若林忠宏 個人プロフィール

 
生まれ
性格
趣味/好み
両親/家系
小学校
   
 
中学
高校
大学
ライブハウス
現在
 


名前 わかばやし・ただひろ
 
photo by Keisuke Etou2006

 水戸藩の足軽頭のご先祖からの系譜ということで、長男には「忠義の忠の字」が義務付けられていました。
 一族の大元の出身は信州らしく、父親は「忠昭」祖父は「忠雄」。 忠宏は十二代目。ご先祖には申し訳ないですが、男子は居ませんので十三代目は空白と成りました。
  小学校の入学式の後、机の名札に平仮名で自分で書く名前が収めきれず、「わかばやしただ」で終わってしまって泣いて帰った時以来
「平仮名九文字」はさすがに多いと痛感しております。オリンピック柔道の野村選手と同じ字同じ読みですが、いまいとつ愛着が湧かないのは、小学校のトラウマのせいかも知れません。 

 ところが、最近に成って思い始めましたのは、信用されたり期待されるほど頑張る性格。それによって自分も伸ばされる。そんな半生を振り返って見て、あくまでも自分の尺度と記憶ですが、信用や期待を裏切った事は無いと思います。それもこれも、この古めかしい名前を背負って来た御陰だったのかも、と。
  伝統を踏襲していたからこそ守られて来たのかもと思ってみると急に感謝の念が湧いて来ます。これからも、人々の期待や信用を裏切らず、世の為人の為に尽くす事、その生き様を持ってして、十二代続いた決まりを守られて来たご先祖様に懸命に報いたいと思ったりします。

 一方で、「忠」は「忠義」の「忠」でもありますが、「忠誠」「忠実」などに見られる様に「純粋な心」をも意味します。
  名前に「心」の字を頂いた者は「心」の仕事をする人が多いと聞きます。時に「心優しく」時に「心弱い」部分もありながら。
 唯一の男子であった父は「芸術」の道を選びました。その時点でお侍の血筋のご先祖様の中には目を丸くした人も居たかもしれません。
  思いがけず私も、その道を受け継ぎましたが、その意味では娘も甥っ子も
「心」の仕事の家系の三代目です。
  娘の名はサンスクリット語の「心を彩る」から頂戴し、甥っ子は日本人の心の故郷のひとつ「大陸」から字を拝借しました。
  お人好しのところや、情にほだされ易いなどばかりを受け継いでいる様な気もしますが、幸いに娘も甥っ子も心優しく純粋な若者です。
 
 忠義は、裏切らない結果ではなくて「心に背かない」なのかもしれません。
「忠義」は「心」と「義」。同じ平面に在る様で居て、ある意味相反する矛盾の様なもの。「心を重んじて義と為す」そんな解釈を「良し」とするご先祖様も居てくれるのでは、と思います。
  孫に名前を付ける立場を授かったならば、娘、甥っ子の子どもには「心」の文字を継いで貰いたいと思い始めた今日この頃です。
   
   
  生年月日 1956(昭和31)年12月23日(山羊座) A型

 母方がクリスチャンなので、母の実家、豊島区椎名町に近い目白の「聖母病院」で深夜近くに生まれました。シスター姿のナースに抱かれている写真が残っています。
  「皇太子(今の天皇)様と一緒
」と煽てられても子どもの頃は意味分からず、クリスマスにも父親の誕生日にも近いのでいつも一緒に祝われたので嫌でした。
  大人になってからは、年末近くの誕生日に歳を取って、年開けにまた歳を取ったような気がしてついつい二歳多く考えてしまい良い大人が相変わらず一瞬考えるのでしばしば怪訝な顔をされます。

  好みの星座は「天秤座」とか「魚座」なので、崖を登って降りられなくなるようなイメージの「山羊座」も自分の性格を象徴している様で照れくさい、と言うか好きじゃない。 しかも山羊座のA型は2006年現在、日本の首相と同じ。自分ではまじめにやっているつもりでも端から見ればあんな風(雰囲気ばかりで、怪しくて言い訳がましい)なのか?と客観的に考えると、確かに幾つか思い当たることも有って、一層愛着が遠のきます。

 小学校低学年の自分の誕生日の日に父方の祖母が亡くなりました。初めての誕生会が流れた事もあってとっても悲しく、祖母を心から送れなかった。そんな複雑な気分になるからでしょうか、誕生日〜クリスマス〜大晦日は、秋の雨の日と並んでナーバスに成る時期です。
  小学校中学校の頃の飼い犬は大晦日に逃げてしまって、第二の父親の様に慕った叔父も、母親も大晦日に倒れたり。民族音楽センターを始めてからもその時期になるとお弟子さんもスタッフも帰省してしまって。
 小学校時代は母の実家で盛大なクリスマス・パーティーと、日を置かずに盛大なお正月で毎年暖かい集いにはしゃぎ回っていました。楽しかった筈なのが、何処かで
永遠につづく幸せじゃない様な気もしていた山羊座A型長子気質がありました。
 ライブハウスをやっていた20年間は、イベントを企画したり、教室生徒さんがみんなで祝ってくれたり、楽しい想い出もあります。が、店を閉めてからのここ数年は、大量楽器作り(滅んだ幻の楽器の復元) で気を紛らわしていました。
 
 2005年は九州民族音楽センターの基盤作りで楽器制作もお休み。
  ところが九州に同じ
山羊座A型長子のお友達が出来、誕生日〜クリスマス〜大晦日は合間に帰京もしましたが、お友達とそのまたお仲間に暖かく迎えられて、小学校ぶりの幸せな時を過ごしました。
 2005年も同じく楽しく過ごせたら良いナ。
  ではなく、今年は私が皆さんを楽しい会でおもてなし出来たらと思います。

   

   
性格  

【ややこしい性格、らしいです】
 回りの評価では「頑固」「我が儘」「自分が何時も正しいと思っている」
「人に厳しい」「人使いが荒い」とかなりやな奴の様でもあります。
 自己評価では「おっちょこちょい」なくせにその反動で「考え過ぎ」「だんどりに神経質」その点では、決まり事にこだわる猫とは凄く暮らし易いです。

 心理学的に言っても「こだわり」と「常動志向」は「幼稚」「社会性の欠如」の典型です。当然のごとく、親しくなった人には「びっくりするほど子どもだね」と言われてしまいます。確かにその部分もありますが、基本は「山羊座A型長子」。これでも「人の為に良かれ」ばかり考えていて、むしろ「自分の我が儘」が分からない程、気を遣っているんです。

   このややこしい性格について述べていましたら、長大な文章になりました。
別ページに移し、書き掛けです。そのうち書き上がると思いますので、お暇と興味がありましたら「考え方と性格」を覗いてみて下さい。

   
  政治・宗教  
 身内が左翼系から保守系に変わったり、仏教系から神道系に変わったりしたので、子どもの頃から一歩引いた感じでした。
 民族音楽を学んで行くと、例えばインド音楽の場合、両極端なヒンドゥー教、イスラム教の文化が共存し乍ら育てて来たところがあり、アフロ・カリブ音楽の場合はカソリックとアフリカのアミニズム宗教の文化が融合していたりなので、宗教的には 何にも属さないのが好都合でした。
  それでも、自分は信心深くあり続けたいと思っています。ですが、まず人間ありきの宗教感はちょっと違和感を感じます。人間に神様が居るなら猫にも、昆虫にも神様が居ると思いたい感じです。
   
   
  趣味  

 民族音楽演奏や民族楽器作りも始めた頃、それは「趣味」としか言われませんでした。今は「昆虫飼育」がそう言われてます。
 「仕事を優先したら中断せざるを得ないもの」「その代わりに楽しみを追求する」のが「趣味」なら昆虫飼育は相手が生きているので中断も濃淡も付けられません。
  強いて言えば飛行機と船のプラモデル作りが「趣味」かもしれません。 2000年に再開し72分の1スケール・モデルで世界中のメーカーの世界各国の第二時世界大戦機と民間機を600機ほど作りかけ。ひとつずつ作るのではなく、同じ航空機会社(メッサーシュミットなど)の同時代の同系統をまとめて作ります。その辺りの魂の詰め方は音楽や昆虫飼育と同じなのですが、600機の全てが車輪格納部と座席を作った所で「中断」していますから、「趣味」なのだろうと思います。

   
   
  好き嫌い  
   昆虫(甲虫と直翅目と一部の蝶)は大好きなくせに足が6本以上、または4本以下の生き物は苦手です。
  両生類も駄目。これは父親譲りです。海に居る無脊椎動物も駄目。足の無い爬虫類も苦手。人恋しいくせに人間も苦手。????。
 
 食べ物は20歳になるまで好き嫌い無しでした。ただし子供の頃どっちかと言うと貧しかったので、高い食材は今でも苦手です。
 それもあってかいわゆる珍味に全く興味がありません。「珍しいから食べてみたい」という感覚は皆無です。 むしろ「常動志向」が強いので三食同じおかずで1年でも平気です。実際猫と住む様になってほとんどそんな状態です。
  大好物は「冷奴」でも、生姜、ミョウガ、ワケギ、おかかが全て揃ってないと嬉しくない。
 20歳の時インド音楽仲間に「お前、インド音楽やるのに菜食主義じゃないのは間違っている」と言われ菜食主義になりました。
  始めの3年は根菜も食べず、禁酒禁煙の完璧を通す。私にそう言った彼が肉食していたり、家族に迷惑がられて、「魚介類」「煙草」「お酒」と徐々に解禁。非肉食のみ続き、最早28年目。
 愛煙家。でも邦楽お稽古では数時間禁煙します。インドなど現地では何故か殆ど吸いません。日本でのストレス解消と切り替えが要求されるのに必要らしいです。ポイ捨ては20年してません。指で火を消して吸い殻はポケットへ。JTの企業コマーシャルで雑誌に出たことが有ります。
   
   
  両親と家系  
 

 父親の生家は水戸駅近くのお屋敷で、祖父は水産会社の上海支店長。父親は上海生まれました。
  母親の実家は東京池袋に近い椎名町のお屋敷で、祖父は米国クラーク大学卒でイギリスの配管部品会社の総代理会社社長。祖母は京都の楽器店の娘でクリスチャン。すなわち両親はかなりの金持ちの子女。
  しかし戦争後両家は不在地主で別宅や土地を奪われるなどで一気に中産家庭に。若林忠宏の少年時代の経済状態は下の中程。
  親のボンボン&ご令嬢感覚と実生活のギャップは大きくかなり苦労させられました。
  父親は元文学座の俳優でしたが、きっと営業的センスに欠けたのでしょう。あまり有名になりませんでした。おそらくTVの仕事も嫌いだったのでしょうが、有名な演出家さんに気に入られてK.H.KラジオやTVの有名な番組に出たこともあります。N.H.K.ドラマの「タイムトラベラー」の望月博士役だった様です。ご記憶有りますか?

 芸術家肌の父の仕事と母親のピアノ教師の仕事で裕福ではありませんでしたが、どうにか学校に通わせて貰いました。

 自分が大人に成って色々分かってみれば、父親の何処かマイペースなO型と母親の一日の中でも様々に変わるAB型という超絶的な組み合わせによって、我が家はかなり混乱と矛盾に満ちていた家庭だった気がします。

 恐らく父親が目指していた「新劇」は、今日の様にTV俳優と同化する様なものではなく、かなりにアンダーグラウンドなものであった様です。
 海外、特にフランスや東欧諸国での評価はかなり高かった様です。
 家族の為にも日本での理想的なポジションを求めて色々努力したに違いないのですが、子供心には「付き合う仲間が変わる度に雰囲気が変わる」感じに映りました。
 母親は、あれこれ良かろうと一杯考える性格だったと思われますが、これも子供心には「日に数回A型B型を行き来していた」様に映っていました。
 今になって考えてみれば、親の親としての苦労以前に人間としての努力、社会人というよりも芸術家とその妻としての苦労が全く分かってなかったと思います。
  子どもの頃は、そんな理屈、構造が分からなかったので必死で両親に追従して、その結果かなり混乱しながら成長して来てしまった様な気がします。

 写真:赤塚不二夫さんの漫画で流行った「シェー」
  後ろの当時文学座俳優だった父も上機嫌。もっと小さい頃、お客さんが来る度に出されて「ツイスト」を踊らされるのは辛かったが、シェーは嬉しそう?

   
   
  小学校時代  杉並区立荻窪小学校
 

 杉並区立荻窪小学校は、新宿から吉祥寺までのJR中央線の荻窪駅、渋谷から吉祥寺迄の井の頭線の富士見ヶ丘駅の中間位の、当時は長閑な住宅街にありました。
 主にサラリーマン家庭の子息、お屋敷エリアもあって経営者級の裕福な家庭も多い学区でした。

 私は、小学校六年間を通してかなりにボケ少年でした。端から見るとやることがユニークだったらしく、将来は「このままお馬鹿さんか大物」と言われていました。
  勉強が嫌い。と、言いますか興味が無い事は全く無反応。家に帰って病弱な妹と遊んであげることと、夏は昆虫採集、冬は艦船手作り模型に明け暮れていました。
 興味がある事に対しての集中力は半端じゃなかった様です。自分でも昆虫学者か船舶設計者か船乗りになるのが夢でした。その代わり学校は唯一の楽しみである給食の為に行っていた感じです。
  小学2、3年生時、片仮名を全部読み書き出来たのは「昆虫図鑑」の御陰です。加えて、旧日本海軍艦船の名前を駆逐艦迄全部暗記してので、日頃の行動のユニークさを加えて「天才かも知れない?」「でも何故それが学校の科目に生かされないのか?」と周囲を悩ませていた様です。

 「自意識」というものが全く欠如していた少年でした。と、言うよりそれは青年に成っても同じだったかもしれません。今もかも。
  忘れ物が多く毎日何かで廊下に立たされましたが、自意識がほとんどなかった御陰でさほど苦痛ではなく、「役者の子!!」と石を投げられ虐められ、庇ってくれた女子とばかり遊んでいれば「女ったらし」と石を投げられるなど、かなりに虐められていましたが、いじめを認識したのは中学に入ってから、というほど自意識がない、ノンビリ少年でした。

 自分の記憶にある小学校の辛い想い出は、従兄弟のお下がりのハイソックスがたるんで丸くずり落ち、何時もショートソックスになっていたことだけ。

父親が野鳥を数百羽飼っていた世話を手伝わされていたので、学校でもうさぎ小屋の飼育係を拝命、何時も生き物の世話をしていました。

 普通の子と違うユニークさが原因でしょうか?
五年生の時に六年生女子の間に何故かファンクラブが出来ました。
  その中のボス格の女の子が、ある女の子との交換日記を強い、訳も分からず逆らえずに従った、という今思い出せば赤面の記憶があります。
  女の子は進学の悩みや、部活の楽しさを書くのに、返す日記は「今日カナブンを数匹捕まえました。凄く奇麗で感動しました」のノリでした。
  写真:左、割り箸細工の船に夢中。右、我が家のアヒル。

 小学校時代で両親や叔父達に感謝する点は、子供の趣味なのに本格的に応援してくれたことです。夏場の趣味の昆虫採集では農林研究所当時に連れて行ってくれて昆虫学者の服部先生にお話を伺え、冬場の趣味の船舶模型作りでは当時からサントリーCMで有名だったイラストレイターの柳原良平さんの「船ファン・クラブ」に最年少で入会させてくれました。
左の葉書は、会員証代わりの柳原氏の直筆絵葉書。
超貴重品です。

   
   
  中学校時代 杉並区立宮前中学校
 

  「虫を卒業しないと中学生になれない」と誰かに言われた様な気がします。 小学校を卒業と同時に大好きな昆虫と泣く泣く決別。しかし中学生になりたかった訳じゃありません。大人に成りたかった訳でもない。その証拠に、昆虫の代わりに第二時世界大戦期の航空機のプラモデル作りに没頭しました。
  小学校時代の船舶ファンから航空機ファンに鞍替えしたのは、船の模型は作っても作っても母親のハタキに撃沈されたからもありました。飛行機は天井から糸で吊ってハタキ攻撃から守られました。でも、下から見るばかりでちょっとつまらなかった。
 端から見れば「似た様なもの」かもしれませんが、回りのプラモデル好きの子供は戦車ファンが多かったのに対し、武器っぽくて嫌でした。グラマンの機銃掃射を目撃した母にしてみれば、埃だらけの帆船模型の方がましだったかもしれません。飛行機プラモのマニアの同級生も居ましたが、そのグループのボスに虐められていました。それも高校生になって認識しました。虐めの理由は従わなかったからだと思います。

 バスケット部に強制入部させられましたが、興味が無いので適当にやっていたので常に二軍でした。
 ところが、ある対外試合で一軍が全員5ファウルで私たち「やるき無し組」に交代となり、駆り出されました。するとどうした事か私が大量得点を上げて逆転勝ち、学校の運動部にファンクラブが出来ました。後輩の運動部の男の子達がゾロゾロ付いてくる不思議な光景でした。
  ところが次の試合で一軍スターティングメンバーで出場したのですが、その日はメロメロ。ファンクラブも即日解散した様です。
  元々他人の評価の為に頑張ったのではないので、傷つきはしませんでしたが、この頃にメジャーになる、人に評価されるということの「底の深さ浅さ」を思い知ったのかもしれません。

 一年生の中程に従姉妹にポピュラー・ミュージックという音楽が有る事を知らされ、貰ったラジオで深夜放送にハマりました。野沢那智さん、亀渕昭信さんが大スターの時代です。
  アメリカン・ポップスや未だ存在していたビートルズを聴き漁り、二年生になる頃にF.M.で民族音楽、バロック音楽、邦楽と出会ったのが今の仕事のスタート点です。

  二年生になって直ぐ、同じバスケ部の二軍仲間の水木君と民族音楽デュオを組み、手製民族楽器で練習を始めました。
  夏休みに自作した国産初のインド太鼓タブラで、水木君はまぎれもなく日本初のタブラ奏者となりました。シタールの方は、五つの赤い風船などで弦楽器を弾く西岡たかしさんなど、ビートルズエイジのミュージシャンが既に弾いていましたので、若林は日本で三人目くらいです。

 深夜放送を聞く為の理由だった勉強がだんだん面白く成って来て、三年生の秋に偏差値が急上。皮肉な事に職員室に呼ばれ「急に成績上がってどうしたんだ!どうせお前気まぐれだろ?本気ならこっちも対処するがその代わりに本気で勉強してきた奴がひとり志望校を変更するんだぞ」とお説教されました。
 成績上がって説教されるのも面白いナと思い 「ハイ気まぐれです」と答えて当初のランクの高校を受験することに。家の経済的な事情もありましたが、気ままな勉強だったので、塾やゼミナールに行った事は強制的な模試のたった一回のみでした。               写真:左、水木君と右、若林。

 中学の卒業演劇祭では「役者の子」であり都立高校一本しか受験しなかった暇を指摘されて脚本、演出、助演、音楽担当を押しつけられました。
  逆に誰も文句言わないのでやりたい放題。ストーリー上唐突に登場するインド少年がインド音楽を演奏する場面を無理無理ねじ込みを自作インド楽器で自演しました。
 これが若林のインド音楽の初演となりました。
  演劇祭フィナーレの総評では教頭が名指しで絶賛してくれました。
 写真:演劇祭。ベニヤに描いたサラスワティ女神が中学生らしからぬ?若林は中央奥で手製民族楽器を演奏中。

 音楽教員の恩師、小林光雄先生は故小泉先生のゼミ門下生でもあって、貴重な資料を沢山聴かせて下さいました。「世界の師匠は十人十色」(ヤマハ・ミュージック・メディア)でも延べましたが、代わりに合唱部に入れられて全国準優勝などを経験しました。この頃に味合った皆でひとつの音楽を作る喜びは、その後の民族音楽活動の良くも悪くも基盤になっています。

 高校入学前、母には随分散在させました。私立高校は受験さえしなかったので「塾や受験費用の分ヨ」と言ってはくれましたが、通学用のドロップ・ハンドルの自転車に加えて、本物のインド弦楽器シタールまで買って貰いました。
 わざわざ玄関先で母とポーズを取っているのは母が卒業した自由学園関連の雑誌「婦人の友」の記事用の1ショットです。
 にも関わらず、高校二年生の頃から自転車を学校に置きっぱなし。遊び友達と井の頭線で吉祥寺迄遠回りして帰るようになりました。半年後その自転車は部品を取られ残骸になってしまいました。
 その後ろめたさから、以後30年自転車を持つ事をしませんでした。娘を保育園に連れて行ったのは母のママチャリ。そのママチャリは大切に使いました。
  ライブスポットの仕事が終わって帰る時、深夜に若造がママチャリですからしばしば職務質問されました。ところがあまりに昔の防犯登録なもので、問い合わせに時間が掛かり、お巡りさんが恐縮し乍ら「随分大事に使っていますね」と二三回言われました。
  そのママチャリもつい数年前、お弟子さんに貸したら盗られてしまって。やっとマイ自転車を買いました。今では福岡でも持っているので急に贅沢な感じです。
 初代シタールの方も、高校の文化祭で演奏する度に楽屋や部室で倒されて干瓢の胴体はヒビだらけになりました。当時はケースなど現地にも無かったのです。ビートルズのジョージ・ハリスンでさえ布袋でした。
 それでも接着剤で直し乍ら使っていましたが、ライブスポットを始めた頃、インド旅行好きだったグヤトーン(日本のエレキギターの老舗。現社長にシタールを指導した時期があります)現社長に買って来てもらったシタールを使う様に成って以後、初代シタールは20年近く棚の中でした。
 10年前に母が倒れた時、思い立って大修理をしました。母は奇跡の生還を果たしました。初代シタールは今も教室で生徒さんに愛用されています。
 
 
杉並区立宮前中学校時代は、私にとって色々な事の原点でした。夏休みにくり抜いて作った国産第一号のインド太鼓タブラの丸太を貰った林に囲まれた長閑な中学校でした。そのタブラの丸太は小学校の頃クワガタを採ったクヌギの木の一本が切り倒されたものでした。そのタブラの胴体は今も吉祥寺にあります。
 数年前、中学とその周辺の林を見に行って来ましたが、面影もなくなっていました。一番大きなクヌギの木は切り株だけが残っていて、「すみませ〜んクワガタ採らせてくだい」と言って「樹を傷めるんじゃないゾ」と言っていた同級生のお父さんと記念撮影をして来ました。中学の裏の林はクヌギを少し残し乍ら洒落たマンションになっていましたが「宇多田さんの旧家を見に来たの?」と言われて驚きました。
 そう言えば、現在タブラ教室のあるクラスに宮前中学の先輩と後輩が居ます。
先日パーカッション教室にも中学の同級生が入学しました。
 なんだか東京じゃないみたいな感じですネ。

   
   
  高校時代 都立豊多摩高校
 

 都立豊多摩高校は、民族音楽演奏家としてのデビューと、甘酸っぱい青春の想い出が詰まった中学とはまたちょっと違った基本を育ててもらった学校です。
  バスケ部は同じ中学の先輩のいじめに合い逃げ出してしまいました。思えば 人生初めて認識した挫折だったかもしれません。

 インド音楽の仲間を求めて入った軽音楽同好会でロックをやったり、文化祭でインド音楽展をやったり。高校入学直前に本物のシタールを買って貰い、高校1年生の時に渋谷じゃんじゃん、池袋パルコなどで演奏。初めて付き合った彼女が遥かにマニアックな音楽ファンで、フランクザッパやヴェルベットアンダーグランドを聞かされ、凄く影響を受けました。

 二年生の頃、両親が別居。海外公演も多く元々家に居ない父だったので申し訳ない事に、寂しいとは思いませんでした。
  困った事と言えば、高校を中退して平家琵琶法師になる決意が打ち砕かれたこと。障害者の母と体が弱かった娘を養う重責を過度に思い込んだからでした。
  二年生の頃、半年程地元の暴走族に混ぜて貰いました。
 同級生や先生は「両親の離婚で荒れた」と思っていた様ですが、思い込みの重責から「思春期を大急ぎで卒業して大人にならねば」と思ったからです。
  中学三年生の偏差値が急上した頃に「ガリ勉」の烙印を押されましたが、
「不良」の烙印は体験していなかったから。

 「世界の師匠は十人十色」(ヤマハ・ミュージック・メディア)にも書きましたが、色々あった後、高校三年の最後の数ヶ月に再び猛勉強しました。その甲斐有って? 幸運な事に高校は東海大学への推薦を出してくれて、ほとんど無試験で入学しました。

                 高校の音楽教師は民族音楽に理解が有って学期末はいつもシタールで実技試験を受けさせてくれました。二年で95点、三年で98点。先生は若林の上達をしっかり見取ってくれたのです。にもかかわらず異常に高い点数に音大志望の同級生達は「インド音楽の善し悪しなんて先生も分かる筈がない」と抗議。まだまだ西洋クラッシック音楽一辺倒の時代でした。

写真:左上、池袋パルコでのタブラ演奏(1973)。右下、豊多摩高校文化祭でのインド音楽楽団(1975)、左下、ツッパリ仲間とキャロルのコピーバンドを結成。グレコ・セミアコ・ベースとヴォーカルを担当。

   
  大学時代 東海大学文学部・文明アジア学科(湘南)
 

 高校の推薦でほとんど無試験で入学。入学金は「最後の援助」と父が出してくれましたが「学費は自力で」の約束で私大の東海大学に進みました。
  進路を考える時期になった頃、両親や親戚から「本気で民族音楽を研究するなら大学の力を借りるしかないのでは?」という指摘がありました。
  その頃に一般音楽ファンへの民族音楽紹介の第一人者故小泉文雄(元芸大楽理科教授)先生に演奏会でお会いする度に色々アドヴァイスを頂く様になっていましたので、自分でも国立の芸大ならば学費も安いし小泉先生に色々教われる、とちょっと考えました。が、先生が音楽大学ではなく東大美学卒業と知り、自分も独自な道で学んで行こうと決意したのです。
 これは、その後の私の独自な民族音楽修行と今の私の立場を決める程の大きな選択となりました。
  高校一年生のインド音楽デビュー当時に、ビートルズやサイケデリック・ミュージックの時代にインド音楽にハマった人々や、瞑想音楽としてインド音楽を捕らえる人達と沢山出会いました。母方の一族は西洋クラッシック音楽。小泉先生は少し楽器も弾かれましたが研究者であって演奏者ではない。そんな環境と経験から、まだ誰も例がない「演奏する研究者」を目指す決意をしたのです。
 大学ではアジア文明学科で、ヒンディー語、ペルシャ語、アジア文明史を学ぶつもりでした。文化と語学を学べば、現地に赴き演奏技術を身につけるだけです。
 学費の為に、夜のスナックの厨房や歌謡曲の弾き語り、キャバレー・バンドのベース弾きでバイト代を稼ぎながら、生まれて初めて半径10km圏内を越えて、二時間も掛けて通った大学はいたってノンビリとしたところでした。
 深夜バイトを終えて数時間睡眠で湘南迄行ったのに休講はしょっちゅう。巨大過ぎる校舎で学長講義の校舎まで休み時間にたどり着かないという不思議な大学。高校で使った副読本で英語の授業だったり、夏休み前に様々なギャップが増大。あえなく挫折。前期で中退してしまいました。


     
     
その後  キャバレー・バンドや弾き語りから民族音楽ライブスポットまで。〜つづく。
     


2004年現在の生活
   猫達と暮らす様になる前、3ヶ月で45枚のCDを作成した時点で90分数回睡眠が定着。これはかえって猫達とひじょうに相性が良い。どのみち90分か3時間で猫達の運動会で起こされてしまうから。原稿の締め切りや、昆虫・水槽でトラブルがあると睡眠が何処かで割愛される。
 猫達が決まった生活を臨むので、比較的人間も規則的に成ってしまう。外部演奏や録音のお仕事が入ると、人間の部分が変更され、土日の教室は午後からなので、何かを割愛したりずらしたり。その点は完璧なバランスになっていない。
 一応24時間的に分析してみたが、平均すると26時間サイクルの様な気もする。
  正午〜深夜
正午〜1:00頃:買い物など。
2:00頃〜4:00頃:昆虫/水槽作業。
4:00〜5:30:睡眠
5:30〜6:30:風呂/洗濯
7:00〜10:00:教室/楽譜・楽器作業
10:00〜12:00:原稿書き/HP作業

この間に猫と自分の食事や掃除
深夜〜午前中
12:00〜3:00:原稿書き/HP作業
3:00〜6:00:睡眠
6:00〜7:00:昆虫餌遣り
7:00〜8:00:猫食事とゴミ出し
8:00〜9:30:睡眠
9:30〜12:00:原稿書き/事務作業


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