、弱い人に囲まれて、もがき挫折しながらも、親や、師匠から奇麗な心を受け取るチャンスに恵まれ、沢山の人の善意や悪意の中で育てられて、奇麗な記憶ばかりで生きて来れました。 比べてみれば、楽しかったとか嬉しかったとかの数より、悔しかった、悲しかった、恥ずかしかったものの数の方が圧倒的に多いかも知れませんが、それでも「奇麗な記憶」です。 私を悲しくさせた人、悔しくさせた人の思いが淀んでいても、それを見抜ける力だけは持って居た事が幸いでした。 社会の価値観と異なるものを愛し、追い求めた結果だと思いますが、一過性のその時々の価値観に於ける意味や無意味。バランスの中で辛うじて認識される善悪の様なものには惑わされず、透き通っているか、淀んでいるか?それだけを直感で判断してきた事が良かった。 私の前に道が開けていなかった御陰で、常に遠くを模索して、山や星を目印にする様に、茨や岩をむしろ喜んで歩いて来た御陰です。 勿論聖人君子ではありませんから、挫折すれば人恋しく、また頑張ろう!という時には専属応援者を求めて。でもそれによって自分が濁って行く事も感じて居たのが良かった。 一時期「何処迄濁るものなのか?」を試してみた事がありますが、キリが無い事に気付きました。 【滞りなく流れる流れ】 「奇麗な記憶」と言った友達が、教室のチャメ君の為に電解水?を紹介してくれると言ってくれました。人間も動物も微弱電流が滞ると病気になる。それを改善する水だそうです。 その人は「奇麗」と「電流の流れ」をリンクさせて語ってはいませんでしたが、それらは正に「清流」の清らかさにも似た同じものの様に思えます。 嬉しい、楽しい、心地良いばかりではなく、厳しい、キツい、悲しい、悔しい、恥ずかしい、も奇麗なものを取り込む気概があれば、体も浄化されて電流の流れも良く成れば、体調もよくなるに違いありません。 日だまりの暖かな水は、流れの淀みにあります。 ドジョウの赤ちゃんなどはそこで生まれて大きく成りますが、人間はそんな所を安住の地にしては健やかに生きては行けない。 この一年の間に、私に「透視して後ろ迄見抜かれた様な視線を感じる」と言った人が二人居ます。きっとそれは、その人が透明度を多く持ち続けているからです。 嬉しい事,楽しい事なかりじゃなく、辛い事、悔しい事、恥ずかしい事もあったのでしょう。でもそれらのほとんどを「奇麗で透明な記憶」として残している素敵な人なのだと思います。 むしろ耳障りの良い言葉や嬉しい態度ばかり追い求めている人は簡単に淀んだものを取り込んで濁ってしまう。その人の瞳を見ようという気持さえ失せる程。
言われて意識してみると、向こうが見える「透き通った人」が意外に多い事に気付き嬉しく成りました。 中でも向こう側に畑や畳の部屋で遊ぶその人の子供の頃の姿がかすかに見える様な人は、その存在感、オーラ、言葉の全てが奇麗なものとして私に届きます。 時々、曇っていたり淀んでいる時もありますが、私に届いた時には透明になっています。 機会が在れば、透明にして戻して差し上げる事も出来ますが、四六時中一生は無理かもしれませんし、その人が淀んだ心地良さを求めている時は、仮に受け取ってくれても直ぐに濁ってしまいます。 その人が自分でそれを何時でも透明に出来る様に意識出来れば良いのになあ。と思います。
先日、介護のお仕事されていた方から素敵な話しを聞きました。 ご高齢の女性と男性の違いの話しです。 昭和初期の日本の家庭は大概が亭主関白だったので、主婦はお茶を入れても入れて貰った事が無い。なので、介護を必要とする状況になった時に、介護の人にお茶を入れて貰うと多くの女性が心から「ありがとう」と喜んでくれる。ひたすら尽くして来た人生の終盤に「人の世話になる」事を喜び、幸せと受け止めている人さえいる。 それに対して、人がお茶を入れてくれるのが当たり前に暮らして来た男性は「ありがとう」の気持が少ない。特に会社の社長さん、重役さんの様に努力して登り詰めた人は、自分の現状を憂いて大変気落ちされる人が多い。という話しでした。 「男女平等」の今の世の中から見れば、虐げられて来た様に言われる戦前戦後の女性が、感謝と喜びと幸せな思いで介護を受けている。して貰って当たり前、と生きて来た人の方が不幸せな思いをしている。感謝が幸せの素。という素敵なお話でした。
同じ様な話しをお友達としていて、長年の疑問、特にこの一年の悩みが解決した様な喜びを得ました。それは「子どもと大人の違い」について。 それは非常に明快な定義です。 子どもはして貰って当たり前。感謝の気持が無い。足りない。 ミルクを貰って「ありがとう」という乳児は居ませんが、小学生になってもご飯を貰って当たり前、家が有って、親が居て、心配して貰って当たり前。学費を出して貰って当たり前、「ありがとう」の言葉を言ったとしても気持は足りない。本当の意味の「有り難み」が分かっていないから。 ある意味で、 それが「子どもの本分」の様な所も有ります。 以前学校訪問で、小学生なのに気を遣う子ども達を見ました。怖い先生に気を遣っていて、先生はそれに気付かずに「正しい良い子」的に思って居る様でした。 「天真爛漫」であるべき子どもが,色々気を遣うのも悲しいものがあります。 教えられた感謝ではなく、素直な「ありがとう」の気持が自然に身について行くのが理想だとしたら、現代は「ありがとう」の気持が生まれる間もなく「権利」を主張する様になった人が多い。その権利の主張も傍若無人で、道のど真ん中で平気で立ち話をしていたり。
子どもっぽい素直さを失って、感謝の気持も失って、根拠のない権利を主張し、頭と体を使えばお金が貰えて当然。そんな大人が増えて来ている様に思います。 そんな若者が高齢者になった時、日本はどうなるのでしょうか? 傍若無人に権利を主張し、感謝の心を持たず、不幸せ感が充満した高齢者を今の子ども達が養って行く時代です。
普通の人の中に平然と在る、普通の感覚。 生きたい、幸せになりたい、満たされたい、役に立ちたい、意味を持ちたい、認められたい。私はそれが分からない。分からないのにそんな人達の中で生きている。 死にたくないから生きる。惨めや貧しさの逆を豊かさ幸せと思う。不安から開放され不満を解消する事を求めたがる。人や社会の役に立ちたい、生きる意味を持ちたい、自分の存在を認められたいと願っているけど、自分さえ変えられない、弱さを克服出来ないレベルだから、社会どころか自分の廻りさえも変えられない。 人の役に立ちたいと言い乍ら、自分を成長させて迄の根性はない。手頃な対象に必要とされ、存在意義を感じる事を求めている。 それら全てが、死にたくないから生きているレベルに思える。それが理解出来ない。 それはそれで良いじゃないか、という考え方もある。そんな人達が僅かでも知恵や力を出し合って世の中に役に立つ事もあるのだと言う人も居る。 それは、エゴの怖さを知らないから? 見て見ぬ振りか? 見えないのか? エゴの善意が集まった時、それは悪意を遥かに越えた力を持ち、本当の善意をもくじき世の中をはっきりと変えて行く。 だから世の中は良くならない。良く成らないどころかはっきり急速に悪く成っている。 音楽を学びたいと言う人で、向上心や欲が無い人は中々上達しない。 でも、そんな人の方が暖かい音を奏でていたりする。でも、その素晴らしさを認める人は少ない。 世間はそれにお金を払って迄聴こうとしない。 その人も舞台に立とうとはしない。 向上心のある人は、熱心に練習する。でもそれは小手先の技術の場合が多い。 音楽を学んでいるのではなく、楽器の弾き方を教わっているに過ぎない。 音楽の話しになるとついて来れない。努力に対してより高い評価や満足を求めようとする。その時その人の向上心のサイズが分かってしまう。その欲のサイズもとても小さい。 あらゆる観念は、所詮は相対論。 だから物差しは常に自分にあり、自分と自分を比べて生きて行くしかない筈。 それを人に求めたり、社会に求めたり、結果に求めたり,言葉に求めたり、全ては相対論に縛られている姿。 不安は不安を呼び、結果は努力に伴わず、イライラは廻りに飛び散り、ストレスは自分にも返って来る。 人のせい、社会のせいにする人は、自分のせい、と言われる事に過敏。 逆に「お陰」と言われる事を喜ぶ。 自分が「神様の子ども」「地球の子ども」だと思っている人。意識しなくてもそうやって生きている人は、とても少ない。 でも、そんな人は自分に物差しが有る。 何時も自分にもどかしさを感じ乍らも、素晴らしく成長している。身近な人に支えられて、悩み乍らもはっきりと世の中に貢献している。死後に認められる人も多い。 むしろその方が多いかもしれない。 生きている証の為の努力ではないから、得てしてそんなものなのかもしれない。 そんな人は、社会や他人と言った物差しから心が解放されている。その人を縛るものは、神様、地球の子どもという唯一最低限の事実。そして家族、友人の純粋な愛。 そんな人はどの時代の何処ででも生きて行ける力を持っている。 「優しくて強い人」 不思議なことにつまらぬ観念から解放されている分、むしろ社会や他人を心配し、気遣い,多くの人を励ましている。 解放されているからかと言って 「悟った」訳ではない。むしろ心を守る殻が無い分傷つき易いかもしれない。傷つき乍らも頑張っている。 その頑張りの目的は、相対的な満足でもなければ不安の解消でもないので、飽くなき努力と精進の一生である。 そんな人に会うと、とても救われる。そんな人は自分に余裕が無くても常に廻りに力を与えている。廻りからも沢山力を得乍らも、それを何倍にして戻す力がある。 でもそんな人が決して強い訳でもない。むしろ弱さも沢山ある。 それを同じ様に生きている人が支えている姿を見ると、とても幸せな気分になる。 羨ましくも想う。 でもそんな人はとても少ない。
死にたくないから生きている様な人が、生きる証に世の中の為、人の為に努力をする。そんな努力によって人間は地球を枯らした。それほどにそんな人が多い。 そんな人達に負けそうになる。 情を感じた人達にそれを見ると悲しさに負けそうになる。ブラックホールの様に生気を取られ、クタクタ寸前、ボロボロ寸前になる時もある。 そんな時頭の中に様々な考えや言葉が蛍の様に飛び交う。鉄工所の騒音の様な音を立てて。 私は自分の物差しで考えて、今日迄で十分幸せで充実した人生だったと想う。 まだ体力も気力も閃きも残っているから生きている。生きているからには頑張る。 「ちょっと疲れたな」という言葉は、まだ少し離れたところにある。だからもう少し頑張れる。猫さん達が天寿をまっとうする迄は生きていられる筈。 認められなくても構わない。理解されなくても構わない。報われなくても構わない。 そんなちっぽけな想いで生きている訳じゃない。人生の大半理解されず、報われず、そんな事を気にせず生きて来て、今更報われる事が幸せだとは思わない。
でも、もう間に合わない所迄来ている事に気付いて欲しい。
地球も、世の中も、一人一人の家庭も、一人一人の生活も、心の健康も。
日本のあちこちで、一生懸命に生きている人が沢山居る。真面目に生きている人が沢山居る。その人達が住んで居る【田舎】から何故若者が出て行ってしまうのだろうか。 田舎に居ると、心が「湿る」からかもしれない。 じめじめとした大地や,森、川や田んぼの世界から、アスファルトやビルの綺麗でカッコ良い世界で「カラッと」明るく楽しく生きてみたくなるのだろうか?
都会に出て来ても、心に潤いを持ち続けている人も居る。 田舎に住んでいても心をカラカラにしている人も居る。 都会で乾き切って田舎に引っ越す若者も居る。 そこで潤いを取り戻す人も居れば、乾いたままで田舎に住んでいるだけの人も居る。 日本のあちこちで変わって行く姿もある。 昔ながらの良さを持ち続けているところもある。 田舎を持たない私は、場所は関係ないと思いたい。
心の中に山や川、畑や田んぼを失えば、何処に住んでいても心は渇く。
カサカサになったがさつな心は、乾いた風の様な言葉を吐き、がさつな時間は知らない間に自分の大切なものまでカサカサにしてしまう。 日本のあちこちに、まだ潤いのある景色がある。 まだ心に潤いを持つ人達が頑張っている。今のうちに。
ふと想い出しました。子どもの頃良くケラケラ笑う子だった事を。 母はしばしばそんな私を面白がって、妹と「笑いカワセミに話すなよ」と歌っていました。
6月8日の福島県棚倉高校での「芸術鑑賞教室」に呼ばれての演奏で、純朴な高校生の素直な横顔を見て少し安心し乍らも、子どもが大人に成って行くに連れて「笑い」の質、意味が変わって行く姿を思い知り、悲しくなりました。 小学校で演奏すると子ども達は「楽しくて」「嬉しくて」「面白くて」大笑い。 それが中学校では「照れくさい」「可笑しい」に変わる。そして高校では「恥ずかしい」「変」だから「笑う」に変わる。 民族音楽を面白可笑しく紹介してまで学生に「ウケたい!」というのではありません。誰か一人をステージに呼び上げて民族楽器の鳴らし方を体験させたりする時、その子のリアクションを同級生達が笑うのです。もしその子がその子ならでは素直なリアクションをしたとしたらその笑いは更に大きく成る。「らしさ」「個性」を否定し「変」「滑稽」として抹殺する風潮です。 「滑稽」を笑う風潮は大人に成ってから更に増します。 笑いを取る為には「みっともなさ」さえも売り物にして。笑う事に飢えた人々が集ってストレス発散の様にだらしなく大声で笑う。 笑う角に来る「福」を求めてか? 笑う事で免疫力を高めたいからか? 単なる憂さ晴らしか? そんな笑いの文化に拒否反応を感じたのか、母と妹が可笑しがった「笑いカワセミ」は数十年も笑いを忘れて来た感じです。 そんな私に笑いを取り戻してくれた人がいます。 私等より遥かにまともで、社会性があるという意味で大人なのに、些細な一言が可笑しかったり、聞き違い方が可笑しかったりで、私は数分大笑い。 そんな事が月に数回。数十年振りに数十年分の笑いを取り戻した様な感じです。 その人に高校生の話しをしましたら、ご自分はユニークさを大切にする教育方針で育って来たとおっしゃるので、感動しました。
思えば、私もそんな高校生でした。私の場合はインド音楽にハマっていて、親の教育が無くても「変わり者」として有名でしたが。
そんな高校時代、中学時代を想い出してみると、みっともなさや格好悪さを笑った事が無い事に気付きました。小学生の頃から今日迄「楽しくて面白くて愉快」な時以外笑った事が無い様です。大概が笑われる側だったからに過ぎないのかもしれませんが。 小学生の頃の笑いの箱は 何十年も蓋が閉められて来たのかもしれません。 その蓋を開けてくれた人の「愉快な話し」は、みっともなさは微塵もなく、何時も楽しい、可愛らしい可笑しさでした。 【 嘘】
子どもの頃から「お馬鹿さん」「おっちょこちょい」と言われ続けて来て、物心着いた頃からずっと趣味の様な事で仕事して来た社会性欠如の幼稚な私ですが、その割には「騙された」事も「嘘」をつかれた事も殆どないのは、ある意味奇跡的? かなり不思議かもしれません。 ひとつには人がエゴの為に、ズルい嘘をつくのを簡単に見破れるからかもしれません。と言いますか、嘘が出る前にそのオーラを、時には数日、数週間前に感じるので、嘘つく必要を先回りして取り除いてしまうかもしれません。その為には、謙る事も厭わない。みっともなかろうが、馬鹿にされ様が、その人が嘘をつくのを見るよりは幸いです。逆に言えば「嘘をつかせる」事も簡単なのでしょう。でも自分の中から、そんな嫌なオーラ、作為的な言動が出たら、気持悪くて、相手が嘘をつく前に卒倒してしまいそうです。 その代わりに、人が人の為につく嘘は、なかなか見破れません。 否、本当は分かっているのに騙されたくなってしまうのかもしれません。 また、多重人格っぽい人の嘘はちょっと複雑なので、見破れない事が多い。 見破れたとしても騙される事が果たして良い事なのか分からなくなります。 その人のA人格にとっての嘘はB人格にとっては良い意味かもしれず、C人格にとっては悲劇的かもしれず。D人格にとっては正直な事かもしれず。D人格の時に言った言葉であるなら本人も嘘をついた認識はないかもしれません。
【平常心】
我が儘やエゴが高じて多重人格っぽくなるのは許し難い事ですが、悲しみやトラウマが原因の場合、それを批判する事は出来ません。 最近思う事が「平常心」。 私もかなりに「多面的」と言われ、昔は「感情の起伏が激しい」と非難された事もあります。が、自分では常に自分が見えていた。時には冷淡な程クールに。それが平常心なのでしょうか? 平常心と本心の違いは? そんな多面体の中心にある核の様な平常心をずばり見抜かれると嬉しいものですが、微細でも的がずれると、全ての面を見て貰いたくなります。 一面で判断して欲しくない。 と思い乍らも、人の多面性の中にある核を見抜くのは難しい。 自分ではかなり直感が的確と思っていたのですが、もしかしたら希望的観測だったのでしょうか? 裏切られたり、別な面を執拗に見せられたりして真意が見えなくなります。
【責任感】 騙しや詐欺にはほとんど合わずに来ましたが、期待を裏切られる事、その人に取っては自然な行動でも、自分が同じ事をしたら「裏切り」の罪悪感が一生つきまとうだろうという様な事は数多ありました。 自分の言った事に責任が持てない人。口約束さえ守れない人。言い訳どころか言った事の解釈さえ平気で変える人。 冗談や洒落、社交辞令だという人。言った事さえ覚えていない人。中には訴訟を起せそうなものもありますから、ある意味騙された事になるのかもしれません。 「そんな奴は放って置け」「いずれ淘汰される。罰が当たる」と教えられて来たものですが、そんな輩が世に氾濫して行くばかり。一向に罰が当たっている風ではありません。 する側でなく、される側である事で良かった。と思ってみても、振り回されていては自己満足でしかないのかもしれない。やはり第一印象に忠実にであるべきであった。 にも関わらずに期待したり、情を掛けた自分の失敗で、自分が罰が当たったのだ、と思うしかないのですが。そんな世の中では、真面目、誠意、善意も虚しくなります。 最近、立派な成功者といわれる立場の人が、何かで転けた時のTV会見などでの醜態が目立ちます。人格者が居ない。 人格者は易々と転けないのかもしれませんが、醜態のレベルも上げてくれないと。尚一層退廃感が高じます。 つまらない話しですが、TV局も謝罪をするべきでは?と思います「見抜けずにもて囃してしまって申し訳ない」と。 【上昇人生の勘違いと、下降人生の誤解】 あらゆる意味で、物事を始めた時の勢いや、絶好調の時の華麗さが如何に見事であるか、カッコ良いか!で人心を惹き付けたり、鼓舞したする文化に偏り過ぎている感じがします。音楽をやれば「売れたい!」商売をやれば「儲かりたい!事業を拡大したい!」逆に修行や勉強を「極めたい!」という人は減っている。親子代々の仕事を地味にやって行く人も減っている。「おやじ!これからの世の中は!」とか言い乍ら。 これは強いて言えば「売らんかな文化」 電化製品でも食料品でもパッケージ、デザインに多額な資金を投じて、巧妙に購買意欲をそそり、売ってしまえばそれまで。アフターサービスは低下。壊れる様に工夫して作って、次を買わせる「哲学」ですから、当然「捨てる文化」を同時進行させているのですが、それは誤摩化されています。遂には買った人が負担感を味わう様にさえ法律が変わりましたが、それでも気付かない人が圧倒的多数。 仕事上買わざるを得ない自分がもどかしいですが、オーディオ製品、PCプリンターなどは「部品が無い」と言われる迄何度でも修理に出します。その間に「新品を買った方が安い」と何度も言われます。密かな抵抗ですが、自己満足でしかありません。 20年店をやって来て「始めるより止める事の方が大変」という想いを痛感しましたが、人間の文化とその歴史は「登り詰める」という「錯覚」で全て成り立っている様な気がします。
地球環境、自然保護の観点から言えば、第二次世界大戦を境目に「発展する文化」から「戻す文化」に切り替えるべきだったのは明確です。これ以上自然を破壊せず、化石資源を掘り起こさず、と決断すべきだった。「生産」と言っても所詮は「消費の為の生産」であって「創造」ではない。逆に「戻す文化」だって十分に産業、ビジネスになり得た筈。
結婚式にお金を投じるのと同じか、それ以上に離婚にはエネルギーやお金が費やされます。が「祝い事」ではないので祝福はされないし、助けても貰えない。極端な事を言えば「離婚式」だって有っても良いのでは。再婚迄第二の人生の門出が来ないのはおかしい。離婚式がみっともないものならない為に、日々もっと努力するかも知れない。
「馬鹿と煙は高い方に昇りたがる」と言う言葉がありますが、てんとう虫が竹ヒゴの先端に登り詰めようとする、そんな「前向きな姿勢」のみをポジティブとする文化は結局は消費文化。「同じ処に居る」「むしろ戻る」という文化では廃れてしまう人間の弱さ。 とは言え、 誤摩化しで上に行かせるのではポジティブとは言えない。単なるヒステリック。結局は「昇る事に疲れ」気付けば、地球環境はボロボロ。環境が悪く成れば、人の心も荒み、世の中は悪く成る一方。
これらも全て「消費文化」すなわち「破滅方向文化」なのではないでしょうか? 私は、中学二年生の時に民族音楽探訪の人生を決意しました。 その時に自分の人生を60年と想定し30歳迄にやるべき事、やりたい事を終わらせておく決意でがむしゃらに頑張って来ました。その甲斐有って、30歳の時迄に、教室、ライブハウス、飲食店、民芸品店、楽器店、輸入業、楽器製作、出版、レコード製作、楽団運営、海外旅行企画などやりたい事はほぼし尽くしました。 その後は、先に進むとしても意味が違いました。 勉強復習、修行の仕上げ、経験の見直し、学んだ事を世の中に発表するなど。今迄やって来た事の反復です。 思いがけず長く生きているので「もっと、見直せ!」という事なのかもしれない、とか「もっと世の中に貢献しろ!」ということなのかもしれない、と思って頑張って来ました。ですから、30歳迄に拡げた業種、営業品目、事業は以後拡げることはしませんでした。 何時人生が終わっても良い様に生きる、と言う事はむしろ短期間に迷い無く基本を身につける事に繋がったと思います。また、その後の余生も決してネガティブではなく、時間が与えられた事への感謝の気持で「天命」を感じ乍ら生きて行ける幸せを受け止めています。 勿論、世の中を良く変えるにはあまりに非力な自分に怒りも覚え、日々自己嫌悪になりながら、相変わらずがむしゃらではあります。ですが、悔いは無い。 決して「守り」に入った訳でもなく、欲が無いのでも、諦めの境地でもない。でも無駄な「消費」は30歳できっぱり終わったと思います。
【窮地、止め際に試される人格】 A型の特質かもしれませんが、些細な事に一喜一憂する割には、窮地にパニックにならない。これは親の教育のお陰もあったかもしれません。 病気や戦争で何度も死にかけた経験のある両親は、生き死にに関しては何処か堂々としたところが有り,決して人格者ではないにしても、窮地に狼狽える事はないだろうという人でした。 両親には、嘘をつく事、誤摩化す事、さぼる事、手を抜く事を厳しく叱られ、妹のままごと道具を拝借した程度の事で「追いつめられる」レベルまで叱られていました。思えば「窮地、追いつめられ訓練」の様なものだったかもしれません。
その教育のお陰で、本当に困った時。かなり追いつめられた時。ひどく疲れた時にむしろ元気。本当に怒った時にむしろ笑ってしまったり、本当に孤独な時に、むしろ人に優しくなる様で、周りで本当の状態に気付く人が殆ど居なかった程です。 その手前では、むしろ危機感を周りに訴え過ぎる悪い癖があるかもしれません。 その意味では、最近私が良く語る「世の中どんどん悪くなる」も「それ」かもしれません。 子どもの頃は、何も心配せず。むしろ呑気な「笑いカワセミ」でしたが、何時頃からか心配性の「オオカミ少年」になっていました。 それだけ常に警戒していれば、本当にオオカミが来た時真っ先に気付いて逃げられる筈ですが、窮地に頑張る躾のお陰で、きっと頑張ってしまうのでしょう。 「オオカミ少年」が騒がなくなった時は、オオカミに挑んであえなく喰われた時だと思って下さい。
【好き嫌いと尊敬と軽蔑】 困った事に、「尊敬する」「軽蔑する」事と「好き」「嫌い」が一致しない事があります。 楽器でも同じです。一流の演奏家たるならば、一流の名器を持つべきかもしれませんが、名器も粗悪品も選べない時代に民族音楽を始めたからでしょうか? 躾や性格のせいでしょうか? 「出来の悪い子ほど可愛い」的な感覚が強い。 もしかしたら、学校で虐められて育った からかもしれませんが、メジャーよりマイナー志向。アセンディング(上行)よりディセンディング(下行)志向。ブランド品よりヴィザール(ぱちもん)志向。優勢多数より劣勢少数。 1990年代前半、私の店のインド音楽ライブが60席常に満席になった頃、逆にアメリカのWASP民謡を探求し出してインド音楽のお客さん、シタールの生徒さんまでが激減した時、想い出したのは、小学校の頃に子ども社会で見た欺瞞でした。 どんな時代のどんな国にであっても、同じ様に自分らしさを持ってどんな仕事でも頑張れる様な人は尊敬します。そして、自分の生きている意味を感情に捕われずにしっかりと意識している人は立派だと思います。
それに対して、時代の価値観に捕われ、見たくれや、地位名誉、物欲に執着し、エゴに素直な事を良しとし、感情を直感と勘違いしている様な人。 とっても増えて来ましたが、時には軽蔑の域にさえ達します。 が、好きか? 嫌いか?と言うとまたちょっと別なのが、自分でも困ってしまいます。 【困ったときの恩】 人間は余裕が無い時には人の事を心配したり、助けたりは出来ない。最低限の余裕が無ければ出来ない、と思って居る人は意外に多い様です。 でも私が尊敬する人は、余裕に関わらず、人が困っていれば飛んで行く様な人です。 困った時に助けてくれた人への恩は忘れられませんし、裏切れません。その人がその後どんなにらしくなく変わってしまったとしても。 逆に困った時に助けてくれないのはともかく、人が困っている時にエゴをぶつけて平気だったり、窮地にエゴを見せる様な人は、その他の時に幾ら立派な振る舞い、もっともらしい意見を言っても尊敬出来ません。 人が困っている時に「す〜っと居なく成る」様な人も凄く増えている様に思います。 これら全て、人間の弱さから来ている、と解釈する人は少なくない様ですが、 私は人間の弱さは嫌いじゃありません。だから「す〜っと居なく成る」様な人は「弱い」のかもしれませんが、それ以前に「せこい」「ズルい」「卑怯者」。場合によっては悪意がある悪人よりも悪人と思います。それと私が慈しむ人間の弱さをごっちゃにして欲しくない。 弱さあっての優しさも有ると思いますし、弱い故に切ない。駄目な分可愛い、と感じる感性がなくては「音楽」など生まれなかった。少なくとも「叙情歌」などあり得ない。世の中全て「軍歌」になってしまっていたでしょう。 同様に、人間の弱さが根本的原因である「間違った上昇志向」 の風潮が人間を駄目にし、社会を駄目にしたと思います。この弱さも許し難い弱さ。やはり「せこさ」「ズルさ」「卑怯」な弱さです。 知識や技や、物欲の満足、楽をしたい、安心したい。といった「求める幸せ」が人間の当然の権利の様に思い込み、それが「向上心」だと思い込んでいる人が圧倒的な社会。 精神の向上は「帰る事」に有る様に思います。 人間らしさ、古き良き時代、伝統的な文化、コンビニエンスじゃない時代、スローな時代に。その為にはヒステリックな「上昇志向」「満足志向」「安定志向」を勇気を持って捨てて、自分らしさに帰る事が唯一の道と思います。 「帰る」も「還る」も「返る」も似た様なものと思うかもしれませんが、 大違いです。むしろ「還る」だったから無駄な浪費をしてしまった。「返る」なら単なる反発。右に行って行き止まりだったから左に行く様なものは、反省じゃない。 「帰る」はむしろ「戻る」に近いですが、「変える」意識がなくては出来ません。 世の中を変えるのではなく、自分の意識です。
だれにも簡単に出来る事です。