ネット・ミニ論文その2「民族音楽と昆虫の寂しい関係」
 

 民族楽器を演奏する人で、僕以外にも昆虫飼育にハマッている人は居ます。多いか少ないかは分かりませんが。たしかスカパラの打楽器奏者さんはクワガタ飼育をされていたと思いますし、実は僕に昆虫飼育を思い出させた張本人は、当時シタール教室に通っていた京劇写真家中馬氏のお友達の女流三弦(中国三味線)奏者さんです。彼女もオオクワガタ飼育マニアのようです。その他にもきっといらっしゃる筈ですが、その趣味の昆虫飼育とお仕事の音楽、民族楽器演奏を結びつけているのは、おそらく僕くらいなものでしょう。昆虫が趣味のレベルを超えたハマり方であるのか、民族音楽がプロ意識に欠けているのかは別なテーマですが、僕の中でどちらも似た様な意識、感覚であることは間違いなく、その結果、常日頃関連させて考えてしまうところがあります。と言いますか、意図的に結びつけなくても似ているなアと自然に思えて来るのです。それは日本人の民族音楽、もしくは昆虫とのかかわり方です。


 まず日本に於ける昆虫ファンを以下の様に分類してみます

1、 昆虫ウォッチャー  プロ、アマを問わず、昆虫写真家さん、及びトレッキング、ハイキングをしながら、昆虫を観察するのが趣味の方。
  彼らは決して昆虫に触れたり、採集したりはしません。その点で美しく正しい意識と評価されます。が、内心、自然破壊を憂い、昆虫採集をする者を疎ましく思っていても、何も発言しませんし、行動しません。人によってより自然に近い状態、環境を求める人と、人間の生活圏の中で健気に生きる昆虫をより愛する人がいますが、ひたすらマイペースで客観的な立場を取り続けるところにスタンスを求めている様です。もし彼らが昆虫採集と飼育を批判するのなら、僕らは彼らを傍観者、ノンポリと言い返すでしょう。

2、昆虫採集家

 むしろプロという方は少ないと思われますが、昆虫標本を目的とした採集家です。彼らには彼らのポリシーがあり、その時々の各地に於ける昆虫の生息の事実をより正確に記録する為に、学術的な方法に従って標本目的に採集しています。基本的にはそれによって種が激減する筈もない、という考えと、絶滅危惧種ならば尚の事標本に残すべきだ、という考えがあります。放っておけば蟻に喰われ土に帰り、生息の正しい記録が残らなければ自然保護の為の正しい情報も得られないという考え方です。
 その様な意識と学術的な方法論から、昆虫の触角や足の先の付節などを痛めずに採集する技を磨きます。彼らは採集した瞬間に、昆虫を酢酸エチルなどでシメてしまいます。痛むことに加え、自然死だと色が変わるからです。しかしながら、標本採集家同士で希少さや大きさ見事さを競っていることも事実で、どこの公共機関に頼まれた訳でもないのに我こそが選ばれた採集資格を持つものゾ、という感覚を持っていることも事実です。もしくは人の趣味がとやかく言われる筈もない。誰にも迷惑を掛けてないゾ、と思っているかもしれません。これを公共機関が本当に採集家を認定すれば良いか?と言うと、得てしてそういう人が昆虫を分かってなかったりで、中々難しい事になります。


3、昆虫飼育家ーA  僕は一応この人達の中に属します。が、微妙にスタンスが違うのです。僕らの基本は、自然に対する無謀かつ冒涜的な挑戦です。
  生態の研究と言えば聞こえは良いですが、自然下で行われている神の領域を、自宅の飼育環境で真似ようというのです。しかし、それによって自然環境を深く理解し、生き物の生態を理解し、求められればより正しい自然保護の方法についての深い知識を持っている筈です。ところが、飼育には、何故か流行があるのです。僕も世界の昆虫を彼ら同様ショップで購入しますが、流行によってショップの入荷も変わるので、僕がやっとの思いで羽化させたら雄が足りない雌が足りない、しかし今年は流行ってないので入荷しない、などと言う驚嘆の事態に直面しました。僕の目的はかつて自分の家の回りに居た昆虫の復活を願う、日本普通種の飼育法の確立が主旨で、外産種の飼育は興味と憧れに後押しされた比較研究の為ですから、国産種に徹すれば良い立場ですが、流行と言うものにはホトホト腹がたちます。でも、流行と商業化のお陰で様々な餌や産卵木などが入手出来るので、流行の恩恵を受けて飼育しているのも事実です。

4、昆虫飼育家ーB

 上記の昆虫飼育家の最右翼は、昆虫をペットと考えている人達です。1960年代にシェパード、スピッツ、シャム猫、ペルシャ猫が流行り、1980年代にはシベリアンハスキー、アメショー、近年ではミニチュアダックスからチワワへ移行し、の様に所謂ペットとして認知された犬や猫の流行はあからさまですが、昆虫も同様です。1990年代はサイズが競われましたが、近年では希少種や形、血統が問われています。一時飼育困難種に挑み成功することを競う向きもあり、ある意味で飼育文化の向上が見られましたが、大勢にウケず、あっけなく下火になりました。驚かされるのは、自然環境に無いドッグフードを餌として与えることに始まり、蝶の蛹をクワガタ幼虫に与えて大きくするという凄まじい手法迄堂々と語られ、そのような雑誌が人気となっていることです。
  また、血統指向は完全なブランド指向で、自然動物禁輸国からの密輸も横行し、偽ブランドを売るブリーダーも現れる始末です。国内外の採集にあたっては、私有地に深夜入り込んで半枯れであろうと切り刻んだり、うろの隙間の昆虫を薬品で追い出し採集したりの暴挙が伝えられます。また、自然環境に無いブランド種同士の新種交配を自慢する人さえ居ます。
 昆虫ファンでもその行き過ぎた有様を批判する人は少なくありませんが、一般が批判することに関して言えば、犬や猫では新種交配が数100年堂々と行われているのですから、批判する資格は無い筈とも言えます。ミニチュアダックスって餌を普通にあげては駄目なんですって。普通ダックスの様に育ってしまうから(我が家の千恵はそれです)ですって。その話しを聞けば、行き過ぎた昆虫飼育家の話しもどっこいどっこいな感じです。その意味では昆虫飼育家の半数が今現在もっている良識はかなりまともとも言える筈です。その割には世間の目(どころか多くの場合家族の理解も乏しかったり)は冷た過ぎると言えます。

 次に民族音楽及び民族楽器ファンとマニア、研究家について見てみましょう。


  1、民族音楽リスナーA

 昆虫観察家と同様に、民族音楽をただ聞いて楽しむという方々です。僕も平素その方々に演奏会に来て頂き、膨大な民族楽器の保持から場合によっては(僕の中ではお金の流れをけじめているつもりでも、端から見れば同じ事)13匹の猫と犬、魚、亀、昆虫までが食べさせていただいているのですから、恩義は重々感じております。
 が、ひとりひとりからは、演奏会の最中笑顔の拍手を下さったり、演奏後声を掛けて下さった暖かい心を頂くことが多くとも、聴衆は全体としては大衆ですから、無くしてはならない文化拠点(僕のつぶれました民族音楽ライブスポットは素人過ぎた点が多々あるとしても)や本物の伝統を誰も止められずに無くしてしまうという結果から見れば、昆虫ウォッチャーが自然環境の消滅を傍観し、自分の時代に得られるもので満足しているのと同様に「ノンポリ的」とも言えます。また流行に左右され、カタログ情報を鵜呑みにする点では、自ら自然に入り込んで運命的に出会った昆虫を愛でる観察者よりも短絡的とも言わざるを得ません。食べさせて頂いておりながら批判するのは恐縮ですが。


  2、民族音楽リスナーB

 リスナーの中で、CDの珍しいものマニアックなものを追求する人達及び、録音マニアです。僕の演奏会でも素人レベルを超えた機材を堂々とセットして鑑賞なんだか録音なんだか分からない様な人は少なくありません。昔はあからさまに言って喧嘩しましたが、今では丁重にお断りしています。が、これは著作権的な問題でお断りしてるのではないのです。実際彼らには著作権問題と言って理解して貰ってますが、それを見て回りがつられるのを防ぎたいのが本音です。
  実は僕の場合、本当は録音されることに全く憤慨も無ければどちらかというと無関心なのです。録音のお仕事でさえ、三回に一回はミキシングに立ち会いませんか?と聞かれるのですが、「後はお任せ」と言うと怪訝そうな顔をされます。プロならばリスナーの耳に届くところまで責任を持つべき、という考え方です。ところが、僕の場合正直言って音に関しては、僕の楽器や声から発した時点、マイクの手前で終わってるんです。おそらく意識も責任感も。その代わり曲目解説やエピソードの様な僕ならではの話しや、僕の存在全体からヴィジュアルと気と音がミックスしたものを客席の最後列、否、ロビーの外迄伝える意識は持っています。故にその内の音だけ録って帰ろうという方々と大きなギャップを感じてしまうのです。有る時ついついエピソードが盛り上がって長くなったら「話しを聞きに来たんじゃない!」と怒った方が居ました。その意味で派手な録音をする方々は、昆虫標本採集家に良く似ています。僕の人生そのものの音楽は、音だけ持ってかれた時に既に死んでいるのでしょう。
 これは民族音楽教室のレッスンでも同様で、音どころか奏法の情報、音楽構造の情報だけ、しかも美味しい所だけ持って行こうという生徒さんが8割を超えているのにはほとほと悲しい限りです。彼らの音はひいき目に聞いても薄っぺらですが、それを良しとする聴衆が多いのですから困ったものです。


  3、民族音楽演奏家

 僕もこれに属するのですが、彼らと僕の根本的な違いは、僕は一つに絞ることが出来ません。何故ならば、基本的に自分は日本人だと思っているので、○○音楽だけをやるなら○○に住み、○○料理を毎日食べ、出来れば血を入れ替えるべきと考えます。ひとりでいろんな国の民族音楽に手を出している僕に「それぞれの音楽を本当に深くは愛していないんだ」とおっしゃる方が少なくありません。がそうおっしゃる前に「○○音楽だけを追求している」という方の演奏と僕の演奏を聞き比べて下さい。出来れば先入観無い様に目隠し的に。
 僕は、生まれ故郷の昆虫が居なくなったのを憂うのと同じに自分の回りに邦楽をやる環境が無かったことの憂いを持ちながら、世界の様々な音楽に興味を持ち、惹かれたのです。それはそれで純粋興味からでしたが、人前で演奏する事になった時点でスタンスを定めました。「無国籍より多国籍」「流行にはまず逆らえ」「通訳より翻訳」「より古い音楽を求める」「広く浅くを続けて行けば徐々に深くなる」などを心に決めてこの仕事を始めました。
  人は「色々な国の色々な楽器をやるのは凄く器用だ(全部いい加減に違いないと言う人も居ますが)」と言ってくれますが、全く逆さまで、凄く不器用だから出来るんです。未だに楽器を持って数分掛かってその国の気分になってやっと演奏出来る有様ですから。逆にその不器用さのお陰で自分よりも楽器、その音色、音楽が先行して演奏が始まるので、僕はそれが始まったら一生懸命にそれに付いて行くだけです。解説は日本人たる僕が、カメレオン的に豹変した僕の音楽を客観的に解説しているようなものです。
 寂しい事に、この感覚を共有出来る民族音楽演奏家にほとんど出会えていません.日本のみならず、世界の民族音楽演奏家の多くは何かひとつに専念していますが、それに不思議と流行とカタログ情報とブランド指向がつきまといます。○○音楽なら○○派だ、とか、楽器メーカーは○○が一番というような話しをしたがりますが、本当に自分の感性、耳で判断したとは思えない場合が少なくありません。と言うか、その違いを弾きこなせるの?感じです。
 一頃、日本人観光客の少女買春ツアー で悪評が高まったインドシナで、近年日本人向けの昆虫採集で家を建てた現地人が現れ地域の社会問題になりました。一部の日本人とつるんだ現地人だけが裕福になり、その為に木を切って(登って取るのが面倒で切り倒して採集したと言います)自然破壊から社会構造、伝統文化の崩壊につながりました。これと同じ事が民族音楽でも起こっていて、一部の海外演奏活動が出来た演奏家のみが生き残ったのです。これには日本人のプロモーターやお弟子が随分貢献しています。
 外国の音楽を聴くだけじゃなく、演奏しようということ自体は一歩進んだ理解につながりますが、演奏家がまるで音楽大使の顔をしたり自分が第一人者の様な顔をするのは、昆虫飼育家が我こそは選ばれし飼育家と思っているのに似ています。そんなに専門が尊いならその国に帰化すれば良いんじゃないでしょうか?日本への伝道者を誇ってみても、結局は輸入業者の様なものです。
 僕はそのおかしさに10代から気づいていたので世界中に手を出して結局はどれもインチキの悪評を専門指向の人達に頂く事になりましたが、インチキも年を重ねればそこそこにはなるもんです。


  4、民族楽器演奏家

 民族楽器を自分の音楽に好きに使っている人達です。もともとギターも一地域の民族楽器だったのですから、その他の民族楽器も普遍的に活用されても良い筈ですが、ギターが普遍的になったのには、本来持っていた不偏性を更に高めた経緯がある事と、その際に失った魅力も多々ある事を忘れてはなりません。それを覚悟でその他の民族楽器を転用するならば良いのですが、不偏性を見いだす以前に民族楽器が持つ魅力を端的に効率良く出すのには伝統民族音楽が最もふさわしいのは言う迄もありません。そのレベルにまで演奏技能が至って無い人がオリジナル音楽に用いるのは、民族楽器の美味しいとこ取りであり、それほど自分を持ち続けていられるのは民族楽器をペット化しているからではないでしょうか? 
 かく言う僕も、かつてはあらゆるスタイルを実践してきました。70年代サイケデリック音楽も演奏れば、ハイブリッドなミックス楽器も自作したり、オリジナル曲も作りました。が、行き着く所、その国の楽器が一番幸せそうな姿が一番嬉しいです。ところが、自分の心地よさを一番とする人がものすごく増えた今日、同じ雰囲気の演奏家がより好まれてるのが現状です。
 犬や猫が好きな人や、ペットの心理学を研究されている方までもが、我が家の子達の表情がとても伸びやかで良い顔をしていると言ってくれます.ペットとしてと言うより、犬や猫としてと言うより、生き物として伸びやかに生きているのでしょう。同様に、僕の楽器にはほとんど癖が付いていないらしく、来日公演で僕の楽器を使う事をあてにして荷物少なめで来る演奏家が数人居ます。逆に、僕が他人の楽器をお借りする時、その人の癖がついていて苦労させられることはままあります。同じ様にペットを愛玩している方の犬や猫が何のためらいも無くその立場にふんぞり返っていて、凄くお馬鹿な家畜的な顔をしている時や、愛玩の癖が染み付いているような感じを見る事も多々あります。僕は愛玩されている犬や猫に吠えられたりしますが、飼い主が手を焼いている子達には初対面でも好かれます。むしろそんな子達や、野良や半野良の方が賢い良い顔をしている場合があります。
 民族楽器も、犬や猫、おそらく魚や亀や昆虫も、愛情を注げば注ぐ程良い関係になるか?と言うとむしろ逆のようで、彼らに愛され、彼らが長閑に、持てる才能、感性をより多く引き出せる方が幸せそうです.彼らが幸せなら、きっと良い関係なのでしょう。こちらの思い通りにならないことも多いですが。ちなみに我が家のダックスは無駄吠えをほとんどしません。嬉しくて興奮すると大変ですが、ヒステリックになったことはありません。
 昔から「動物を好きな人に悪い人は居ない」と言われ、スローライフが流行語の昨今、「民族楽器を演奏する人に悪い人は居ない」などともてはやされつつあるような気もしますが、(僕は例外で) 本当は「動物に好かれる人で」でありましょうし、「民族楽器に愛され」でありましょう。いずれも抽象的ですが、後者の場合、「生音での鳴り具合」ではっきり分かる筈です。


  昆虫学者と民族音楽学者
 

 僕は昆虫学者の数人の方に師匠が居ます。最初の師匠は僕が小学生の時の農林研究所の先生です。そして僕は出来る事ならば昆虫学者になりたいと思う程憧れていますし、僕の師匠達は皆素敵な方々です。一方、民族音楽学者の方々にも大変お世話になった先生が居ますし、僕の仕事は学者であったなら世の中にもっと早く貢献出来たのでは、と言ってくれる方も少なくありません。が、僕の民族音楽の学者師匠の多くは専門が民族音楽じゃなかったり、出身が別だったりして、逆に民族音楽を専門で学ばれ学者になった方々とは接点がすくないのが現状です。正直彼らの様な民族音楽学者になる憧れは全くありません。
 この違いは何から来るのでしょうか?色々考えても良く分かりませんが、ひとつ気づいたのは、昆虫学者の場合国や大学の研究費の予算が農林業の利益を元にしている為、研究対象が自分が好きな昆虫とは限らない場合が少なくなく、研究のペースも到達点も要求されたものの中で定められているのに対して、民族音楽の場合、○○国の民族性を何時何時迄に分析すべく民族音楽を研究せよ、などとは言われず、言わば興味のあることか、人がやってないことをマイペースでやっている感じです。しかも昆虫に例えれば、触った事が無い人迄居て、触ることがあっても餌をあげて産卵させるほどの付き合いはしていないのに、演奏家よりもその音楽に通じているかの自負が有る点がままあるのが僕が憧れない理由です。

 
2004年8月4日 若林忠宏

  2004年7月雑木林管理人の勝手な思惑
  吉祥寺の雑木林の住民達