考えた事  2007年 11月

 
 
 
 
 
 
 
 
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 11月1日(木)   やっぱり何かが動いている
 

 「出逢い」に触発される毎日です。
 元々、出逢いを喜び、感謝し、運命を感じたがる「クセ」は有りました。
 過度の分だけ、悲しみも味わいましたから.........。
 ここ数年は(って気付くの遅い?)「過大評価」「アバタもエクボ?」は慎重に。

 それでも、やっぱり嬉しくなってしまう出逢いがどんどん増えています。
 そしてそれが音になってまた放たれ! それが笑顔を呼び寄せてまた出逢いが生まれる。

 ありがとうございます。

 先日「福岡・猫さんの会」を立ち上げまして、色々な方面にご挨拶を送りました。なかなか、お返事下さらない所もあれば、Blog内コミュニティー書き込みのお伺いをしたら大変嬉しいお返事を下さった方も。
 (参加者さんは色々、それぞれとは言え、管理人さんは想いを込めて立ち上げられているのでうから。Blog世界の感覚で勝手に書き込み自己宣伝する人達は理解出来ません。)
 

 「コミュニティーとホームページを拝見させていただき、動物愛護のための活動として、とても素晴らしい内容だと思います。 当コミュニティメンバーの方々も、動物を助けたい!でも、今時分に出来ることは何か?と、考えている方が多いと思います。
若林様のコミュニティとホームページを是非、当コミュニティで皆さんに教えてあげてください。 まだまだ力不足の管理人ですが、皆さんと情報交換等をし、少しでも多くの命を助けていきたいと思っておりますので、これからよろしくお願いいたします。」

と温かい、お返事を頂きました。
 ありがとうございます。 とても励まされます。

  相互リンクも幾つかの方がご快諾を下さいました。
 
 福岡でたいへんしっかりとした活動をされている、NPOさんからも
応援メールを頂きました。

 

 2007年3月5日に若林が出演しましたフジTV「ペット百科」をご紹介してくれた関東の猫好き仲間さん。も「福岡・猫さんの会」を応援してくれています。

 その応援メッセージの中に「あまりのシンクロにちょっと驚いています。詳しくは後ほど」という気になる一文がありました。

 「福岡・猫さんの会」では「猫Song楽団」を結成しまして、
 「世界中の猫さんの歌」
 「フェリックスCat」とか「トム&ジェリー」から「黒猫のタンゴ」はたまた「猫踏んじゃった」に世界各国のお友達に探して貰っている「猫ソング」
 それに加えて「世界的には名も無い」けれど、家族にとっては掛け替えの無い一員の「猫さん」へのレクイエム。
 若林が直接お会いして、民族楽器を奏でながら、想い出を語って貰って、例のごとくの「若林流作詞法」で言葉から「連想ゲーム」の様に言葉を導いて、詩を形作る。
 それに若林が作曲をして作る、世界に「一匹」だけの為の「猫さんの歌」
 でも、そこには「人間が如何に多くのものを猫さんから貰ったか」が込められていて、きっとその歌を聴いた世界中の人々に何かリンクするに違いない「歌」です。

 その事を考えていて、ホーム・ページに書いたり、メッセージのお返事に書いたりしていた事が、「あまりのシンクロにちょっと驚いています」だったのでした。
 ある方が猫さんを失って作詞作曲したのを若林に「歌って欲しいと相談していたところだったんです」と。

 若林のBlog仲間さんには素敵な猫さんの写真がある「猫さん仲間」もたくさん居ます。ところが、その写真の幾つかは「遺影」なのです。
 否、まだまだ生き続けて、お会いした事も無い私までをも、たった一枚の写真で和ませてくれています。
「Blogで生き続ける」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=476021741&owner_id=327576

 
 足跡から、訪問返しをさせてもらって「グっ!」と来た猫さんプロフィール写真。
ところが3月3日に亡くなっていました。一年前後Blog仲間さんで、毎回プロフィール写真の猫さんや日記の写真(プロ並みの腕前!)でその子に会うのを楽しみにしていた猫さんは、今年になってから病気と戦い、7月7日に亡くなりました。

「七夕の日に星になった」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=494038224&owner_id=327576

 3月3日の方は「あの子は風になりました」と書かれ、7月7日の方は「お友達が同時刻に流れ星を見た」「あの子は星になりました」と書かれていました。
 普通の事として通り過ぎ、思い過ごす事柄かもしれませんけれど。
人間が「季節を感じ」きっと、またその季節が巡って来た時に「風」を感じ「夜空」を眺める。 「忘れては成らない心」「まごころ」「人間らしさ」を
 如何にたくさん「猫さん」がくれただろうか?


 11月1日(木)   「連鎖」
    我が家には「血統証付き」の猫さんワン子が居ます。
 ベンガルのアイーシャ。Mダックスの千恵。 里子に出したアビシニアンのレオ。

 みんなとっても良い子です。 少しずつ困った所はありますが。
 逆に可愛くもあり、切なくもあり。

 アイーシャには沢山の事を学びました。 たくさんの愛を返してくれます。
 一番位慎重、臆病で、不器用ですけど。 レオ君のお陰で可愛くてたまらないプリン、マロン、超ハンサムのチャチャ君に出逢えました。
 要領が悪く、女の子にモテないタイプが、嫌われながらも子種を届けたお陰です。
 
 レオ君はペットショップの売れ残りです。
 お店に行く度に「半額値下げ」そのまた「半額値下げ」 妹は可愛い子猫の頃に即売! 
 
 色々な事を考えます。
 「即売!」の子の魅力は音楽に例えれば「売れる!」という事?
 レオ君に僕の心がシンパしたのかもしれません。
 
 我が家第三期猫王国の原点クーちゃん。野良猫でした。

 野良猫さん放って置けません。 
 せめて我が家に「侵入してきた子」は皆保護しました。
 野良猫FIV義兄弟のチャメ君とViVi

 
 かつて「粗大ゴミ」の日に町内を一周。
 毎回一本ギターを拾いました。 たまに大破もありましたが
 全て修理したり、大破は改造ギターにしたり。
 そんな数十本の「ガラクタ捨て楽器」の管理費だけでも、きっと................。

 アラブ弦楽器ウードを習いたい、と言う人に
 半年はこの「改造フレットレスギターで練習しなさい」と言ったら
 入門しない、しても直ぐ辞める。
 
 基礎は一緒。 むしろ基礎がしっかり学べる。 本物のウードを取り寄せても無駄にならない。
 でも「消費者」でもある生徒さんは「ウード」が習いたい。
 「がらくたギター」じゃない。
 僕の得意話「粗大ゴミ」も逆効果だったかも。

 人は「カタログ」で動物を知り「ショップ」でと出逢い。「ブランド」を選ぶ。
 その割には「安かろう良かろう」
 「値下げ品」じゃ悲しくないのかと思いきやそうでもない。
 ならば見栄?」かと思いきや、如何に安く賢く買ったか、「ラッキー!」さを自慢する。

 不思議。不思議。とっても不思議。

 1972年 まだ「民族音楽」が「民俗音楽」と綴られていた時代
 「ワールド・ミュージック」などと言う呼称の時代等誰も想像しなかった。
 1978年日本初の民族音楽ライブスポット。当然需要が無いですから、閑古鳥がぺんぺん草食んでいる。

 「民族音楽カタログ」「ガイド」なんて無かった。 
 でも、沢山の素晴らしい音楽と出逢えました。

 野良猫のクーちゃんのお婿さんはショップで出逢いました。
 人々が「カタログ」「ショップ」「ブランド」志向のお陰です。
 
 楽器も音楽情報もしかり。
 しかし「楽器を手にしてどんな音楽をやるか?」ジャンルの事ではありません。
 「得た情報をどう理解し活用するか?」
 は皆さん興味ないらしい。

 野良であろうが血統証付であろうが、ちいさな家族から何を学ぶか
 何が出来るか? は皆さん興味ないらしい。
 それ以外の事が主な様にも見受けられます。

 でも、そんな世の中のお陰で、「動物病院」の数も多く、薬や療法食や動物医学も進んで。
 チャメ君の延命は皆さんの社会のお陰でもあります。

 その意味では、とっても有り難い「連鎖」があるのです。
 
 もちろんその逆の「連鎖」も。

 「昔は良かった!」と言うと「懐古主義」「復古主義」の様ですが、
 「進んで良くなった事」も在れば「失ってはならなかったもの」も多い。
 いろいろ思います。

 せっかくの「連鎖」に支えられて出来上がっている、社会や経済
 その先端、リードする立場の者は、せめて「先を」見て欲しい。

 最近、消費者、大衆の顔色や財布の中身を見ている様な気がしてなりません。

 11月5日(月)   そうだったのか!
   Blog仲間さんのRさんの日記を読んでいて初めて理解しました。

 ちょっととんでもない事態になった時、ある方がとっさに言った言葉が意味不明。

 例えて言うならば、三人で喫茶店に居て、二人が突然言い争いになった時、
 残る一人が突然「髭ダンス!」と大きめの声で言う感じ??

 「何かしなきゃ!」「なんとかしなきゃ!」
 の心が、脳みそに伺いを立てない。

 昆虫って素晴らしい生き物です。
 六本足は、通常の歩行の際、各足の「脳みそ」が地方分権で「判断」し「障害物」を避けます。「余程の事態」を感知した時のみ「中央」に報告し、トップダウンの「指令」が発せられます。
 
 音楽の「上達法」もしかり。 手足、指先、耳、目、が「地方分権」だと早い。
 「体で憶える」とはいとも大雑把な言い方で「地方分権制度」がより正しい。
 もしくは「下手に脳みそ使うな」です。

 んで、「髭ダンス!」と突然言った人の場合。
 「何が出来るだろう?」「この場合どう立ち回ったら最適か?」
 と「脳みそ」で考える間もなく発した。

 素晴らしい!

 と言いながら、私もたいがいこのタイプで、
 たいがい「後で後悔」します。

 マイミクRさんの日記に「ありがとうございます」を言いたいのは、
 お陰で、我が家のママさん、クーちゃんの「奇行」の意味が分かったから。

 問題抱えた様な顔つきの時、
 何処からか「ゴム手袋」の片方を持って来てくれます。

 「またぁ! 駄目って言ってるっしょ!」と応えていた自分に大反省。

 あれは、慰め、励ましだったんですね!

 「これで気分直して!」って。  

 ああ、なんて優しい..................。

 
 野良猫さんにお世話をすると、何処からか奇妙な物を持って来て
 「お礼」してくれるのと同じ。

 そうだったんですね!

 クーちゃん!  ありがとう!

 Rさん ありがとうございます。


 
 11月6日(火)   「約束事」  
 

 このところ、何人かに話しても、なかなか分かって貰えない話

 「約束事」は「まごころ」の「敵」

 「ネズミを獲る猫が良い猫」

 本能が強くて無心に獲るのか、達成感や優越感をも味合うのか、
 使命感や義務感か、何も考えずになんとなくか、
 実は嫌々だったりか、それとも泣く泣くだったりか

 結果だけでは分からない

 約束事を守る人は 「良い人」
 約束事を守る人は 「信用出来る」
 約束事を守る人は 「誠実」

 
 守る事しか出来ない人
 やっとどうにか守った人
 守れば良いと思う人
 守る事さえままならない人

 約束事を決めないと 
 「まごころ」だけが頼りだけれど
 
 人はどんどん悪くなる
 「しない」方に影響される

 「する人」「気付く人」も
 だんだん馬鹿らしく思うらしい

 最近「約束」さえしない人が増えた。


 

 11月6日(火)    サブ・カルチャー
    私の限られた知識と、認識の範囲内では有りますが、
 「メインカルチャー」と「サブカルチャー」もしくは
 「ハイ・カルチャー」と「サブカルチャー」の「対峙」が無い時代が長過ぎた。
 それがあらゆる事の元凶と思います。
 
 「メインカルチャー」も「ハイ・カルチャー」もだらしがない。
 「サブカルチャー」 も情けない。

 「価値観の多様化」 とは、よくもまあ「厚顔無恥」に言ったもので、

 「枝葉を辿って幹に到達し、やがては根元を見極めて、その根っこの張り具合も知る」
  物事突き詰めて行けばそんな「多様」の筈は無い。
 
 「価値観の多様化」   突き詰めない文化を「美辞麗句」に言っただけ。
 
 

 先日来、真摯な質問メールをくれる若者は、きっと今日も考え、悩み、それでも頑張って働き、音楽と人生に想いを巡らせている事だろう。
 ここ数日、仕事と私事に加えて「福岡・猫さんの会」の企画書作成で手一杯ということもあったが、正直答えに「詰まって居た」

 なぜならば、彼の「悩み」の根底に大きな問題を発見したから。
それは「サブカルチャーを知らない」という、世代的な大問題。 それをどう伝えたら良いのか? 「手一杯」ながらも日々、時々に考えていた。
 
 先月の日記の「1970年代」誰もコメントには書いて下さらなかったけれど。
「1970年代に生まれたロックが、どうして廃れたのか?」
 単純な答え「ビジネスとして成功したから」

  1977年頃、私が属していたバンド「ヒカシュー」の面白い想い出話を想い出す。
 当時、山下&井上氏の今と成ってはヴィンテージなシンセに若林と劇団関係者による民族楽器からなる「フリー・ミュージック」の「実験音楽的」なバンドだった。
 が、自他共に「上出来!」と認めるライブを「天井桟敷」で演ってしまったから困った。
 当初メンバー全員、喜び、興奮し、意気揚々とレコーディングに望んだ。「好演」が評価された「メジャーデビュー」であった。
 ところがLPレコードの時代。 なんどセッションを録音しても「これから良くなる!」と
いうところでレコードの片面収録時間のリミットを超える。
 メンバーの中には苛々しだす奴も。 
 「収まる様に大まかな流れや時間区分を決めよう!」となった。

 それが「致命傷」となった。

 そう! そもそもの「フリー・ミュージック」の定義に反する、見事な「本末転倒」
 そもそも「実験音楽」であったし、「ライブ」はまるで「業」の様な気持ちのメンバーと、「音楽作品を世に問う」意識のメンバーのズレが露呈したのであった。

 今でこそ、半ば「笑い話」であるが、当時はそれほど「音楽に対して真剣」だった。
 だからこそ、後にCD時代になって井上氏は「あの録音」をついに発表した。
 丁寧に僕のところにも伺いを立ててくれた。
 CDならばライブ音源を「切らずに」収録出来た。 「時代が早過ぎた」?
 
 このレコーディングがきっかけで「ヒカシュー」は分裂解散。 僕は井上氏にも応援してもらって「日本初の民族音楽ライブスポット」を初めたのでバンドを抜けた。
 その後にヒカシューは人気「テクノバンド」となり、僕らのバンドは「プレ・ヒカシュー」と命名された。

 1970年代のロック、ポップス・バンドの多くも、ごく一部を除いて「本末転倒」に気付いて「解散」した。
「ロックが売れるのは宜しい」「コンサートに沢山の人が来るのも宜しい」
否、、むしろ「かくあるべき」「そうあるべき」

 だがしかし「ビジネスとして成功してはならなかった」
 
 何故なら「サブカルチャー」の「象徴」だったから。

 
 その歴史を知らない今の若者は、
 「ロックが若者の心、感情の代弁者」と言いながら、メジャー・デビュー
 し「ブレイク」する事を目指している。
 「アンダー・グラウンド」などという言葉もきっと通じない。
 
 そもそも「アンダー・グラウンド」が「マイナー」の立場で発信力を強め
 受け入れる層も充実して「インディーズ」が生まれたのだが..............
 今ではそれが「ブランド」になる。

 「無印良品」もしかり。 ブランドになってどうする。
 
 あらゆるものが「本末転倒」に「メジャー」「メイン」になってしまう。
 
 総理大臣が次々変わり、似たり寄ったりと批判する、野党も実際似たり寄ったり。
 宰相がめまぐるしく変わる時代。 その後にどんな時代の節目が来たか? 
 歴史を振り返ると恐ろしくなる。

 「王座」に座る者の「格」の品質低下
 相撲にしても拳闘にしても。 音楽も演劇も、伝統芸能も。
 
 「王座」を狙う者も同じ様に質が低い。
 未来ある若者が「今流行っているスタイル」を「時代が求めているスタイル」
 と言って追従しようとする「安直さ」には、悲観的にさせられる。

 かと思うと「今迄誰もやってない様な音楽」と言いながら、
 「色々な音楽をMIXして」とか言われると、悲しみを通り越して憤りさえ憶える。
 「いちご大福」じゃああるまいし。
 何故「素材」:から創らんという気概が無いのか? 
 もしくは「古いものをいじらず新しく聞かせる」という賢さ、センスが何故ないのか?

   
 11月6日(火)    「輪ゴム」
    「輪ゴムの箱」
 一体何十年デザインが変わらないのだろうか? 
 調べてみると、「共和」の輪ゴムは1923年(大正12年)創業。
 日本銀行が紙幣を束ねるのに用い急速に普及した。
 10年程前のインドでは「大型ホチキス」や「針」で束ねていた。
 危険な上にお札は穴だらけ。 輪ゴムは画期的だったのだろう。

 84年もの間には「箱のデザイン」も何度か変わっただろうが、
 僕の記憶では子どもの頃からあまり変わっていない。
 粋にも英語で「紐より清潔」と書いてある。

 紐を数千年も続いた「メイン・カルチャー」とするならば、
 「輪ゴム」は「サブ・カルチャー」か?

 「紐」の文化は奥深い。
 その素材を見てみても、昆虫由来の絹、綿から作った糸、繊維を取り出した麻
 繊維から作った紙、動物由来の毛糸。
 木の皮や、薄く剥いだ木、自然素材は心が和む。
 糸の紡ぎ方にも古今東西深い文化と歴史があり、糸から紐を撚るのにも文化がある。
 
 その「結び方」には、「組紐」の様な芸術もあり。帆船の縄にも歴史がある。
 時には「命綱」にもなり。出雲の神社には日本最太の縄を見た。
 力士の腰に巻かれると思えば、昔は「火縄銃」にも使われた。 
 20年前のインドの「タバコ屋」には、朝開店から夜閉店まで「くすぶりっぱなし」
 の「火縄式ライター」があった。

 「輪ゴムだって負けちゃいないさ!」
 「子どもに玩具は要らない」「欲しけりゃ自分で作るもの!」
 と父に叱られ泣く泣く作った「ゴム鉄砲」
 
 「お客さんミュージシャンですか?」と話しかけて来た福岡のタクシー運転手さん
 グループサウンズ流行期に、弁当箱に輪ゴムの弦で「ペケペケやったもんですよ」
 明太ロックの原点を見た? 

 50年後の「音楽辞典」で「明太ロック」を引いたら
 「昭和30年代の福岡の子ども達が明太の箱に輪ゴムを張ってベンチャーズを真似たのが原点」
 と有ったら愉快だ。

 残念ながら僕はそれを読めないだろう。
 そして、残念ながら、輪ゴムにはそれほどの面白い話しは無い。

 「紐」には到底及ばない。
 
 しいて言えば「便利」「直ぐ束ねて、直ぐほどける」その上「紐より清潔」

 汚れれば洗えば良いじゃないか!

 「便利」が「メイン・カルチャー」になってはならない。

 「サブ・カルチャー」でもあり得ない。

 最早かれこれ30年
 「消費文化」「便利文化」

 メイン・カルチャー、サブ・カルチャー、ハイ・カルチャーと言うより先に
 そもそも「文化」がありはしない。

 もし「輪ゴム」の数倍も「耐久性」のあるものが発明されたら。
 あの懐かし箱はあっと言う間に消えるだろう。
 
 それでも「紐」は廃れない。 取り巻く文化も廃れはしない。
 
 文化は便利に宿らない。
 
 手間暇掛けて,面倒で、時間も掛かれば、器用さが求められる。
 根も使えば気も使う 

 むしろ文化は不便に宿る
 
 手間暇掛ける 心が籠る。

   
 11月7日(水)    不思議な一週間
    なんだか不思議な一週間。

 関西の演奏のお仕事が急に決まって、その後のライブも急なお話なのに
 快く引き受けて下さって。

 大学のお話は、教授自らお電話で来ました。
 でも、詳細がメールで来ない。メールしてもお返事が無い。
 「ホントかしら? 有るのかしら? ただただ待ってて井の頭?」
 電話のお声のあまりの悠然が気になり出した頃
 「今東京! 今日吉祥寺に行きます!」
 
 お会いしてみれば、全てが解決、全てが納得。
 「悠然な声」は、教授でありながら全国有数のバッハを歌うテノールさんだったから。
 東京の演奏会にゲストで呼ばれ、終演後駆けつけて下さった。

 メールが来ないのは、超苦手なアナログ人間だからだそうです。
 一気に話がまとまり、プログラムの進行迄、僕のアイディアが次々決まって!
 打ち合わせから盛り上がってノリノリ

 神戸のBlog仲間さんのお店でのライブの話も、
 「一週間しか無い!」「稼ぎ時の日曜夕方」「本来はディナーと込み」
 なのに「若林さんに来て欲しいから」と、リーズナブルな料金で、急遽決めて下さって。
 大阪のマイミクさん達も「都合付けて行きます!」とおっしゃってくれて。

 名古屋の大学教授さんは「残念ながら行けない!」とご自身の日記に
 まさか名古屋からご足労は考えていなかったのに。
 「代わりに誰か是非行って!」の日記の中で、
 むちゃむちゃ褒めて下さった。 
 「書かれる日記の内容がまた良くて、感心、感動ものです。いつも楽しく読ませていただいてます。また厳しい内容の時も、その説得力のあるのにまた感心。演奏も歌もすごいのに、ここまで文章にできるというのは、本当に稀有なことだと思います。」
 
 ほとんどコメントは無かったのに。 読んでくれていて、しかも感心してくれていて。 むちゃ嬉しいです。

 思えば、この一週間不思議な日々でした。
 10月30日(火)とっても嬉しい感じでChaChaChaのライブ。翌31日(水)はノグジュン、アジと嬉しいライブ影絵(Silhouette)、ライブ後はガーナ人と盛り上がり!
 東京戻って翌日は東京音楽大学付属民族音楽研究所「社会人民族音楽講座」の初日。
 翌土曜は、なんと朝から停電!  

 「銀行引き落とし」に極力抵抗者。
 「便利」に騙されて、勝手に引き落とされる。自分でしっかり収めたい!
 その日暮らしのミュージシャン。 入金は遅れるが、引き落としは待っちゃくれない。そこに九州東京行ったり来たり。
 
 「やらかしたか?」 んな筈はない。 ちゃんと払った筈。なんで?
 電柱から我が借家の庭までの間の電線の皮膜劣化でショート。
 電柱にもヒューズがあると初めて知りました。東電さん、土曜なのに対応早かった! 
 それでも午後まで珈琲飲めずに携帯、パソコン充電出来ず。かなりのロスでした。

 そのまま表参道でインド音楽ライブ。 けっこう集まって盛り上がりました。
 ところが度真ん前のラスタ青年。彼女とシャベクリっぱなし。
 吊られて青年の隣に座った知り合いの女の子もシャベクリっぱなし。

 どうも最近の馬鹿たれは、ライブもBGM感覚らしい。
 ノセてくれない静かな音楽はBGM  カルチャーショック!

 日曜は教室。 そして月曜火曜で福島、兵庫の楽器とPAの発送。
 引っ越し終わってないから、楽器を出すのが一苦労。

 その合間に、原稿書き「音楽之友」と「アラブ文化本・九人の共著」の校正
 西日本新聞連載の原稿。Web-Magazineの写真用意。

 同時進行で「福岡・猫さんの会」の企画書作成
 猫さんトイレ砂買い出しで自転車に飛び乗り交差点で転倒!
 ゴムベルトが車輪に巻き付き、あわや!車に轢かれそう。

 守られている時、「やんなさい!」とされている時は無事なものです。
 打撲ですみました。 でも、いてててて....................。

 マイミクで猫さん家族に愛されているAさんとBさん
 「信じられないシンクロ! タイミング!」とメッセージをくれました。
 
 僕が「福岡・猫さんの会」のご案内をして、「猫Song楽団」では
 「愛猫さんの詩を曲にして演りたいのです!」と言ったらば!!!!

 Aさんの愛猫さんが、悲しい旅立ち。 病院でだから胸が締め付けられました。
 悲しみの中で「詩」を書き、曲を作って「若林さんに歌って貰おうか?」
 とBさんと話ていた矢先に僕のメール。

 BさんはフジTV「ペット百科」に僕を出してくれた人。
 Bさんにも「愛猫さんの詩お願い!」と言ったら、早速日記に良い感じの散文。

 若林流作詞術の説明が必要だったので、散文をお借りして、僕も写真に一目惚れした愛猫さんの「詩」を書かせてもらいました。 

 ところが一日近く経っても返事が来ない。
 失礼だったか? と思いきや
 とっても褒めて下さった。 泣けて返事が書けなかったと言って下さった。

 Bさんの曲のTp、Sax、Piano、Bass、Perc、Violinのアレンジとイントロ作曲。
 五時間で出来てしまいました。
 色々な事をやりながら、合間合間に。原曲が素晴らしい事もありましたが、
 
 「やんなさい!」の力を感じます。

 この一週間、なんだか全部その感じ。
 
 「うわ〜っ!」という程、武者震いする程のインスピレーションではなく
 「ふわ〜っ」とした感じだから
 「やんなさい!」の感じ。

 気付けば、自分の回りの人々も
 何度も合った事のある福岡のマイミクさん。
 Nさんは悲しい悲しい猫さんの話を、明るく語ってくれました。
 とっても共感、共有出来る哲学、観念、感性と共に。

 Mさんの日記もこのところ凄い。
 「憂いが悩みになり、その悩みが思考を促している」
 今の世の中、自分の不満、不安、自信のなさに悩んだり、逃避したりする人の多い中「損な性分」が良く似ていてびっくり。
 
 「色々力を合わせて行きましょう!」という嬉しい展開のRさん。
 でも、念を押して、幾つかの懸念を話せば、
 Rさん! 僕とそっくりな人だった。

 さて明日は、福島。
 と思いきやメンバーの一人が「福島なんて聞いてない!」
 知らぬ間にPCのアドレス変わっていて、届いてなかったらしい。
 一瞬お互い嫌な気分。
 これでせっかく盛り上がった音付き合いもアウトか?
 昔の様にここで折れても同じ事の繰り返し出し。

 と思いきや、とっても良い感じで分かり合えました。
 やっぱり良い子でした。良かった良かった。

 「アドレス変更連絡」の怠りと「エラー報告の無視」が災いした
 ガチンコ事件。 
 PCから携帯に「自動転送」にしている人が増えて、PCには届いているのに
 携帯で跳ねて「エラー」が出る人が多いので、数十人に同報するとチェックが間に合わない。 たいがいそれはdocomoなので、思い込んでしまう。

 週末はちょっと大変。
 10日にDJ:MOOCHYに代官山のイベントでの共演を誘われました。
 18日の福岡のプレも兼ねて丁度良い!

 と思いきや、出番が深夜の2:30!!!!
 クラブ・イベントじゃ常識だけど、もう数回「若林は猫さん晩ご飯に終電で帰る」
をしていたから「定着」したものと。
 兵庫の楽器を取りに朝帰りして、猫さん朝ご飯上げて、新幹線。

 寝過ごしたら「博多」

 広島まで牡蠣食べに行きたいなぁ

 横ではプリンがぴったり寄り添う。

 さっきっから、何度も
 「肘カックン」してて可笑しい。

 静かな夜です。  って、もう三時間しか寝れん!

   
 11月8日(木)    サブ・カルチャー2
   Blog仲間さんであり、遠方転勤と成り「休学中」のお弟子でもある70'SoulMateさんが
11月6日のBlog日記の「サブ・カルチャー」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=614886832&owner_id=327576に興味深い経験談と想いを語ってくれました。
 コメント返答にしては長くなるのでここに書きます。

 彼のポイントは大変興味深い「表現」「切り口」でした。

「(前略)そんな追体験世代の印象論でしかないのですが、(当時の)サブカルチャーの原動力は「反応」と「反動」、一言で言って、「ズレ」を愉しむ感覚なのかなぁ、などと思っていました。 (中略)そうした「ズレ」ばかり求めているうちに、音楽を聞いて得られる感動が擦れていってしまい、何を聞いても面白くないような不感症に陥ってしまいました。
 本質的な「音」そのものの根源的な魅力や、「音楽」そのものの深く不思議な魅力、といったものからは程遠い世界。 DJやラジオ局の編集など、言わば、耳年増なスノッブ連中にはそんなのが多い気がします。本当は単純に好きだったはずなのに…。情報が増えれば増えるほど、逆に感性が鈍化していくような…。 」

 
 同じ日記のBlog仲間さんのコメントにお返しした「サブ・カルチャー分類」
に加えて「名称のトリックと誤解」を考えなければならないと、思います。

 確かに「資本主義」に対して「社会主義」「共産主義」
「カソリック」に対して「プロテスタント」。「スンナ」に対して「シーアー」もしくは「スーフィー」。「与党」に対して「野党」。「メジャー」に「マイナー」。
 
 挙げれば切りが有りませんが「対峙構造」をして「サブ・カルチャー」を理解するのであれば、「反応」から「反動」を感じる者が居て、その「ズレを楽しむ者」も現れる。
 70'SoulMateさんの面白いところ(私個人としては優しいなぁ、好きだなぁと思う所)は、「意固地になる事で自己認識をする(無意識に『したい』と感じる)」人が多い中で「ズレを楽しむ者」だったところです。

 これらの「対峙構造」については絶版となりました、1985年の拙著「アジアを翔ぶシターリスト」に書きました「アンチテーゼの観念の限界」で述べました。
 奇しくも私と同じ時代に、「音楽」を通じて同じ様な体験をした70'SoulMateさんも、やはり同じ様に「アンチテーゼの限界」を体験。 そもそも「70年代ヒッピームーブメント」を「最終段階」とした戦後のサブ・カルチャーの終焉も「アンチテーゼの限界」だった。アメリカでは「ヴェトナム戦争」日本では「学園紛争」と随分規模も悲惨さも違います。それほど「守られていた(善悪は言ってません)」証でしょうけど。

 つまりは「サブ・カルチャー」を「アンチテーゼ」と極解、誤解する事の「間違い」の根底にある、そうしたくなる事、そうしている事で得られる「人間のある部分」の大きな問題と危険性は、実は「逆もまた真なり」「両極端は同一成り」にたどり着きます。

 「アンチテーゼ」を単純に「否定」「反発」「反抗」とした場合「肯定」「順応」「賛同」とは「真逆」の様で居て「根本的」「究極的」には「同じ」と言う事です。
 根底的に「人間のある部分」から「発している衝動」を見据えた時「流行」「時勢」「メジャー」に「逆らう事」は「追い求める事」と同じ「満足」「安心」「アイデンティティー」を得ているのです。
 こうなると、最早「辛党」「甘党」の違いの様なもので「だから何なの?」のレベルです。

 その点で、70'SoulMateさんの「認識」が興味深いのは「どっちつかず」な点。
「ズレを楽しむ」感覚は「電車の連結器の上に居る」様なものです。
 誤解を受けそうな下世話な例えですが、首都圏の早朝に「女性専用車両」がありますが、ニューハーフの方が「電車の連結器の上に居る」様な面白さ。 
 これは「あと一工夫」で「シュール」の世界に到達出来やしまいか?とも思います。

  私の日記「何もしない」は「何もしない(中道と言えば聞こえが良いが)」「どっちもする」に関する提言でした。
 70'SoulMateさんが何故「無感動」すなわち「ズレの楽しみ」に「飽きた」のか?
それは、「電車の連結器の上に居る」面白さを楽しんでいても「所詮は同じ線路の上を、同じ方向、同じスピードに進んでいる」という「虚しさ」「アホらしさ」に「気付いた」からなのです。「自覚の有無」に関わらず。

 
 「サブ・カルチャー」と言う「呼称」の問題点のもうひとつに
「ハイ・カルチャー」の「反対語」も「サブ・カルチャー」「メイン・カルチャー」の「反対語」も「サブ・カルチャー」である点です。
 「ロー・カルチャー」と言う「呼称」に対する「抵抗感」を配慮したものだとしたら、誠にお粗末。 そうではない筈が、結果(一般の理解)は、そうなっています。
 「サブ」の説明も不足していますから「アウトロー」「アンチテーゼ」と誤解され易い。
 
 現在の世界文化を見た時、多くの方が「消費文化」「大衆に媚び過ぎた文化」と憂い、その意識を持つ人は急速に増えていると思います。
 しかしながら、この現象を「現代的」とか「人間の欲、狡さ」を「放置した結果」と見るのは早急(安直)です。 なぜならば、この「本質」と「構造」は古代から有ったからです。

 それ故に、私は「スロー」と「ファスト」で語っているのです。
 
 しかしながら、それとて「理解の入り口」に過ぎません。
 
例えば........。これも誤解を受ける例えですが、
「メイン・カルチャー」を「時勢的流行的主流」と捕えて、その一例を「ブランド志向」とします。「アンチ・ブランド志向」は「サブ・カルチャー」という事になります。

 どちらも「そう志向する事で自己認識を得ている」訳ですから、仮に「ブランド志向」を「大衆的」「低俗的」とした場合(そう語る人は少なくないですよね)、「孤高のハイ・カルチャー」に対する「ロー・カルチャー的意味合いの」「サブ・カルチャー」となってしまうのです。
 すなわち「ブランド志向」も「アンチ・ブランド志向」も「サブ・カルチャー」
 「あれっ??」「本末転倒」の世界です。

 ここに「メイン・カルチャー」不在の現実を見るのも良しですが、別な次元で考えてみると、「非メイン的なサブ・カルチャー」と「非ハイ的なサブ・カルチャー」という「異なる二種類の混同」「呼称の不備」ではなくて、実は「サブ・カルチャー」からモノを考えるべきではないか? というパラドクスにたどり着きます。
 
 すると、「非俗的と「俗的」が同じ?という矛盾が無くなると同時に「ロー・カルチャー」と言わない理由も見えて来ます。
 すなわち「多数意見」を「メイン」とし「少数意見」を「サブ」とする様な理解では「サブ・カルチャー」を理解したとは言えない事に気付くのです。

 「多数が従う」のを「人間の本質」としてしまい、それを「メイン・カルチャー」であるとする「錯覚」「誤解」を続けていると、永遠に分かりませんが、「サブ・カルチャー」を人間の本質とすると、全ての『謎』が解け始めます。
 
 「サブカルチャーの原動力は、反応と反動」の言葉に有る様に。
「疑う原動力」の「具現した」サブ・カルチャーと、「疑わない」姿の象徴であるメイン・カルチャー。という「対極」があるとするならば、「疑う事」の方が「本質の理解」に近い筈なんですが、 「我が儘」「意固地」「身勝手」が強いと「そこで止まってしまう」そしていずれ「慣れて」「惚けて」しまう。

 70年代の音楽ファンは異口同音に「俺はオヤジに成っても演歌は聴かん!」と豪語していた筈です。が、歳取ってみると「演歌的に音楽を聴いている」それがロックであろうと、ジャズであろうと。 ならば同じ。「アンプラグド」が「団塊の世代」に支持されたのは「自然志向」ばかりとも言えません。

 この「皮肉な同一性」は、簡単に説明出来ます。
 その昔、(今もそうかどうかは知りませんので)
 小学校のガキ大将、悪ガキは「好きな女の子にワザと意地悪をした」ものです。
 「野の花を摘んで」プレゼントをする事が「メイン・カルチャー」で「トカゲの尻尾を投げつける」を「サブ・カルチャー」だとしても「その女の子が好き」という「表現」の違いに他ならないのです。

 「一人の人間の中に全てがある」「宇宙さえも」
 というヒンドゥー教の「観念」に学べば、サブ・カルチャー志向もメイン・カルチャー志向もハイ・カルチャー志向さえも「同じ人の中に存在する」訳です。
 「理性と本能」「良心と悪しき心」なんでも良いです。突き詰めて行けば、それらの「両極端」は「人間が気まま、我が儘」に「バランスを取る為」の「口実」に過ぎません。
 
 「必要悪」という日記を書きましたが、
 もし「良い形でバランスを取り」「理想の方向性」があるとしたら
 それは「メイン・カルチャー」を鍛え、その不備を直させ、逞しくさせる為の「必要」な「反抗分子」的な「サブ・カルチャー」の存在と、その二者の「理想的」な「対峙」「せめぎ合い」です。

 何億人の何千年の歴史を「一人の人の日記」に例えるならば、「歴史と伝統」は、忘れない為の「日記」の様であり。学んだ「良い、素敵」と思った事の「メモ書き」の様なものです。
 
 故に「歴史を学べ!」としつこく言って来たのです。

 「歴史を振り返ってみる事」ではありません。 
 「歴史」を「現象」「結果」として見るのではなく「突き詰めて」「本質」「理由」を知ると言う事です。

 が、敢えて「ありてい」に「歴史」を振り返って言うと、
「お行儀の良さ」のメイン・カルチャーに人間性を疑い「お行儀の悪さ」に「心」を求めた70年代のサブ・カルチャーの「挫折」の後に、一時「物質文明」「精神文明」の対峙がありました。 
 70年代の「対峙と挫折」では日本はおそまつな「後進国」でしたが、80年代には皮肉にも「世界的に有名な醜態」を晒し、一躍「先進国」と成りました。 都心の地下鉄と富士山の麓の「新興宗教」の事件です。 
 教祖と言われた者が「札束」という「唯物の権化」を抱きかかえて屋根裏に隠れていた話は、日本人が認識していない程、世界をガッカリさせたのです。それは80年代サブ・カルチャーを敢無く「挫折」に導くに十分過ぎる出来事でした。

 70'SoulMateさんのコメントの中に在る
「よっぽど、農家の人が農作業の後にいつもながらの民謡を聞く、島人(しまんちゅ)の爺さんが三味線を食後に愉しむ、等々の方が、音色の甘さや玄妙さを味わっているのだろうな、とつくづく思います。 」
 に、和まされます。

 古今東西の色々に関わらず「素朴」「慎ましさ」の中に「戻るべき本質」がある事を示唆しています。
 「無学」を「恥じる」のではなく、むしろ誇りにして居た時代もあります。
 世界の歴史を振り返ると、そっちの方が圧倒的に長く、広範囲です。

 これからの時代「学問」「テクノロジー」は「復旧」の道にその「意義」を持ち、そこに新しい「経済的発展」もあり得ますが、過去の「千年」人類は「神学」から離れた方向にしか「学問」を発展させませんでした。少なくとも最近の数百年は。

 振り返れば「権力」も「経済」も「イデオロギー」も「学問」か「武器」を持った者達が牛耳り、持たない者を犠牲にして来ただけ。  
 その「過ち」を否定しない「カルチャー論」は、どれを良しとしても、どんな形を理想としても、いずれは「飽きる」 そう思います。

   
 11月8日(木)    ハイ・カルチャー
    生き物愛護主義を唱えている者が「太鼓」を叩く事は究極の矛盾ではある。
 「音楽には怯える者と恐れない者の二種類の人間が始めた二種類が有る」と「スローミュージックで行こう」(2005年11月岩波書店)に書いた私が、前者の象徴である太鼓を叩くなど、もっての他でもある。が、ある事を伝えたいが為に「太鼓の皮」の話から入る。

 動物は、呼吸をし、また胃袋一杯の食物を取り込むため、腹の皮は伸び縮みする。背中はそれほどではない。よって「程よく伸び、反発力がある皮」は、一頭の山羊皮から取れて二枚。「最高級品」である。 三四枚程であったならば、中級品が取れるかもしれない。 最善策は一枚の「上級品」二枚の「中級品」数枚の「低級品」を取る技だ。

 皮肉な話、 否、切ない話だが、「皮」も「木」も、楽器と成った後でも「生きている」
良い音を鳴らし、適度に緩め、適度に張ることを、季節、温度湿度に応じて正しく繰り返すと、その音は更に良くなって行く。 「不均一」だった皮さえも、真円に近い欲で来た太鼓に張り、正しく演奏されると、年々音の伸びとまろやかさと、音の輪郭が美しくなる。
 「打てば響く」などという次元ではない。「家畜」と言えども「頂いたもの」は極力大切にすべきだ。

 人間は様々な素材から様々なものを作り出した。
 その水準はかなりの域に達している。 冒涜な言い方であるが、それは最早「神の域」にも近い。 「神業」と言われるレベルである。 
 その肉体に関しても、近年こそ、不自然な科学的、医学的操作がなされているかもしれないが、極限と思われていたレベルを遥かに超えて「記録」は更新される一方だ。
 対する「精神面」は如何なものか? 
 スポーツから芸術文化に至る「道」が付く様々なものの「粋」も「質」も向上して来た。
 
 このところ、若者に如何にして「サブ・カルチャー」「ハイ・カルチャー」「メイン・カルチャー」の区別を伝えるかに没頭している。
 そんな先日、Blog仲間さんのAさんの日記にたいへん励まされました。
 「Noblesse Oblige」
 恐らく現代風に改作されているのだろうけど、今の時代に於いてむしろ「毅然」としていて「凛」としていて、素晴らしかった。
 Aさんご自身が「そう」であるから、そのフィルターに濾されての事であろう。

 「意固地な非俗」に凝り固まらずとも「真っすぐ」「素直」で「謙虚」で「冴えて」居られるライフスタイルを持てる、と実証してくれている様で嬉しい。

 Aさんのイメージに似つかしくないが「おから」と「酒粕」を想い出した。
振っておいて恐縮だが「私もおから好きです!」のコメントは「ちょっと待った!」
 二三回読み直してからにして下さい。

 話は、相変わらず、「サブ・カルチャー」「ハイ・カルチャー」「メイン・カルチャー」

 大地の滋養を逞しく吸い上げた「大豆」から「豆腐」を作り出す「伝統の技」と「知恵」
これは「何カルチャー」か? そういう話だ。

 蒸した大きな笊一杯の「大豆」から、どれだけの「豆乳」が獲れて「おから」が獲れて、どれだけの「木綿濾し」「絹濃し」の豆腐が取れるか?

 この豆腐を作るのに欠かせない「にがり」
 この「にがり」はどれほどの「海水」から獲れて、どれほどの「塩」が獲れるのか?

 どれほどの量の米から、どれだけの「酒粕」が獲れて、それだけの「清酒」が出来るのか?
 その酒粕からどれだけの「粕漬け」が作れるのか?

 これらの「文化」は「何カルチャー」であろうか?
 何と呼んだら良いか思いつかないが、これは素晴らしい「叡智」であり「伝統の技」である。

 「ロー・カルチャー」という言葉は「抵抗感」があるが「庶民の味」として、
「おから大好き」「酒粕大好き」「粕漬け大好き」である。むしろ「おから」でお腹を膨らませていた時代の子どもであった。

 「おから」「酒粕」を「すばらしいロー・カルチャー」としよう。
 個人的には「木綿濾し派」であるが、「絹濾し」を「ハイ・カルチャー」としよう。
 しかし近年「薬」と「機会」で「絹濃し」が作られる。
 「豆乳」が「健康に良い」と宣伝されて流行れば「豆腐」を作らず「豆乳」を売る。
 「おから」が流行れば「おから」。「にがり」が流行れば「にがり」
 
 本来「高嶺の花」だったものが、イミテイションが作り出され、それで「満足」する。
 その文化は「何カルチャー」なのだろう。

 「大衆に媚びる」フリをしながら「騙す」その「知恵」も「叡智」の一環、一端と言えるのか? 
 「大衆的」「庶民的」というだけで、 今日の「どん欲さむき出し」「したい放題」「ほしい放題」の大衆に媚びながらのイミテイションを「ロー・カルチャー」の一環、一端と言えるのか? 

   
 11月8日(木)   おはようございます。
   やっと寝ます。でも、11:00には川越に向かいます。
  気付けば、Blogアクセス5万超えたばかりなのにもう+2400
今朝のご訪問、ともともさん、ねこねこさん、きむきむさん が並んでいて。 ひらかな丸字で ほのぼの でした。

 みなさん 何時もありがとうございます。

   
 11月10日(土)   そろそろ帰ろうか
    ながいながい散歩道    もうそろそろ帰ろうか
 それとももう少し歩こうか

 繁華街は疲れるね     疲れた顔や苛々の顔
 自慢げな顔や考えない顔

 まばゆいネオンやパチンコの音
 ここでは生まれてないだろう。

 林の中や 小川の端や 田んぼの畦道 長閑だね
 きっとここでも生まれたのだろう

 山から登る朝日で起きて 山に沈む夕陽で眠る
 でも我が家は見つからない

 何処迄も広がる青い海 切なく優しい波の音
 きっとここでも生まれたのだろう

 遠くに見える船に乗って 遠くの島に帰ろうか
 そこにも我が家はないだろう

 沢山笑って沢山話して 手をつないで何処迄も
 そう言っていた隣は今いずこ

 原っぱを駈けて  転んで駈けて
 泣いて笑って追いかけて 

 ブランコ漕いで ボールを蹴って
 追いかけられて笑って泣いて

 ギターを弾いて ハモニカ吹いて
 たくさん仲間が居たけれど

 気付けば誰も居なくなる
 自分の家に帰ったのかな

 ながいながい散歩道
 曲がりくねった散歩道

 もうそろそろ帰ろうか そもそも何処に帰ろうか
 探したところで見つからないし

 また同じ道を行く そこには初めて逢う人たち
 その繰り返しなのか、違うのか

 何時の日か「お帰り!」と誰かが言う

 「随分回り道してきたね」

   
 11月13日(火)   格言
    その昔、日本に限らず、世界には様々な「言い伝え」「格言」「ことわざ」
 がありました。
 10年ほど前「世界のことわざ」を「民族音楽で演奏し歌う」CDの企画が有って、
 お蔵入りしましたが、かなり集めたものです。

 そこで改めて思いましたが「ことわざ」を正しく理解している人って、実は少ない。
 
 ベンガルの神秘主義系の歌に
 「籠の中の鳥はどのように出入りするのだろう」という歌があります。
 行者は村々を巡って歌い、その教えを広めるというのですが、九割以上の村人がその歌の本当の意味
 「籠は実体。小鳥は魂」と思って聴いていないと言うのです。

 この虚しさ。 この無意味の様な現実。 それが人間社会なのかもしれません。

 「急がば廻れ」という格言があります。
 「急いでいる時は回り道をしろ!」ではないとは誰しも分かります。
 で「急いでいる時は落ち着きましょう」の意味で理解します。

 しかし「急いでいる時程、回り道に思える時がある」
 それどころか「急ぐべき時ほど、回り道、無駄道を神様は示し試すのだ」と解釈する人は少ない。
 
 私の祖母は「みんなで出掛けましょう!」と意気揚々と家族がお出掛けにいそいそしている時に
 何か探し物が出て来ない。すると家族全員で「大片付け」になってしまうので有名な人でした。
 「大片付け」しないと「出て来ない」のではなくて、「いざという時に出て来ない状況を二度と繰り返したくないから」の様です。「探し物」が出て来ても「片付け」は終わらなかったそうです。

 急がなきゃ待ち合わせに間に合わない! と焦り、苛々し、がむしゃらに走る。 
 ところがそんな時に限って、困っている人や、ずぶ濡れの子猫に遭遇する。
 「見なかった事にして」待ち合わせに間に合った時に限って、相手が遅刻だったりする。
 ならば、と次から「見なかった事にして」を改めると、相手は定刻に来て「時間にルーズ」と言う。
 確かに早め早めに動いていれば、人助け、猫助けをしても間に合った。
 ならば、と早めに出掛けるが、得てして困った人にも猫にも遭遇しない。

 宗教や文化によっても違いがありますが、私の知る限りでは、ヒンドゥー教はかなりに
 この虚しさ、神の意志の無情さを説いています。
 25年前に「アジア子供会」を企画した時に、イソップの様な「道徳的教訓」の「昔話」がアジアに無いのに愕然としました。
 むしろ徹底的に「無情」「無常」を説く。 徹底的に「人間の道徳観」「良心」の脆さを攻撃して来る。

 「スローミュージックで行こう」(2005年11月岩波書店)に書きました
「インド音楽小咄」
 デビュー演奏の後師匠が大剣幕「誰があんな事を教えた!勝手に演って台無しだ!」
 ひたすら謝って再度のチャンスを乞い、練習し直して「名誉回復」の雪辱戦。
 「今度はやり遂げたぞ!」と思いきや、もっと大剣幕
 「お前は教えた事をなぞる事しか出来んのか!」

 分かってみると分かる話。 知らないとまるで「ガンジスの河の流れ」の様に
 似たり寄ったりの旋律が続くインド音楽の、細かな局面に於いて 
 「不変であるべき肝心部分」と「繋ぎ」の部分と「変化すべき部分」と「演奏者の裁量に委ねられる部分」と「ここぞ!とばかり、個性を出すべき部分」が在る。

 尤も、最近の演奏家は、あたかも「即興」の様に反復練習を披露する輩が多い。「カッコいいネタ」ばかり練習しているから、反復練習は十分足りていて、一瞬「おっ!」と思わせるけれど、二度聞いて「メッキが禿げる」なにしろ「毎度同じ」なのですから。 時と頃、空気によって自在に代わるインド音楽では「あり得ない」。 否、インド音楽に限らない。日本の「落語」も同じです。

 子猫を見なかった事にして急ぐか急がないか?
 それも「分かって見ると」様々な所に「因果」があるものです。
 

 インド音楽の若手の演奏の例と同じに。
 現代の人間は老若男女を問わず。「短絡的」傾向にあります。
 
 「悩まない事が得策」と誰かが言い出して、
 「考えない習慣」が増長。
 「考えない脳みそ」は当然のごとく「感じる力」も衰えます。
 のも関わらず「気分」を「感性」と誤解し安心し、
 「気分」がのさばる状態を「自由」と誰かが言い出します。

 「楽」は「楽しい」と教え込まれ殆どの人間がそれに従う。
 

 今一度思い直してみて欲しいです。

 昔の「格言」や「ことわざ」は、
 「今や労としている事」「気分」に「水を差す様なもの」が多かった。

 が、現代の「定説」「常識」「一般論」「良識」の殆どが
 「肯定的」であるか「しなくて良い」「苦労しなくて良い」
 と極めて「ポジティブ」「前向き」。 

 その「感覚」「観念」では、人間の数千年の「叡智」が生んだ「格言」「ことわざ」
 さえもが「楽な解釈」にゆがめられています。

   
 11月14日(水)  「安かろう良かろう」
   「安かろう!良かろう!」とか
「楽しかろう!良かろう!」はけしからん!

 と日頃言っておりますが........。
 今日はちょっとした、名案が浮かびまして。自分で満足しており。
 これはもしかしたら、人様にも役立つのでは? と

 猫暮らしの吉祥寺で、衣装のアイロン掛け。生家からの伝統的な「アイロン台」は猫さんの何の恨みを買ったのか? 爪は研がれる、おしっこされる、
で泣く泣く処分致しまして。

 アイロンも引っ越し荷物の何処へやら。
 ラオックスで¥2000もしないで買えました。先端の重みと温度が今イチですけど。まあ、どうにか。

 で、アイロン台。 床に正座してでも良いのですが、猫さん視界ではちょっと危険。 テーブルの上でやってましたら、職業病の腰がヤバい!

 そこそこ高い「立って出来るアイロン台」を求めて町へ。
 なんと! ¥1万超えてる! ヨドバシでさえ¥12000位!

 で、閃いたのがKey-Boad-Standの X型のやつ!

 ありました、ありました!  イメージ通りのやつが¥3675
 ロジャースでいっちゃん安い「アイロン台」が¥780 なので
 合計¥4455
 もちろんKey-Boad-Standは「Key-Boad-Stand」としても働いてくれ
 Balafonも乗っかるし、板を工夫して「Tabla-Stand」にもなるやも
 Percussion台にも............。って限りなく。

 ご家庭では、円材か紐を渡して、雨の日の「室内干」にでもご活用下さることも可能な訳で。 

 って、今日は、感覚が「主婦」しています。

 今も。Tabla-HammmerやらSitar弦入れの「ファスナー付小袋」に
 「滲まないゼッケン布(アイロンで着けるのじゃないやつ)」を貼っております。これによってセッティングと撤収の時間が節約出来る!
 ってことは「もう一杯ビールが飲める!」
 ここらが「主婦」とはちょと違う??

衝動買いで「ハンディー・ミシン」を買ってしまいました。
 これで小袋のラベル布の縁もミシンが掛けられます。

 アイロン台は、買った時のビニールにそのまま入れて、
 猫さんの気付かない高所の隙間に。 

 それにしても、新しい携帯のカメラ。今だ良く分からん。

   
 11月14日(水)   格言2
    昔の「格言」
 「急がば廻れ」
 
 最近では、
 「うん! 脇道知ってる人ってなんかカッコ良いよね!」
 

 昔の「格言」
 「果報は寝て待て」

 最近では、 
 「うん! ネットで注文したから、寝て待ってりゃその内届くよ」

 昔の中国の「諺」
 「愚公 山を移す」
 
 最近では、
 「山が邪魔なら、他行けば? どうしてもって言うならトンネルとか、エスカレーターとか着ければ良いじゃん」
 「大体そんな人本当に居た筈ないじゃん」

 居た。大分耶馬渓の「青の洞門」は羅漢寺の禅海和尚がノミ一本で掘ったと言う。
 「へ〜! 昔の人はたいへんだったんだね〜」
 今の人が「たいへんじゃない」根拠は何処に? 

 昔の「格言」
 「好きこそものの上手也」
 
 最近では、
 「うん! 分かる分かる。 やっぱ楽しくなきゃね!」

 

 昔の「格言」
 「人の振り見て我が振り直せ」

 最近では、
 みな同じだから、直す必要がない。 だいたい他人など気にしていない。
 「これってさぁ 昔の『赤信号、みんなで渡れば怖くない』ってやつ?」

 昔の「格言」って程でもないけれど
 「安物買の銭失い」
 
 最近では、
 「うん! そうなのよ! 頭来ちゃう!」「やっぱりブランド品よね!」
 
 ならば、
 「ただより高いものは無い」

 最近では、
 「それって、間違ってるっしょ! ただより安いものは無い。でしょ!」

 仏典にもあれば英語にもある
 「塵も積もれば山となる」

 最近では
 「そうなのよ! ちょっと二三日飲み会続くとさぁ。埃は溜まるわ、洗濯物も溜まるわ」

 
 英語にもある「格言」
 「情けは人の為ならず」

 最近では
 「そうよね、甘やかしたら駄目よね!」

 論語から出たという「格言」
 「任重くして道遠し」

 最近では
 「過度の責任負わせたら、潰れちゃうよね」

 
 「格言」
 「登り坂より下り坂」

 最近では
 「そうよね、楽よね!」

 新約聖書の「格言」
 「人はパンのみにて生くるにあらず」

 最近では
 「だよねぇ 毎日色々な美味しいもの食べたいよね」

 
 英語にもあると言われる「格言」
 「楽は苦の種、苦は楽の種」

 最近では
 「ってことは同じってことか。 なら楽ばかりの方が良いね!」

 英語にもあるという「格言」
 「割れ鍋に綴じ蓋」

 「意味ない、ってことだよね!」

   
 11月14日(水)   辞典「ア行」
    哀

「哀れみ」自分以外の生き物の感情や、物、景色、様子、状態に「シンパ(共鳴)」して感じる「悲しい」「切ない」感情。現代では「愛」と混同、「蔑み」と混同する人が多い。

 愛

「人類愛」「慈愛」「友愛」「家族愛」「親子愛」「師弟愛」などがある。「自己愛」の様に「勘違い」「倒錯」の場合も多い一方で、感情を超え、信念に基づく「犠牲愛」「献身愛」もある。コンプレックスにも左右される一方で「信念」にも支えられる。後者は「恋」「好意」「慕情」と区別される一方で「愛惜」に近づく。
 
 逢い

「出逢い」。「出会い」「出合い」に対して「心と心」「縁」の要素が強い。主に「一回目」や「初回」を言う。「縁」が濃い場合「運命的な出逢い」や「邂逅」などとも呼ばれる。「因縁」によるものも。

 会い  

「出会い」。「出逢い」に対して、「理性」「観念」「信念」「思想」の要素が強い。「出逢い」の域であっても「二回目以降」を言う場合も。

 合い 

「出合い」。人と人、物と人。物と物が「遭遇」する事。意思の有無の違いがある。「意思」「意図」「意識」が増すと「出会い」となる。現代の様に「心」も無ければ「信念」も無い場合、殆ど「遭う」に近い。
一対一でない場合が主。希薄な関係の現代はほとんどが、これ。

 和う

「相和す」「和える」。直感的な「出逢い」に「出会い」の要素、思考的な確信が加わり、互いに良い「必要関係」となったり「相方同士」的な「一体感」が得られた場合。現代では「連帯感」と区別されにくい。

 相方 

一定以上の期間、一定以内の距離を持って、一対一の関係を持った時の「相手」。同義(同様)の「関係性」があれば、「人と人」に限らず「物と人」「物と物」もある。

 愛嬌

にこやか、すこやか、明るく、可愛らしく、ひょうきん、まっすぐ、素朴、がMIXされた「様子」

 愛護

「愛をもって保護する」こと。出来れば改めたい言葉。「保護」は「信念」と「義務」で為されるべきであり「愛」が在るという「おごり」「自己満足」は不要。「愛」は「保護される対象が求めた時」に出すべき。

 愛着

「あいじゃく」仏教用語。 強い自己愛によって執着する事

 哀愁

「哀しみ」と「愁しみ」が合わさったもの。どちらとも言えない分、単独より「軽い」

 相性

「相方」との「感覚的」「生理的」なマッチング。本来は「占い用語」

 愛情
 
 「愛」と「情」という全く異なる二つのいずれもが「豊か」で「他者」に向かって優しく放たれている時の「心」を言い表したもの。 
 現代では「愛」と「情」をMIXしたもの。もしくは「混同」「混乱」したもの。または、それらを「区別」出来ない人が使う「美辞麗句」のひとつ。

 愛想 

「愛嬌」に「知恵」「礼儀」「気遣い」「作為的心理」が加わったもの。「偽り」の場合もあれば、「労り」「哀れみ」から来る場合も。

 間(あいだ)

 人と人、人と物、物と物、気と気、心と心、感覚と感覚、音と音、言葉と言葉、言葉と理解、など「相対する」ものの「空間的距離」「時間的距離」「次元的距離」を言う。「動物」は互いの「オーラ」がぶつかり合わない距離「テリトリー」を守り、互いに不可侵であることを最前提にして生きて居る。「人」も同様であるが、「人間」という文字に現れている様に「人」は「間」を保たないと「本能的なストレス」を感じ易いと同時に「間」の在り方、保ち方、作り方、「間」に於ける自分の在り方、保ち方、作り方にたいへん「拘る」とともに「苦手」「下手くそ」で「間があり過ぎても」「間が無さ過ぎても」「不自由」を感じる「不器用」な「生き物」である。

 相棒

「相方」の意味。 「籠屋」が一本の棒を共有した事から。

 曖昧  

元々は「魑魅魍魎」的な「不気味なもの」。現代では軽く用い「いい加減な様」を。

 明るい

「光を十分放っている状態」と「光を十分に反射している状態」の全く逆の二種がある。
いずれの場合も「曇り」「よどみ」「濁り」が無い事が決め手。「生き物」の場合「心」や「オーラ」「気」が「明かり」の「光源」であるが、「反射力」が強い、長けているだけの人をも「明るい人」と言う。人間は昆虫同様に「本能的」に「明るい」「まばゆい」ものを求める為に。二種類の区別、認識に甘い。

 飽きる

「馴れ」ではなく「慣れ」によって「有り難味」「感謝」が失われている状態に気付ず、「感動」「必要性」が感じられなくなった状態。「摂取過多」が原因の場合もあるが、主に「摂取」に終わり「取り込み」「吸収」「消化」されていない「精神的な胃もたれ」の様な状態。「無意識」に「消化出来ない」と悟った際に、潜在的な優越感が作用して「挫折」を「飽きた」に転化する場合も多い。

 「飽く事なき探究心」

 「馴れ」に陥って「未消化」「不理解」から「逃避」しない為に、「常に先に進もう」という「脅迫観念」に支えられた「自己満足」も在れば。子どもの様に「無心」に「興味本位」で突き進んで行くものもある。前者の場合「飽きる」「挫折」を防いだり、遅らせたり、誤摩化したりするのに「効果的」。
いずれの場合も、結果として「理解」「技」が残り「自信」に繋がる。が「探究心」と「心」を書くが「心」の有り様は別問題。「飽く無き探求欲」が正しい。

 灰汁(あく)

食べ物の素材に含まれる、目的にそぐわない成分。危険、毒な、成分。
食材に関わらず、人間も含めあらゆる物、者.及び、景色、色、音、香り、光、言葉にも含まれる。人間は肝臓、腎臓などによって「自然」に「解毒」及び「フィルター振り分け」「排除」しているが、現代では、その「能力の低下」と「灰汁/毒」の増加によって「間に合わず」に様々な「弊害」が「露呈」している。一般は、その主な原因を「ストレス」と言う「曖昧・便利」な言葉で片付けるが、「臓器」によって選別/解毒出来る「化学物質」以外の「灰汁/毒」による弊害が主原因。昔の人は「食べ合わせ」や「つき合わせ」によって減らす「知恵」を持っていたが、現代では「化学物質」が増えているのに「昔の知恵」に「倣わない」。

 悪

「灰汁」と「同源/同義」。
「善し悪し」の二元論に騙されていると「不要」「敵視」されるが、ケースバイケースであり「単にそぐわない」だけである。故に「毒にも薬にもなる」という「言葉」が生まれる。「悪」は「良くない」ではなく「この場合は敵である」であり異なる場面、場合では「良い/薬」である事も多い。否、その比率は「陰陽」半々である。 よって「良くない」として「排除」もしくは「無視」し「粗末」に扱った場合、「自然のバランス」を崩し様々な「弊害」を生む。意図的に加える場合「必要悪」と言う。が、「必要善」という反対語は無い。人間は「心地良いものを良し」とするからであるが「不必要善」の存在もまた「危険」である事には気付かない。
「灰汁」が熱湯で茹でる事で「分離」する様に「灰汁」も「悪」も「熱」に弱い。逆に言えば「乾燥」した「冷えきった」状態には強くはびこる。

 悪臭

適量を誤り、適所を誤った「香り」。高価な「香水」も化学的には「汚いものから発せられる」ものに近かったりする様に、「香水」も過多であると「悪臭」と変わらない。

 悪人

「そぐわない」事を「ワザと」「意図的」に、場合によっては「好んで」する人。気付かないでする、出来る人(悪気の無い人)の方が圧倒的に多いが、許される。

 「明日は明日の風が吹く」
 
風車の向きを定めても「風向き」は日によって、時によって変わる。「人の心」も「世の中の価値観」も「風向き」をアテにしていては進み出せない。「今日の風」に合わせたものは「明日には無駄」になる。「流行」を追う事は虚しい。
 

 与る

他人から「物」「機会」「情報」「立場」「権利」などを貰い「所有権が移行/譲渡」される事。 主に「無形」。

 
 預かる

他人から「物」「機会」「情報」「立場」「権利」などを一時的に受け取る。「所有権が移行/譲渡」しない場合、と表面上、現象上「移行/譲渡」したとしても、その後も「責任」が伴ったり「管理状態」も問われる。主に「無形」。例えば「音楽のレッスン」「芸事」「様々な技」の場合、本来は後者であるが「謝金」によって「使用権」が「譲渡(貰った,得た)」されたと思い込んでいる人が現代は圧倒的に多い。

 あたたかい 

「温かい」は、読んで字のごとく「水」にちなみ、「暖かい」は「陽」にちなむ。太陽が暖めた「水」もあるが、「温かい」は多くは人の手、心によるもの。「暖かい」は自然の恩恵によるもの。

 「当たらずとも遠からず」 惜しい様。 逆に「遠からずとも当たらず」は、駄目な様。

 圧力

「プレッシャー」。一定の力は、面積が狭い方により強く働く。「心の広さ」「許容力」「適応性」などが「広ければ」同じ「圧力」も弱く感じる。「外圧」に対してはより「広面」で受け止めると負担が軽い。「狭い心」「狭い了見」は強く感じ、継続すると危険である。「プレッシャーに弱い」という言葉は間違いで「了見、心が狭いので強く感じる」を「美化」した言い回し。

 頭

 距離的もしくは時間的な連なりの一番先。高さ的な連なりの一番上。必ずしも一番「上質」「重要」「上次元」ではない。 「頭脳」は立ち上がった人の最も上方にある「脳みそ」。その他に体中に分散する「脳みそ」や「嗅覚」「視覚」「聴覚」「味覚」「触覚」などの「五感」と「第六感」と「勘」と「感(霊感)」と「錯覚」と「暗示」と「心」で人は生き、動いている。

 阿呆
 
 思慮が足りない様。
しばしば「過多」で「使い方」「タイミング」が外れた「馬鹿」に対して、「タイミング」「使い方」はばっちりなのに、「物」「言動」「心」が「違ったり」「足りなかった」りする様。及び、たいがいがそう言う日々の人の事。

 

 彩/綾

光が「乱反射」する様な。表面がざらざらしたもの、直線的な溝が斜めや十文字に交差し、光を乱反射させて得られる「まばゆさ」や「複雑な色合い」。楽器の音も「乱反射」が好まれ、三味線やお筝は、内側に「綾杉彫」と呼ばれる刻みが彫られているものを最上級とする。「光」「色」「心」「言葉」「音」などは皆、乱反射したものが「心に優しく届き」「安らぎと豊かさ」を与える。

 歩く

一方の足が地に着いて、歩幅がほぼ一定で、ほぼ一定の早さで、交互に足を出す事。
「真っすぐであること」や「より速く」は「問われない」。自在に早さを変えられ、止まる事も出来る。両足とも地から離れる瞬間があるものは「走る」。体や体の一部が地に着けば「這う」。足が地についていても「歩幅」「早さ」が一定でないものは「彷徨う」「徘徊」と呼ばれる。「歩む(あゆむ)」は意思、心をより強くもった「歩き」。「歩み」はその結果、軌跡。

 安

「取るに足らない」「見窄らしい」「つまらない」ものを差す。
「不安」は本来「良くない意味」ではなかった。「安心」も良い意味ではなかったが、人間が「苦労」を厭い、楽を求めた長い歴史の中で、あたかも「良いもの」「理想」の様に変化してきた。その結果「安心」「安定」など、その場その場の「刹那的自己満足」を求める言葉が氾濫、横行している。 その一方で「安易」「安直」の様に「戒め」に通ずる、昔の名残の言葉も残っている。

 案

周囲の人々の「賛意」「顔色」に応じて「可変」させ得る「意見」「考え」

 

 【ア行の不要な言葉】
 「哀願」「愛玩」「愛顧」

   
 11月17日(金)   べっぴんさん と そうでない人と
    この二年、がむしゃらに頑張って来ました。
 四年前に立てた予定では、今頃は群馬県のちょっと手前辺りに引っ込んで
 猫さんと昆虫とのんびり暮らして、
 忘れた頃に頼まれて東京に出て来て演奏して.................。 
 ご隠居   の筈でした。
 
 それが、今年は福岡だけでも30余の楽団。充実の年でしたが、
 11月になって関西や、新潟、広島、そして長崎も動き出して。
 
 でも、今年の夏の禁断症状はきつかったです。
 「昆虫飼育」堆肥をかき混ぜ、発酵した朽ち木を嗅ぎ
 青臭いススキに分け入って。樹液のクヌギの林を這う。
 来年の二月で「月二三回の渡福」が100回を数えます。
 ペットシッターが居ない「昆虫飼育」は無理。

 西友さんにはお世話になっていますが、あれはちょっと酷い
 ほんの先週迄「鳴く虫CD」をアウトドアグッズ売り場で流していた。
 胸が痛みました。色々な意味で。

 そして今日、がむしゃらな数年を悔やむ葉書が来ました。
 「喪中につき新年の..........」

 錦琵琶の師匠が亡くなっていました。

 つい去年迄は、お年賀葉書を頂いたり、
 去年の11月にはリサイタルのご案内も頂いていました。
 「世界の師匠は十人十色」(ヤマハ・ミュージック・メディア)
 にご登場願い、私が教えを頂いている写真があります。

 本の中に書きましたが、シタールの左手で弦を引っ張る奏法では
 インド最古の流派の激しい手法を学んだ私ですが、
 琵琶のそれがなかなか出来なくて。
 それを師匠は九十手前の女性の細い腕で、いとも簡単に「くいっ」と。

 「合気道」などにある「気」の世界ではありません。
 肉体生理学では理解出来ない様なもの凄いパワーを出す「気功」の凄さも
 目の当たりにした事がありますが、それとも違う師匠の細腕。 
 パワーじゃなくて。 では何か?

 それは「心」

 私は、子どもの頃から人が「開かない!」瓶の蓋を開ける名人でした。
 「蓋の縁の内側のパッキングの気持ちに成るんですよ」
 「すると、ほらっ! ネ!」
 捻られ、擦られ、力を込められりゃ「パッキングも辛かろう」
 そんな風に想った時から「くいっ」と開く様に成りました。

 師匠の「くいっ」を見た時には、ただただ唖然。呆然。感動でした。
 自分の「蓋開け」とは結び着けて見ていなかった。
 
 それが、今頃になって分かりました。
 「心」が「琵琶」と一体になってたのだと。
 

 九十七歳でした。
 後継の娘さん、現家元が下さったお葉書には
 優しく綺麗な直筆が添えられていました。

 「自宅で眠るように 逝きました」

 お手製の煮っ転がしに、ビールまで下さったあのお宅です。
 

 早く通える様に頑張ります
 譲って下さるとおっしゃっていた琵琶のお金を
 早く貯めます

 口ばっかりになってしまいました。
 
 去年のリサイタルのチラシに
 「病気、その他による欠演はご容赦下さい」
 とありました。
 
 恐らく人にはあまりお話に成らない様な事も伺いました。
 その時
 「忍ぶ」という言葉「待つ」という言葉が思い浮かばれました。

 「耐える」「堪える」「我慢する」は全く感じられない。

 芸に、音に、人に 限りなく 優しい方でした。
 
 とても大きなものを、たくさん頂きました。
 
 ありがとうございました。

   
 11月17日(金)   ハンサム と そうでない人と
    今から、もう26年も前のインドで、
 「人には六種類ある」と学んだ
 
 ハンサムさんとそうでない男性と、自分がハンサムって思っている男性
 べっぴんさんとそうでない女性と、自分がべっぴんさんと思っている女性
 
 9年の独学の後の1981年、初渡印しインド音楽弦楽器シタールの最古の流派の最後の巨匠の内弟子と成った。 正確には、翌年師匠の長兄に弟子入りして正式な「Gharanedar-Shishe(流派の一員)」となった。 
 不思議なご縁で、シタールの師匠の家柄は、アフガニスタンからの帰化演奏家で、アフガン弦楽器ルバーブから中世北インド宮廷音楽の花形弦楽器サロードを創作した流派であった。中学生の頃から「シタールとサロード」を内心選びかねていた私に、神様は両方の兄弟師匠を一度に授けて下さったのだ。、

 サロードの師匠は、当時の家元、シタールの師匠の長兄、Ustad Umar Khan(1920〜1982)
1981年に弟子入りし、一端日本に帰国し、さあそろそろ渡印計画を立てよう!とした矢先に訃報が届いた。
 隣国バングラデシのコンサートに夜行列車で現地入りし、ホテルにたどり着いて、朝を迎える事なく逝ってしまった。 私は最後の弟子となってしまった。

 世が世ならば。 否、世の中が正しくあったならば、特急の特別席に乗るべき人物だったのに。
 自分も師匠の命を縮めてしまったのかもしれない。という自戒もあって、世を恨みインドの文化人、聴衆に憤った。

 人柄の素晴らしさは分からなくても良い。 せめて音楽の素晴らしさを分かって欲しかった。
それも分からないのなら歴史的な価値。 師匠がどれほどの巨匠に学び乞いを許されたか。
 それをも理解出来ないなら家柄。 12代続く宮廷楽師。 師匠の祖父はヴィクトリア女王の御前演奏をした。 師匠はその父親とムッソリーニ、ヒトラーの前でも演奏させられた。 「インド音楽家を代表して」どころか「イギリス連邦音楽家」としてである。
 
 1945年頃の音楽業界紙に三人の演奏家の写真がある。「サロード三羽烏」
 一人は現在の巨匠を60歳の頃に作り90過ぎ迄生きた。もう一人は以前日記にも書いた
 90過ぎに「ああ俺はまともなドさえ一回も弾かなかった」の最後の言葉を残し弟子達を困らせた巨匠。三人目が師匠の父。 早世だった。

 1945年前後、第二次世界大戦、太平洋戦争が終わった頃。 洋の東西で社会は大きな転換期を迎えた。その激動の時代を通り過ぎる迄健在だった有力者は、その息子をも有力者にする事が出来た。逆は悲惨であった。

 生意気にも私は、「ああ!まともなド」の孫に習う機会を蹴った事がある。
 「名前」「家柄」には騙されない。「人として魅力が無い人」に学んでもしかたがない。

 Umar Khan師は、中身も外身も完璧な「ハンサムさん」だった。

 カルカッタの問屋街を歩く時、数m毎に数分休んでいた。この私に「ごめんな」
 「最近胸が苦しくて」

 誰が見ても師匠は問屋街の雑踏に「浮いていた」
 体調が優れない貴公子が、怒号が飛び交う夕方の市場を歩く。悲惨さしか感じられない。

 私は申し訳なさを通り越して「なんでイルファンに命じなかったのですか?」と訊いた。
 イルファンは、師匠の次男。 現家元である。

 長男は早くに結婚し子だくさんの為に放送局のスタジオ・ミュージシャンとなり、ソリストの立場を捨て、後継を弟に譲っていた。
 結局はイルファンも不当な苦労を強いられた。祖父も父親も早世だったから。
 

 師匠は、私の為に問屋街で「楽器の弦」のまとめ買いの道案内に出掛けてくれたのだった。
 「楽器屋で買うと10倍だ」「勿体ない」

 その当時、なんでそこまで! と悔しい思いがしてならなかった。

 「清貧」   そんな言葉も観念も持ち合わせていなかったから。

 「なんでイルファンに命じなかったのですか?」

 師匠の返事に驚かされた。

 「あいつはハンサムだからさ」

 
 私の錦琵琶の師匠のそのまた師は、天才と呼ばれた名手で、錦琵琶を創始した。が残念ながら早世だった。
 
 琵琶の師匠は、妹弟子に宗家を譲り、ご自分は別な派を開いて宗家を支えた。
 
 宗家を継いだ妹弟子はアイドル歌手の様な大変な人気を得た。

 「べっぴんさん」だった。

 師匠は、上品な美人さんだったが、お会いした九十歳手前の時でさえ、
 少女のあどけなさを保つ様な可愛らしい方だった。

   
 11月20日(火)   やられた
    一昨日のじわっと興奮のMOOCHYセッションバンドの余韻か?
 はたまた夕べ「予知夢(Swapna)」の記念すべき「第一作」を牧畜業者さんがなんと
 「マンドラゴラ」としたその「不思議世界」にハマったからか?
 夕べはちょっと心の表皮が弱々しかった。

 で、まんまとやられてしまいました。

 「猫Song楽団」のレパートリー集めで、たくさんの方から情報を頂きました。
 ありがとうございます。
 
 そして、夕べ聴いたのが
 ポンキッキーズの「ゴロちゃん」
 元来、ちょっとフレンチ・スタイルの「物語調」の曲には弱い所に
 何度も呼ばれる「ゴロちゃん」に

 不覚にも「切なく」なってしまいました。

 そこに前評判も無く、初めて聴いていしまった
 遊佐未森さんの「クロ」

 あかんかった。 

 
 夕べはトランペットのLisa&Yukiちゃんと、ベースの川田君がリハトラしてくれて
 練習。
 親不孝通りのローソンの歩道の植え込みに子猫を発見。
 と言いますか、僕が通った瞬間「呼び止められた」

 「福岡・猫さんの会」の表紙の写真の、直ぐ近くの長浜交番の黒猫さん。
 そっくりの子猫。

 この世に生まれてきた子は、みな「宝」です。
 どんな境遇であろうとも。どんな子であろうとも。

 でも、また「野良猫」が代を重ねて行く

 遅刻だったので、走ってスタジオに行ってメンバーに顔を見せて
 ギターを置いて戻って、ローソンで缶詰を買って。

 一瞬「シャー」っと言いましたが、美味しそうに食べてくれました。
 するといつの間にか中学生位の野良猫が
 でも子猫は臆せず頑張って食べていた。
 
 「福岡・猫さんの会」早く動き始めなきゃ。

 福岡はこの数日で「想い出した様に」
 急に寒く成りました。

 さて!

 気を取り直して

 って言うか、あらゆる事の「活力」の為に

 楽しい「音楽」して来ます。
 そう! 何かで「活力」を得て「音楽」頑張ってるんじゃなくて
 「音楽」で活力を得て「何か」色々やっている感じです。
 

 VooDooLounge 20:55予定
 R&B&Modern-Blues楽団「Heart-Gate-Blues-Band」

 宜しくお願いします。